目を覚ましたアルの視界に真っ先に映ったのは、赤煉瓦でできた天井だった。それも細かいヒビやら綻びやらがあることから、かなりの年代物であることが分かる。
「どこ、ここ……」
アルは思わず、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。
彼女はてっきり、自分が意識を失っている間に警察署にでも連行されたものだと思っていた。しかし警察署はつい数年前に建て直したばかりであり、だったら天井ももっと真新しいものであるはずだ。
それだけならまだしも、アルが今眠っているのは、鉄格子と壁に囲まれた冷たい床などではなく、自分の体温で暖められた、ふかふかなベッドの中だった。ますます訳が分からないとばかりにアルは眉をひそめ、首をかしげた。
しかしいつまでもこうしているわけにはいかない。アルは名残惜しげな体に鞭を打って上半身を起こすと、ゆっくりと辺りを見渡した。
部屋にはベッドが4つ横に並んでいて、アルが使っているのは一番奥のものだった。そのベッドは病院で見るものと同じ型であり、それを裏付けるように、部屋の壁際には様々な薬品が収められた棚が備え付けられている。
そしてその棚の傍には様々な本が積み上げられた机と椅子があり、白衣を身に纏った人物がアルに背を向ける形でそこに座っていた。
するとアルがそちらへと視線を向けるのとほぼ同時、まるでそれを体で感じ取ったかのような見事なタイミングで、その人物はこちらへと振り返った。
「あ、良かった。気がついたみたいだね」
そう言って柔らかく笑うその人物は、年齢はクルスと同じ20代後半くらいの、少々癖のある茶髪に黒縁の眼鏡を掛けた男だった。男性にしては細い体躯とおっとりした雰囲気から、どこか気の弱そうな印象を受ける。
「一応魔術で治療はしたけど、まだ体力はあまり回復してないから、無闇に動いちゃ駄目だよ」
白衣の男はそう言うと、再び机へと向き直った。アルが背筋を伸ばしてその手元を覗き込むと、彼は何かの書類に万年筆を走らせていた。おそらく、アルの診断書だろう。
「ここは?」
「ここは『イグリシア魔術学院』の保健室だよ」
背中に掛けられたアルの問いに、白衣の男は万年筆を止めることなく即座に答えた。
「なんでわたしは、ここにいるの?」
「きみと戦ったクルスって女の人が、気を失ったきみを連れてここに来たんだよ。『この子を治療して』って」
「……わたしのことは、聞いた?」
「直接は聞いていないけど、何となく予想はつくよ。彼女が何の用事で出掛けていたのかは聞いてたから」
「……それなのに、わたしを治療したの?」
「クルスの無茶な頼み事なんて、慣れてるからね」
そう言って、白衣の男は肩をすくめて笑った。アルは何も答えなかった。無言の部屋に、カリカリと診断書に書き込む音だけが流れる。
そのまま1分ほど経った頃、ふいにアルが入口へと顔を向けた。ひくひくと鼻を動かしている。
がちゃり、と扉が開かれた。
「あら、気がついたのね」
そこから顔を出したのは、クルスだった。彼女はアルが起き上がっているのを見ると、ほっとしたように顔を綻ばせて中へと入っていった。しかしアルがその笑顔を見ることはなかった。
なぜならアルの視線はそのときすでに、クルスが盆に載せて運んできた、湯気を立てているシチューと肉のソテー、美味しそうな焼き色のついたパンへと向けられていたからである。
「お腹空いたでしょ? 昼食には遅いし夕食には随分早いけど、これくらいなら入るわよね?」
クルスはそれに苦笑しながら、アルの傍らにそれを置いた。
アルは最初それを観察するようにじっと眺めていたが、やがて恐る恐るといった風にパンを掴むと、それを一口囓った。1回1回文字通り噛みしめるようにして咀嚼し、ゆっくりと飲み込んでいった。
すると突然、今度は大きく口を開けてパンの残りを一気に頬張った。
それを皮切りに、クルスと、興味を惹かれたのかこちらへと視線を向けていた白衣の男の前で、料理が次々とアルの胃袋へと呑み込まれていった。あまりの早さに、白衣の男はあんぐりと口を開けていた。
