次の日。緑曜日。
朝食の時間が迫り、食堂に生徒達が続々と集まってくる頃。
ルークもその生徒達に混じって、学院の廊下を歩いていた。彼は1人だが、周りの生徒達は仲の良い友人と楽しそうに談笑している。
特に彼らの会話を盗み聞きする気は無いのだが、彼らは周りのことなどお構いなしに大声で話すので嫌でも耳に入ってしまう。しかも彼らの耳障りな笑い声や嫌らしい笑顔からして、おそらく誰かの悪口で盛り上がってるのだろう。
ルークは周りに聞こえないように、小さく溜息をついた。普段ならば即座に《ノイズ・キャンセル》で周りの音を遮断するのだが、今日は生憎一時限目に実習が控えている。魔力の無駄遣いは避けるべきだと判断した彼は、仕方なく我慢することにした。
そのとき、2人組の少年がルークを後ろから追い越した。周りの会話を極力聞かないようにしていた彼だったが、あまりに至近距離だったためにその一部を聞き取ってしまった。
「なぁ知ってるか? 例の乞食のこと」
「ああ、知ってる知ってる。とうとう本性を表したって感じだよな」
その瞬間、ルークの眉がぴくりと動いた。
――いつものような悪口にしては、何だか様子が違うな……。
ルークはローブの胸ポケットにそっと手を伸ばし、囁くように呪文を唱えた。
すると、周りの空気が彼に集まるように流れ始めた。他の生徒には肌で感じられる程度の微風にしか感じないが、その微風が生徒達の会話を彼の所まで運んでくれる。
そしてルークは、次々と聞こえてくる生徒達の会話に耳を傾けた。
「それにしてもさ、いくら何でも正体をばらすのが早すぎねぇ? 俺だったら、もっと周りが油断したときにやるけどな」
「そういうのが分からない馬鹿だから、結局捕まっちまったんだろう?」
「俺は最初から、そんなことだろうと思ってたぜ?」
「あぁ、乞食って本当に卑しい存在だよな。どうせいつかは何かの罪で捕まるんだから、警察も最初から捕まえとけよな」
「まぁ結局は、俺達とは住む世界が違ったってことだろ」
「マンチェスタ先生も可哀想だよ、助けてあげた子に裏切られるなんてさ」
「しばらく授業を休むらしいよね。やっぱりショックだったのかな?」
「いや、あいつが盗み働いた責任を取ったんじゃねぇの? あいつをここに招き入れたのって、マンチェスタ先生なんだし」
「じゃあひょっとして、マンチェスタ先生、ここを辞めちゃうとか?」
「えぇっ! 私はやだ! 先生に辞めてほしくない!」
――何の話なのか、盗み聞きだけじゃはっきりしないか……。
こうなったら直接聞き出すか、とルークは辺りに視線を向けた。
自分に一番近いのは、後輩らしき女子生徒3人組だった。彼女達はお互い寄り添うようにして、他の生徒達よりも若干小さな声で話している。その内容がアルについてであることは、すでに確認済みだ。
ルークはふっと体の力を抜いて緊張を解くと、口元に笑みを携えて彼女達に近づいていった。
「おはよう。君達、何の話をしてたの?」
「えっ……、あっ、リ、リヴァー先輩! お、おはようございます!」
「ど、どうかしましたか、リヴァー先輩!」
「わ、私達に何かご用ですか!」
特進クラスで1位の成績を誇るルークの噂は、当然下級生にも届いている。憧れの先輩である彼に話し掛けられた彼女達は、見ていて面白いほどに慌てていた。
「いや、君達がさっき話していた内容が少し気になってね。良かったら、僕にそれを教えてくれないかな?」
爽やかな笑顔を貼りつけて、ルークは彼女達に優しく問い掛けた。
「そ、そんな! 私達も友達から聞いただけで、詳しくは知らないっていうか――」
「それでも構わないよ。聞かせてくれる?」
「は、はい! えっと、昨日の夜に――」
大げさな身振りを交えながら彼女達が話す内容を、ルークは熱心に聞いていた。
彼女達が頬を紅く染め、うっとりとした眼差しで自分を見ていることも気づかずに。
* * *
学院を構成する5つの塔はすべて、屋上の部分がちょっとした庭園となっている。
周囲をぐるりと取り囲む赤煉瓦の道以外は芝生で覆われており、ごろりと寝そべることができる。また所々に色とりどりの花が咲き乱れ、そこを訪れた人々の目を楽しませてくれる。
ここは生徒達にとっての憩いの場となればという想いから、学院長の発案で造られた場所である。本来学院の様々な施設は教師や使用人が管理するのだが、ここだけは本人の強い希望により、学院長自身が半ば趣味でそれを担当していた。
「……はぁ」
