〈暴食〉のアル   作:ゆうと00

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第52話

「まったく……、奴は何が狙いなの……?」

 

 多くの人々に紛れて大通りを歩くメリルが、頭に手をやって忌々しそうに吐き捨てた。

 第38地区、さらには第26地区での被害を確認後、改めて部下に指示を出してから別れたメリルだが、彼女の頭の中では先程から、幾つもの声が同時に鳴り響いていた。それはカラスを通して報告をする部下達のものなのだが、彼女は別にその声が煩わしくて頭を抱えているわけではない。

 彼女をここまで悩ませているその原因は、部下達が報告する内容にあった。

 

 現在、警察は〈火刑人〉らしき侵入者の行方を見失っていた。

 部下達の懸命な捜査によって発見自体は何度かしているのだが、その度に向こうがその存在に気づいてしまうのである。部下には無闇に近づかないように指示はしているものの、相手も相当な手練れだということだろう。

 不幸中の幸いなのは、奴にやられた部下達の中で命に関わる被害が出ていないことと、奴が暴れるのは人気(ひとけ)の無い場所のみなので今のところ一般人は巻き込まれていないことだろう。とはいえ、それも所詮は“今のところ”という注釈付きであり、奴に被害を最小限に抑えようという意思があると断言することはできない。

 むしろ、部下の話では『この街なら簡単に燃やせそうだ』と口にしていたことから考えると、最悪奴は王家のお膝元であるロンドでテロ行為を働こうとしているとも読み取れる。

 しかし仮にそうだとすると、ますますメリルが頭を悩ませることになる。

 

 ――確かに、今までにも〈火刑人〉が原因と見られる戦闘で街1つが破壊された事例は幾つかある……。でもそれはあくまで“戦闘の余波”で破壊されただけで、〈火刑人〉自らが意図的に破壊した事例は無かったはず……。

 

 それとも、〈火刑人〉の中で何かしら意識の変化が起こったのだろうか。あるいは以前からテロ行為を働いており、しかし今までそれが〈火刑人〉の仕業だと判明しなかっただけのことなのか。

 いや、そもそも奴の狙いが本当にロンドに対するテロ行為だったとしても、大きな問題がある。

 テロを確実に成功させたいのなら、実行の瞬間まで自分の存在を隠しておきたいはずだ。街1つを破壊するような大規模なテロならば、当然準備もそれなりの時間と手間が掛かるはずだ。ましてや現在の奴のように、警察を攻撃して挑発するなんてもっての外である。

 

 ――奴の狙いはテロ行為そのものじゃなく、もっと別なところにある……?

 

 次々と飛び込んでくる情報と浮かび上がってくる疑問を処理しきれず、メリルは思わず自分の髪をガシガシと乱暴に掻いた。

 と、そのとき、

 

「いい加減にしねぇか、てめぇ! 金も払ってないのに黙って帰すことはできねぇって、何度言ったら分かるんだよ!」

 

 突然聞こえてきた怒号に、メリルはハッとなって辺りへと目を向ける。そこは様々な屋台が並ぶ人通りの多い場所であり、その中でも一際大きい人集りの向こう側からその声は聞こえてきた。往来のど真ん中に作られたその人集りは、明らかに人通りの邪魔になっていた。

 それを見たメリルは、あからさまに面倒臭そうな表情で溜息をついた。しかし、それを無視するわけにもいかない。いくら侵入者の対処で忙しいとはいえ、“警察官”である以上騒ぎを放っておく訳にもいかない。

 

「すみませーん、警察の者です、道を空けてくださーい!」

 

 メリルがそう呼び掛けながら、その人集りへと突っ込んでいき、むりやり掻き分けていく。最初は嫌な顔をしていた見物人も、彼女が警察官だと知るや、面倒事には拘わりたくないとばかりに方々へ散らばっていった。

 そして、彼女が見たものは、

 

「絶対に後で戻ってくるから! 何なら、マンチェスタの家名に誓っても良いわ! 貴族が自分の家名を賭けることなんて滅多に無いんだから、これで信用してくれるでしょう!」

「はっ! なーにが貴族だ! 本物の貴族様なら、そもそもこんな所で買い食いなんかしないだろう! ましてや食い逃げなんて!」

「だーかーらー! 別に食い逃げしようなんて、これっぽっちも思ってないわよ! あなたも見てたでしょう! 女の子が財布を盗られたところを!」

「……何してるんですか、クルス先輩」

 