「そうだ。アルに1つ伝えておかなきゃならないことがあるんだけど、食べながらで良いから聞いてくれる?」
クルスの言葉に、アルはスープを流し込む手を止めようともせず、視線だけクルスへと向けた。
それを肯定と受け取ったクルスは、まるで何てことないかのように、さらりと言った。
「今日からここが、アルの家だから」
思わず口の中のスープを吹き出してしまったアルを、誰が責められよう。
「な、な、なんで、急にそんなことに――!」
「大丈夫よ、学院長には許可取ったから」
「そうじゃなくて! なんで勝手にそんなことになってるの!」
「あら、不満なの? 少なくとも、路上で生活するよりは遙かに楽じゃない? 雨に濡れることも寒さに震えることもないし、いつ誰に襲われるか不安になることもないし」
「だ、だからって、クルスには関係無いじゃん! 何が狙いなの!」
「あら、子供を助けるのに理由なんている?」
「絶対、裏がある……」
アルはそう言って、心の奥を見透かそうとクルスをぎろりと睨みつける。一方クルスは、そんなことはまったく気にしていない様子で笑みを浮かべている。
すると、2人の話を横で聞いていた白衣の男が、
「確かに、理由が分からないね。僕の知ってるクルスは、可哀想な子供を放っておけないような博愛精神溢れた人物だとは、到底思えないんだけどわちゃあ!」
彼の台詞が最後おかしくなったのは、クルスが優美な笑みを浮かべたまま彼に電撃を放ったからである。
「あら、シン先生、どうかなさいましたか?」
シンと呼ばれた白衣の男は、電撃を食らった右手を擦りながら恨めしげにクルスを睨んだ。しかしクルスから笑みを返されると、途端に彼は顔を青ざめて目を逸らした。
クルスは大きく溜息をつくと、アルへと向き直った。
「まぁ、確かにシンの言ったことも間違ってはいないわ」
「え? じゃあ、なんで僕はさっき攻撃されたの?」
「黙りなさい。――私がアルをここに連れてきたのは、アルのことが気になったからなの」
「気になった?」
首をかしげるアルに、クルスは笑みを消した、真剣な表情で頷いた。
「私がアルに杖を渡したとき、アルはこう言ったわよね? 『そんなもの渡されても、わたし、魔術使えないもん』って」
「うん、言ったね」
「具体的には、どういう意味かしら?」
「うーんとね、苦手とかじゃなくて、全然使えないの」
「……全然?」
「うん。前にも魔術を教えてもらったことがあるんだけど、全然できるようにならなかったんだよ。それからはもう諦めてるの」
「全然、ね……」
クルスはそう呟くと、困ったように眉間に皺を寄せて頭を掻いた。アルの話を聞いてとある生徒の顔が脳裏を過ぎったが、どうもアルはその生徒よりも深刻そうである。
そのとき、
「アル、だったっけ? ちょっと、これを使ってみてくれる?」
突然シンはそう言うと、彼女に或るものを渡した。それは片手で覆い隠せるほどに小さな棒状の物体であり、一方の端に歯車のような突起物がついていた。
「何これ」
「これはね、“マジックライター”っていうんだよ」
マジックライターとは、ここ最近開発された、魔力を込めるだけで火を点けられるという代物である。わざわざ炎系統の魔術を使わなくても良いという、一見画期的な発明品のように思えるが、ただ火を点けるだけなら造作もない人々にとっては、半ばジョークアイテム扱いされている。
「それに魔力を込めながら歯車を回すと、先端に小さく火が灯るんだ。ちょっと、やってみせてくれる?」
「……うん、良いよ」
アルは頷くと、しっかりとマジックライターを握りしめて、がしゃっと歯車を回した。
しかし、マジックライターには何の変化も無かった。火を灯すどころか、ほんの少しの熱すら感じない。
「むぅ……」
「ちゃんと魔力を込めないと、火は点かないよ。ほら、もう1回やってみて」
「……分かった。――うりゃあ!」
ばきっ!