バニラはそんな庭園にて、花を観賞するために置かれたベンチに腰掛け、しかし花の方には一切目を向けず、肺中の空気を吐き出すほどに大きな溜息をついていた。
彼女の周囲に人影はまるで無く、現在庭園には彼女しかいなかった。それもそのはず、現在は朝食の時間であり、生徒や教師は食堂に集結しているからである。
そして彼女はそんな時間にも拘わらず、1人こんな所で暗い表情を浮かべて俯いていた。本当は食堂に向かっていたのだが、行く途中で生徒達から漏れ聞こえてくる耳障りな会話に耐えきれなくなり、思わずここに立ち寄ってしまったのである。
その耳障りな会話とは、当然アルのことだった。
「まったく、みんな好き勝手言って……! アルちゃんが犯人なわけないんだから!」
アルと出会ってまだ三週間ほどしか経っておらず、しかもその内1週間は彼女を避けていたバニラだったが、これだけは自信を持って断言することができた。
なぜならば、アルにはそれをする理由が無いからである。今の彼女がお金を欲しがっているとは思えないし、仮にそうだとしても、彼女なら幾らでも稼ぎようがあるはずだ。
それに今回の盗難事件は、彼女にとってあまりにもタイミングが悪すぎた。彼女が学院に体験入学しているのを狙い澄ました今回の騒ぎは、誰かが彼女を貶めようとしているとしか考えられなかった。
さらに言えば、アルの犯行にしてはあまりにもお粗末すぎる。タンポポを咲かせる魔術でリーゼンドを退けるくらいに頭の切れる彼女が、こんな簡単に自分の犯行がばれるようなヘマをするはずがない。
「だとすると真犯人は、アルちゃんに個人的な恨みを持ってる人ってことか……」
バニラはそこまで考えて、思わず頭を抱えたくなった。彼女に恨みを持つ人物など、学院の中だけでもかなりの人数だろう。
「とにかく、一刻も早くアルちゃんの無実を証明しなきゃ……。他の人達を当てにはできないし、私が動かないと……」
とはいえ、真犯人が誰なのかバニラにはまったく分からなかった。何をすれば良いのかすら分からず、アルの力になりたいのに、と彼女は歯がゆくて仕方がなかった。
「どうしよう……、早く犯人を見つけないと……。マンチェスタ先生、相当怒ってたみたいだし、まさかもの凄く厳しい拷問とかするんじゃ――」
「誰が何をするって?」
「うひゃぁ!」
突然背後から聞こえてきた声に、バニラは思わず大声をあげて飛び上がってしまった。もしかして教師にでも見つかったのかと、バニラは緊張した面持ちで後ろを振り返る。
しかし次の瞬間、彼女の表情が戸惑いへと変わった。
「……ルーク、くん?」
そこにいたのは、学院中にその存在を知られた高嶺の花であり、もうすぐ1時限目の授業が始まるにも拘わらずこんな所にいるなんて想像もできない超優等生・ルークだった。
「……確か君は、バニラさんだったよね?」
「う、うん、そうだけど……。よ、よく私の名前知ってたね」
「まぁね、この前君が落としたノートを拾ったのを憶えてたから。――それに君は、この学院では有名人だしね」
「……そ、そっか」
どうせ“学院始まって以来の落ちこぼれ”とかそういうのだろうな、とバニラは若干表情を曇らせながら返事をしていたら、
「“現在最も有名人なあの乞食の唯一の友人”だってね」
「……あ、そっちね」
それを聞いて、バニラは秘かにホッと息をついた。
「それでバニラさんは、こんな所で何をしていたの?」
「え、えっと……、ちょっと気分が悪くなったから、ここで休んでたの。――ルークくんは、どうしてここに? もうすぐ授業が始まる時間だけど」
「僕もバニラさんと同じ、気分が悪くなってね。他の場所はあまりにも雑音がうるさいから、静かなここまで逃げてきたってわけ」
「そ、そうなんだ……。い、意外だな。ルークくんが授業をさぼるなんて」
「本当はそうしたいときも結構あるんだけどね。普段は学院長の目もあるし、怒られるのが面倒だからやらないだけで」
「ははは、そうなんだ」
バニラは笑みを浮かべながら、彼を好きな女子達がこれを見たら色々言われるんだろうな、と他人事のように考えていた。
と、そのとき、
「そうだ。バニラさんに、聞きたいことがあるんだけど」
ルークがその質問をした途端、口調や表情はほとんどそのままだが、彼を纏う雰囲気が若干剣呑なものとなった。
普段から人の顔色を見る癖のあるバニラは、それを敏感に感じ取った。自然と、彼女の目つきも若干鋭くなる。
「……何かな?」
「今朝から色んな所で『アルが宝物庫の中身を盗み出して捕まった』って噂を聞くんだけど、バニラさんは何か知ってるかな?」