 公衆の面前で屋台の主人らしき男と言い争っている、自分の出身校である魔術学院の先輩・クルスの姿だった。

 思わず漏れてしまったメリルの呟きに、クルスは即座にグルンと首をこちらに向けて、

 

「あら、メリルじゃないの。ちょうど良かったわ、ここの代金を立て替えてくれない?」

「あん? 知り合いが払ってくれんのか? 俺としては、金さえ貰えりゃ誰が払おうが構わないんだがな」

 

 クルスの言葉に、屋台の主人も鋭い視線をメリルへ向けた。

 

「……は?」

 

 突然の展開に、メリルは頭が追いついていなかった。そして流されるままに、彼女はクルスの代金を立て替えることとなった。

 

「いやー、助かったわ、メリルが偶然通り掛かってくれて」

 

 満面の笑みを浮かべてそう言うクルスとは対照的に、メリルは先程よりも随分と軽くなった財布を恨めしげに見つめていた。

 

「勘弁してくださいよ、本当に……。というか、なんであんな事態になっていたんですか? 『あの子が財布を盗られた』とか言ってましたけど」

「そうなのよ……。実は今日、生徒と一緒に遊びに来てたんだけど、ついさっき私が渡した財布をスリに取られちゃったみたいで……」

「ああ、だからあんなことになってたんですね。……って、あれ? その生徒の姿が見えないんですけど、どこにいるんですか?」

「ああ、今はその財布を盗んだスリを追い掛けてるところだから」

 

 何でもないことのように言ってのけるクルスに、メリルは驚きで目を丸くした。

 

「スリを追い掛けてるんですか! それって危ないじゃないですか、すぐに止めないと!」

 

 しかしその言葉に対して、クルスはあっけらかんとした表情で首を横に振った。

 

「ああ、それは大丈夫よ。正確には“スリを追い掛けていったアルを追い掛けてる”ってだけだから。彼女が追いつく頃にはスリも捕まってるでしょ」

 

 だから安心しなさい、という意味を込めて笑いながら言い放ったその言葉に、

 

「――――え?」

 

 メリルは安心するどころか、さらに顔を青ざめた。

 

「ちょ、ちょっと待ってください、クルス先輩。……今、何か不穏な名前が聞こえたような気がしましたけど、ひょっとして私が聞き間違えたんですかね?」

「……聞き間違いじゃないわよ。今日私はここに、バニラって子と一緒にアルを連れて来たわ」

 

 再びクルスの口から飛び出した“アル”という名前に、メリルは〈火刑人〉のときよりも悩ましげに頭を抱え、その場に蹲って全身をガタガタと震わせるようになってしまった。

 しばらくそうしていたメリルだったが、ふいに立ち上がるとクルスをキッと睨みつけた。その目には涙が滲んでおり、怒りを隠そうともしていない。

 

「……クルス先輩、まさかそこまで馬鹿だとは思いませんでしたよ」

「……アルの存在がバレるとまずいことくらい、ちゃんと分かってるわよ」

「いいえ、全然分かってませんよ! クルス先輩が無理を言うから、わざわざあの子を死んだことにしてあなたに預けたんですよ! それなのに、もし彼女が生きてることが警察にバレたら、私の首が飛ぶだけじゃ済まないんですよ! 分からないとは言わせませんからね!」

 

 周りの通行人が思わずギョッと目を丸くするほどの気迫で詰め寄るメリルに、普段は彼女に対して強く出るクルスもさすがに圧され気味だった。

 

「大丈夫よ、警察にバレないようにちゃんと変装をさせたから。それにあの子だって自分の立場は分かってるんだから、下手に目立つ行動は取らないわよ」

「……本当ですね、信じてますよ?」

 

 ギロリとクルスを睨みつけながらも、メリルの勢いはとりあえず収まっていき、近づきすぎた彼女から少し距離を取った。

 

「ええ、大丈夫よ。わざわざこのために、学院長が服を貸してくれたのよ? まぁ、赤いコートなんて、逆に目立つ気がしないでもないけど――」

「あああああああああああああああ、もおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 と思いきや、クルスがそんなことを言った次の瞬間、落ち着きかけていたメリルは再び叫び声をあげ、今にも襟首に掴み掛かりそうな勢いで再び彼女との距離を詰めた。