「あ」「あ」「あ」
3人が同時に、意味を持たない声を漏らした。
アルの右手に握りしめられたマジックライターは、彼女の手の中で粉々に砕け散った。どうやら力みすぎて握り潰してしまったらしい。本来なら人間が握ったところで壊れるようなものではないのだが。
「……ご、ごめんなさい」
「大丈夫だよ。安物だったし、試しに買ってみただけだったから」
恐る恐る返されたマジックライターだったものを、シンは苦笑いでポケットに突っ込んだ。
しかし、彼の心中は穏やかではなかった。とはいっても、けっして怒っているわけではない。
――どういうことだ? まさか、魔力を操れないってことか?
この世界の誰もが魔術を使えるということは、魔術を発動するのに必要な魔力を操ることも当然の技術として持っていることを意味する。もちろん精度に個人差はあるものの、それこそ物心つく前から慣れ親しんでいるようなものであり、わざわざ学院で教わるものですらない。
もしかしてアルには、魔力そのものが欠落しているのではないだろうか。
シンが思い至った考えは、しかし自身によって即座に否定された。
魔力は努力して手に入れるようなものではない。それこそ、母親の胎内にいるときから授かっているようなものである。だからこそ、アルの体にも確実にそれはあるはずだ。
ここにきてようやくシンも、目の前にいるアルという少女の異常性に気づいたようだ。
そして、二人の遣り取りを横で眺めていたクルスは、思わず口角をにやりと上げた。
魔術が使えないどころか、魔力も碌に扱えない。それなのに身体能力は異常に高く、並の魔術師すら容易くあしらえるほどの実力を持つ。戦術に関する頭の切れも良い。そして、おそらく無意識にだろうが、まだ何かしらの能力を隠している。
クルスの中で、アルへの興味がますます膨れ上がっていく。
「それじゃ、話を戻すわね。――あなた、ここに住む気は無い?」
沸き立つ高揚感を抑えながら、クルスはアルに問い掛けた。
「…………」
しかしアルは、眉間に皺を寄せて顔を俯かせたまま黙り込んでいる。その姿は、何かを悩んでいるようにも見える。
「どうしたの、アル? さっきも言ったけど、ここに住む方が遙かに快適よ? それにここなら、気を許せる友達ができるかもしれないし」
「…………」
「それに、食事も美味しいし」
「うっ!」
ここで初めて、アルに反応があった。
「今食べてる料理、凄く美味しいでしょ? ここの食堂の料理長はね、かつてシャンパニエの観光宿場で料理長を勤めていたほどの腕なの。こんなに美味しい料理、そうそう味わえるものじゃないはずよ?」
「…………」
「ここに住めば、そんな美味しい料理が毎日食べられるわよ? それこそ、体重が何キロも増えちゃうくらいに」
「むぅ……」
アルは思わず唸った。確かにクルスの言う通り、先程の料理はかなり美味しかった。今まで様々な店の料理を食べたことのある彼女(意外にも彼女は無銭飲食をしたことがない。お金をどうやって手に入れているかについては、あえて触れないが)だが、はっきり言ってそのどれよりも美味しかった。
やがてアルは顔を上げると、クルスへと視線を向けた。
「……質問して良い?」
「どうぞ」
もう一息だ、とクルスは笑みを深くした。
「なんでクルスは、そんなにわたしにこだわるの? わたしみたいに路上で生活してる子なんて、それこそ何人もいるのに……」
「路上で燻らせるには勿体ない逸材だからよ。あなたの強さは、必ず他の魔術師にも影響を与えるわ。それがどんな影響なのか、私はそれが楽しみなの」
「……そうやって魔術を勉強して、それでも魔術を使えなかったとき、わたしはどうなるの?」
「安心して。私は絶対に、あなたを見捨てない。魔術を使えるようになるまで、私はとことん付き合うわ」
そう言うクルスの目は、どこまでも澄んでいて、まっすぐだった。瞳に映り込むアルがはっきりと見えるほどに、その目には一切の揺らぎが無かった。