「……どうしてルークくんは、それを知りたいの?」
そう問い掛けたバニラの声は、彼女にしてはかなり威圧的なものだった。ほとんどの者がアルに対して辛辣な態度を取るため、彼女も警戒しているのだろう。
しかし次の瞬間彼が口にした言葉は、彼女の想像とはまるで違った。
「僕もバニラさんと同じく、アルが犯人じゃないと考えてる」
「――ほ、本当?」
思わず身を乗り出すバニラに、ルークはこくりと頷いた。
「まずアルには、宝物庫の中身を盗む理由が無い。特にお金に困ってたわけではないし、彼女なら他に稼ぐ手段は幾らでもあるはずだ」
「…………」
「それにアルが体験入学のときにこんな事件が起きるなんて、あまりにもタイミングができすぎている。まるで彼女をここに居させまいとしているような、そんな作為的なものすら感じるよ」
「…………」
「それにこれが本当に彼女の犯行だったら、あまりにもお粗末すぎる。彼女ならばけっして自分が犯人だと悟られないようにするだろうし、下手したら盗難すら気づかせずに行うかもしれない。どちらにしろ、こんなのは彼女らしくない」
「…………」
ルークの口から次々と出てくるその言葉は、まさにバニラ自身がずっと考えていたことだった。学年一の優等生が自分と同じ結論に至ったという事実に、彼女は改めて自分の考えが正しいのだという確信を抱いた。
「……ルークくん。実は私、アルちゃんが捕まったところを見たの……」
だからこそバニラは、昨日の夜に厨房で起こった出来事の一部始終を彼に話した。当然その中には、アルが捕えられる原因ともなった“証拠”も含まれている。
バニラがすべてを話し終えると、ルークは何やら腕を組み、眉間に皺を寄せた険しい表情で考え込み始めた。緊張した面持ちで、バニラがそれを見守る。
やがて、ルークが目を開けた。
「成程、今のバニラさんの話を聞いて、1つ分かったことがあるよ」
「じゃ、じゃあやっぱりアルちゃんは――」
「いや、残念ながらそこに関してはまだ何とも言えない。でも少なくとも、マンチェスタ先生は彼女を疑ってはいない」
「えっ、本当?」
ルークの言葉に、バニラは目を見開いた。
「アルを殺すという結論になりかかったときを見計らって先生が動いたこと、拷問すると言いながら所々彼女を気遣うような行動をしていること、アルを人目のつかない場所に匿った形になったことを考えると、そういう結論になる」
「そ、そうだよね! やっぱりアルちゃんは犯人じゃないんだよ!」
パァッと晴れやかな表情になって喜ぶバニラとは対照的に、ルークの表情はどこか浮かないものだった。
「だとしても、正直その“証拠”はかなり痛い。もし僕が何も知らなかったら、彼女が犯人だとすんなり納得してしまいそうだ」
「うぅ、そうだよね……」
「でも逆に言えば、それだけ決定的なものを用意できる人間と考えると、かなり候補が絞り込まれると思う。さらに盗難が起こったと思われる時間に不審な行動をしていた人物を調べれば……」
「その人が、犯人ってこと……?」
バニラの問い掛けに、ルークは頷いた。
それを見た彼女は再び笑顔を見せたが、今度は視線をあちこちに泳がせてはもごもごと口籠もるようになってしまった。何回か彼の方をちらちらと見遣ってから、何かを決心したように途端に凛々しい表情になって、まっすぐ彼へと向き直った。
「あ、あの、ルークくん! えっと、お願いがあるんだけど――」
「アルの無実を証明する手伝いをしてほしいんでしょ? 良いよ」
「え? い、良いの?」
彼の答えに、自分から頼もうとしていたはずのバニラは思わず戸惑いの声をあげた。
「ど、どうして! いや、手伝ってくれるなら凄く心強いけど、ルークくんが手伝う理由が分からないっていうか……」
「確かに僕は、バニラさんみたいに特別親しかったわけでもない。でもね、僕も気になるんだ。誰が彼女を貶めようとしているのか。それに――」
ルークはそこで一旦言葉を区切ると、照れ臭そうに微かな笑みを浮かべて答えた。
「勝ち逃げされるのは、僕の性分に合わないんだよ」
「……そっか。うん、それじゃルークくんも一緒に、アルちゃんの無実を証明しよう!」
「うん、分かった。よろしくね」
ルークはそう言うと、そっと右手を差し出した。
最初はそれを見て首をかしげていたバニラだったが、すぐに彼の思惑を察すると、満面の笑みを浮かべて自分の右手を差し出した。
学年一の優等生と学年一の劣等生という異色のコンビが、アルという1人の少女をきっかけに、2人っきりの屋上庭園にて結成された。