 

「ど、どうしたのよ、メリル……?」

「クルス先輩、なんでわざわざこのタイミングでそんな変装をさせたんですか! わざとですか! もうここまで来ると、絶対にわざとですよね!」

「何よ、メリル……。何をそんなに怒ってるのか、さっぱり分からないわ。確かに真っ赤なコートなんて忍ぶような代物じゃないけど、そこまで怒るほどのものじゃないでしょ?」

 

 呑気に首をかしげてそんなことを尋ねてくるクルスに、メリルは肺の空気を全部吐き出しそうなほどに長い溜息を吐いた。

 

「……クルス先輩、〈火刑人〉ってご存知ですよね……?」

「ええ、賞金稼ぎの魔術師でしょ? 生まれた瞬間に母親を焼き殺したとか、ターゲットごと街を焼き払ったとか、色々と物騒な噂が絶えないっていう……。それがどうしたのよ?」

「……〈火刑人〉の特徴は?」

「確か、真っ赤なコートをいつも着てて――って、あなたまさか、そいつに間違われるかもしれないから、その格好をやめろとでも言いたいのかしら?」

「ええ、いつもならばちょっと不審がられるだけで終わりだったでしょうね。――〈火刑人〉らしき魔術師が門番を攻撃してむりやりこの街に侵入して、警察官に対しても危害を加えながらこの街にテロ行為を働こうとしている嫌疑が掛かっている真っ最中でなければね!」

 

 ほとんど泣きそうになりながらそう叫ぶメリルに、戸惑いの表情だったクルスが緊迫へと変わっていく。

 

「……成程、確かにそれはまずいわね」

「まずいどころじゃないですよ! いつ部下が〈火刑人〉の格好をしたアルに気づくか分かりませんよ! もう、こうなったら――」

 

 メリルはそう叫ぶと、居ても立ってもいられないとばかりにその場から駆け出そうとした。

 しかしそれを、クルスが「待って、メリル!」と彼女の服を掴むことで引き留めた。

 

「メリルには、〈火刑人〉の情報が逐一入ってくるのよね?」

「ええ、まぁ……」

「ということは、部下がどんな風にやられたかの情報も入ってくるのよね?」

「――――!」

 

 それを聞いて、メリルはハッとした。

 今までの〈火刑人〉と思われる侵入者による攻撃は、すべて強力な赤魔術によって行われていた。だからこそメリル達は、本物と偽物の判断ができずにいたのである。

 しかしながら、アルは魔術を使うことができない。仮に警察官と戦闘するようなことがあったとしても、その手段はもっぱら肉弾戦となるだろう。

 

「つまり、〈火刑人〉の格好をしたアルはまだ部下と接触していないってことですね!」

「ええ、そういうことになるわ。まぁ、仮にアルが見つかって尾行されるようなことになったとしても、聡いあの子だったら余計なことはしないでそのまま放っておくでしょうね」

「もしそうなったら、部下をそれとなく誤魔化して我々がそいつに接触できれば――」

 

 メリルとクルスがそんなことを話していた、まさにそのとき、

 

『カラス14号から緊急報告!』

 

 その声は先程までメリルの頭の中で聞こえていた部下のものではなく、警察署に待機している、現在外に出ているすべてのカラスの主である白魔術師のものだった。おそらく何かしらの有力な情報を掴んだカラスが、近くに警察官がいなかったために一旦警察署に帰ってきたのだろう。

 

『第20地区にて、警官が〈火刑人〉と思われる人物に襲われた! 至急応援に向かわれたし! なお、警官は頭部を“殴打”されて気絶した模様!』

「…………」

「ちょっと、急に黙ってどうしたのよ?」

 

 クルスの問い掛けにメリルが答えたのは、それから5分以上経ってのことだった。

 

 

 *         *         *

 

 

「ど、どうしよう……」

 

 バニラは顔を青ざめながら、ゆっくりと歩みを進めていた。ビクビクと体を震わせ、それに合わせるようにフラフラと視線を泳がせている。

 彼女が現在歩いているのは、馬車1台入るのもままならないほどに狭い道だった。まったく舗装されずに土が露出しており、当たり前のようにゴミが散乱している。

 さらにそんな道の両脇には、大小様々な建物がまるでパズルのようにごちゃごちゃとひしめき合い、ただでさえ細い路地に胸が苦しくなるほどの圧迫感を与えていた。それらの建物も、今にも崩れそうなほどにあちこちヒビ割れて汚れきっている。