それを手助けするように、シンがアルにこんな言葉を掛けた。
「クルスがここまで頼み込むなんて滅多に無いことだから、それだけきみの実力が相当なものだってことなんだろうね。ここは彼女の顔を立ててくれないかな? 僕自身も凄く興味があるし、できるだけ協力するよ」
その言葉が効いたのか、あるいはただ単にタイミングが一緒だっただけなのか、アルが眉間の皺を解いてクルスへと顔を向けた。
そして、
「良いよ。しばらくここに住んであげる」
「本当?」
身を乗り出すようにアルに顔を近づけて確認するクルスに、アルはこくりと頷いてみせる。
「ありがと! さすがアル!」
クルスは感極まったようにそう叫ぶと、がばりとアルに抱きついた。アルは驚いて目を見開き、そしてクルスの抱きしめる強さに顔を歪ませた。
「とはいっても、いくら学院長が許可したからって、他の先生や生徒達が反発しそうだね。下手したら、彼女にいろいろとしてくるかもしれないよ」
「大丈夫よ。アルなら大抵の奴らは返り討ちにするだろうし、いざとなったら私が出張れば良いんだから」
「……それはまた、恐ろしいね」
「何か言ったかしら?」
「いいえ、何でもありません!」
シンとクルスがそんな会話を交わしている陰で、アルは誰も聞き取れないほどに小さな声で、ぽつりと呟いた。
「いざとなったらすぐ逃げれば良いし、様子見するか」
* * *
「それじゃ、私は学院長に報告してくるから、それまでここで待ってるのよ」
アルが頷くのを確認すると、クルスは自分の目の前にある、高さが身の丈の2倍以上、幅に至っては両腕を広げた長さの3倍以上はある大きな扉を叩いた。そして「失礼します」と声を掛けると、部屋の中へと入っていった。
アルは改めて、その扉の上に掲げられている札を眺めた。そこにはこの世界共通の文字で“学院長室”と書かれていた。
扉から視線を外し、右へと向けた。床に高級そうな赤い絨毯が敷かれた、これまた広い幅のとられた立派な廊下がまっすぐ伸びている。そしてある程度進んだところでかくんと左に折れて、脇の下り階段へと続いていく。
今度は左へと視線を向けた。廊下が右に折れていること以外は、先程とまったく同じ光景が広がっている。
つまりこの階はアルが立っているところを中心とした鏡合わせのような構造になっており、そして同時に、昇り階段が存在しない構造となっていた。
それもそのはず、学院長室は学院で最も高い場所――学院の中央に位置する塔、通称“白の塔”(実際に白に塗られているわけではなく、色は建材の赤煉瓦そのものである)の最上階に存在しているのである。
その事実は背後の窓からも確認でき、そこからは、屋上がちょっとした庭園になっている“黄の塔”と“緑の塔”が、その向こうには芝生が短く刈り揃えられている広場、そして高い塀の向こう側の草原までもがよく見渡せた。
「立派な建物だなぁ……」
そんな立派な建物に、つい数時間前まで単なるストリートチルドレンだった自分がいることが、アルは未だに信じられなかった。
「――ん?」
ふとアルの目が、広場の端っこ、塀の傍へと向けられた。
そこでは30人ほどの生徒らしき子供達が綺麗に並んでいて、教師らしき大人1人がその前に立っていた。
さらに目を凝らしてよく見てみると、彼らの手にはそれぞれ箒が握られている。
箒に乗る訓練をしてるのかな、とアルはしばらくそれを観察していた。すると教師が右手に持つ杖を上へと掲げ、そしてそれが合図だったのか生徒達が一斉に箒に跨りだした。
そして皆が、ふわふわと腰の高さにまで浮かび上がった。
「おおっ」
アルは思わず感嘆の声をあげた。箒で空を飛ぶのは今までに何度も見ているが、それを訓練している光景は初めてだった。
ちらり、とアルは後ろへと目をやった。先程クルスが入っていった扉は堅く閉ざされ、開く気配が無い。
「……まぁ、待ってる間暇だしね」
誰に言い訳しているのか、アルはそんなことを呟くと、窓枠に手を掛けた。