 その光景は、バニラが普段よく知っている、まるで街自体が芸術作品であるかのように整然として美しいロンドの街並みとは程遠いものだった。

 

 そんな景色から逃れるように、バニラはその景色から大きく目を逸らした。

 そして次の瞬間、彼女の肩が大きく跳ねた。

 建物の壁に寄り掛かるようにして地面に座り込み、膝を抱えて蹲る男の姿があった。彼はボロボロの薄い服を纏い、その頬はひどく痩せこけている。体から異臭を放ち、羽虫が顔の辺りを飛び回っているのに、男は一切それに構おうとしない。

 正直なところ、彼が生きているのかどうかも判別ができない。

 

「と、とにかく、早くアルちゃんを見つけないと……」

 

 バニラは元々、スリを追っていたアルの後を追い掛けていた。しかしバニラが道路に沿ってしか動けないのに対し、アルは密集した建物の屋根を自由に走り回れる。よって早々に、バニラは彼女を見失ってしまった。

 それでもバニラは彼女が走っていった方向を頼りに進んでいたのだが、いつの間にか大通りからも離れていき、道もどんどん狭くなり、道の舗装も疎らになり、やがてこの場所に辿り着いたのである。

 

 ――ここってもしかして、“スラム街”って所なのかな……?

 

 名前は聞いたことがある。低所得者や犯罪者が集まる治安の悪い場所だというのも、知識として知っている。

 しかし実物を見るのは初めてであるし、ましてやロンドにそんな場所があるなんて思いもしなかった。今までロンドに来たときは大通りから外れることなど無かったし、有名な観光名所やレストランや宿以外では馬車から降りることすら無かった。

 しかしながら、バニラが街を出る門を潜っていない以上、現在目の前に広がっているこの光景は、紛れもなくロンドの一部である。

 

 ――アルちゃんも学院に来るまでは、こういう所に住んでたのかな……?

 

 バニラが寂しげな表情を浮かべて、そんなことを考えていると、

 

「なぁ、嬢ちゃん」

「ひぅっ!」

 

 突然後ろから声を掛けられ、バニラは変な声をあげた。暴れる心臓を押さえつけ、その場を数歩離れてから後ろを振り返った。

 そこにいたのは、ボロボロに汚れた服を身に纏う老人がいた。紙を握り潰したかのように皺が顔中に刻まれており、僅かに覗く口の中にはほとんど歯が残っていない。

 

「……な、何ですか?」

 

 バニラは嫌悪感と恐怖感を隠そうとして、でもほとんど隠れていない表情を浮かべてその老人に尋ねた。

 

「へへへ、嬢ちゃん、これいるかい?」

 

 老人はニタァッと不気味に笑ってそう言うと、ズボンのポケットから何かを取り出した。

 乾燥した紫色の葉っぱだった。

 

「……な、何ですか、これは?」

「へへへ、これに火を点けてその煙を吸うとな、体がフワフワしたように気持ち良くなって、しかも頭がスッキリと冴え渡るようになるんだよ。しかもダイエットにも効果があるって代物だ」

「そ、それって……! け、結構です!」

 

 バニラが両腕を突っぱねて拒否するが、老人は尚も彼女に詰め寄る。

 

「まぁまぁ、遠慮しなくて良いんだよ? お嬢ちゃんは初めてみたいだし、特別に金貨2枚で譲ってやろうじゃないか」

「金貨2枚――高っ! いや、そうじゃなくて! 本当に結構です! それに私、お金持ってないですし!」

「お嬢ちゃん、嘘はついちゃいけないよ? お嬢ちゃん、貴族なんだろ?」

 

 老人の言葉に、バニラはギクリと表情を強張らせた。

 

「な、なんでそれを――」

「こんな場所にお嬢ちゃんみたいなのが来たら、誰だって分かるさ。食う物に困ったことなんて無いだろう健康的な体つき、毎日風呂に入るのが当然だろう小綺麗な格好、着ている服だって上等だ」

「そ、そんなこと……!」

「金が無いっていうんなら、その服を渡せば譲ってやらないこともないよ。――そうだ、いっそのこと、お嬢ちゃんの体を使っちまえば、もっと稼げるかもなぁ……」

 

 ニタニタと笑いながら躙り寄ってくる老人に、バニラは顔を真っ青にして後退る。

 と、そのとき、

 

「ちょっと、おじいさん。真っ昼間っから、何そんな若い女の子をナンパしてるの? 誘い方が下手くそだから、女の子が怖がってるじゃないか」

 

 その声に、バニラと老人が揃ってそちらへ顔を向けた。

 そこにいたのは、背が高く筋肉質な体型で顎に髭を蓄えているが、柔らかい目つきをしているからか穏和そうな印象を受ける男だった。

 その瞬間、老人が明らかに慌てたような態度に変わった。

 

「おぉっと……、これはこれはヴェルクさんじゃないですか……! いえ、あっしはただ商売をしていただけでして……!」

「商売、ねぇ……。悪いけど、そういうのはもっと人を選んでやるべきじゃないかな? ――じゃないと、僕があなたを警察まで送り届けなきゃいけなくなる」

「な、何をおかしなことを仰る! あっしみたいな小物を捕まえたところで、あなたには銅貨1枚の得にもなりゃしないじゃないですか!」

 

 老人が慌てた様子でそう言うと、ヴェルクと呼ばれたその男がフッと笑った。

 

「何も僕は、金儲けのためだけに賞金稼ぎをしているわけじゃない。ただの善良な一般市民として、警察に協力することもあるんだよ」

「……へへ、そういや用事があったんだっけな。じゃあな、お嬢ちゃん」

 

 老人は呟くようにそれだけ言い残すと、そそくさとその場を去っていった。

 やがてその姿が見えなくなった頃、バニラはヴェルクに対して腰が直角に曲がるほど頭を下げた。

 

「た、助けてくださって、ありがとうございます!」

「いやいや、そんな大したことはしてないよ。――それにしても、なんで君みたいな女の子がこんな所にいるんだい? ちょっとした観光気分で来るような場所じゃないことくらい、ちょっと見れば分かりそうなものだけど」

 

 ヴェルクの言葉に、バニラはしゅんと落ち込んだ様子で顔を伏せた。

 

「……友達を追い掛けてたら、いつの間にかこんな所に来ちゃってて」

「友達が? なんでまた……」

「私のせいで財布を盗られちゃって、その犯人を追い掛けてたんです……」

「犯人を? 随分と無茶な真似をするな……。早く見つけないと、もしかしたら危ない目に遭うかも――」

 

 ヴェルクのその言葉を、しかしバニラは首を横に振って否定した。

 

「いえ、その子は強いから、多分その犯人もすぐに捕まえると思います……。でも、頭では分かっていても、何だか心配で居ても立ってもいられなくて……」

「そうかい、それなら良いんだけど……。その友達っていうのは、何て名前なんだい?」

 

 ヴェルクに問い掛けられ、バニラはそれに答えようと口を開きかけ、少し迷う素振りを見せて顔を俯かせた。

 

「えっと、ごめんなさい……。ちょっとした事情があって、あんまりその子のことは詳しく言えないんです……」

「……まぁ、見ず知らずの人間にそう簡単に名前は明かせないか。――良かったら、僕も一緒にその子を探そうか?」

 

 突然の申し出に、バニラは驚いて目を丸くする。

 

「えっ! でも、ご迷惑じゃ――」

「このまま君を放っておいたら、また誰かに絡まれるかもしれないからね。それに表通りと違ってこういった所はかなり入り組んでいるから、すぐ道に迷ってしまうよ。それにここで君と会ったのも、何かの縁だと思うからね」

 

 ヴェルクの言葉を聞いて先程までのことが脳裏に浮かんだバニラは、遠慮がちながらも再び深々と頭を下げた。

 

「えっと……、それじゃお願いします。――あっ、そういえば自己紹介がまだでしたね。私はバニラっていいます」

「バニラちゃんね。僕の名前はさっきのおじさんが言ってたから知ってるだろうけど、ヴェルクっていうんだ。改めて、よろしくね」

 

 そう言ってヴェルクが差し出した右手を、バニラは何の躊躇いも無く自分の右手で握った。

 ヴェルクはにっこりと笑って、彼女の小さな手が怪我しない程度に力を込めてそれに応えた。


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