“赤の塔”の一階部分にある“踊り子達の食堂”は現在、朝食の時間ということもあって非常に騒がしい。この学院に身を置く生徒や教師が一堂に会して肩を並べ、一般庶民では一生お目に掛かることすら無いであろう豪華な料理がテーブルに所狭しと並べられ、さらには空いた食器や代えの料理が人々の頭上を飛び交うその光景は、慣れない者から見たら“圧巻”の一言に尽きるだろう。
しかし生徒や教師からしたらこれも単なる“日常風景の1つ”でしかなく、すっかり慣れた様子で周りの友人達と談笑しながら料理に舌鼓を打っている。貴族の子息も集う場にしては少々騒がし過ぎる気もしないではないが、彼ら彼女らも所詮はまだまだ騒ぎたい盛りの思春期であり、普段の食事でそこまで厳格なテーブルマナーが求められているわけでもないので見過ごされている。
なので普段は実にリラックスした空気の中で食事が行われるのだが、今日は一部の生徒達の間でどことなく緊張した空気が漂っていた。交わされる会話やその表情にも固さが感じられ、普段は食事そっちのけで喋りまくる生徒が黙々と料理を平らげる様子も見られる。
とはいえ、この学院で働き始めて長い教師達からしたら、そのような光景ももはや“日常風景の1つ”として捉えられている。もっともこちらの場合は、文頭に“この時期限定での”という注釈が付くのだが。
今日は戦闘科の生徒達にとって、期末試験の演習科目において第3試合が執り行われる日だ。最初の頃は普段滅多にできない実戦形式での戦闘に沸き立っていた血気盛んな生徒達も、この頃になると落ち着きを取り戻すを通り越して緊張感で押し黙るようになることが多い。
それまでの2戦でどちらも敗北している生徒が追い込まれている、と考えることもできるが、単純に自分の魔法で顔見知りのクラスメイトを傷つける行為そのものに抵抗を覚え始めている、とも考えられる。いくら白魔術師の教師によって即座に傷を癒せるとはいえ、目の前で怪我に苦しむ相手を見ているとなれば、気の弱い生徒によってはトラウマになってしまっても不思議ではない。事実、この時期になって専攻の変更を希望する生徒が数年に1人の頻度で存在する。
「どうしたの、バニラ? ちゃんと食べないと身が保たないよ?」
もちろん、そのような生徒ばかりでもない。事実、自らの手で直接相手を殴りつけるという、魔術による遠隔操作で戦う他の生徒達よりも相手を傷つける実感が強そうなアルも、それによる精神的な疲労を微塵も感じさせずに満面の笑みを浮かべて恐ろしい勢いで空の食器を積み上げていた。ひょっとしたら彼女なりに気分が落ち込んでいるのかもしれないが、少なくともバニラには、そしてバニラの隣で彼女の食事風景を目の当たりにしているルークにも読み取ることはできない。
とはいえ、確かに食事を摂らないと身が保たないのも事実。自身の内に秘める魔力を使って魔術を繰り出すというのは、魔術師にとって体を動かして運動するのと同じような疲労を伴う。よってアルほど極端ではないにしろ、魔術師は基本的に健啖家の傾向が強い。
なのでバニラも気を取り直して、その両手にナイフとフォークを構えて目の前の肉料理へと手を伸ばし――
「ごめん、ちょっと良いかな?」
かけたそのとき、突然呼び掛けられたその声に、バニラを始めとした4人が同時に動きを止めた。
俯き加減だった顔を上げて声のした方を向くと、ニコニコと人当たりの良い笑みをアルに向ける、線の細い体をした金髪の男子生徒が目に入った。大抵の生徒は彼女に対して馬鹿にするか敵意を向けるかのどちらかであるため、このような表情を彼女に向けるのはバニラとルークなどを除けばまず無いと言って良いくらいだ。
「えぇっと……」
「同じクラスのバズくんだよ。今日の試合でアルちゃんと戦う予定の」
アルが首をかしげて戸惑っている様子だったので、向かいのバニラが身を乗り出して小声で教えてあげた。とはいえ、耳打ちできるほど近づけるわけでもないので、金髪の男子生徒・バズにもその声はしっかり届いてしまっている。
「あははっ。普段はまったく会話しないからね、名前を知らなくても不思議は無いよ」
しかしバズはそれに対して不機嫌になる様子も無く、にこやかな笑みを崩さなかった。ますます他のクラスメイトとは違うその態度に、バニラもルークも、そしてヴィナも彼へと向ける疑いの目を隠そうともしない。
「んで、どうしたの?」
「いやいや、今日は君と対戦することになるから、せめて挨拶だけでもと思ってね」
「そっか、よろしくね」
「うん、こちらこそ」
しかし当のアルはそのような疑いの目を一切向けることなく、彼の笑顔に応えるようにニコニコと笑い、しかも自分の右手を彼に差し出してきた。彼がその手を握り返したときはガタリと音をたててバニラが席を立ち上がりかけたが、何回も小さく縦に振って握手を交わす2人の光景に、彼女はゆっくりと席に座り直した。
それでも彼女の疑いが晴れることはなく、睨みつけるように彼のことを観察していた。
「ところで、その左手にあるのは何かな?」
そしてそれは、ルークも同じことだった。もっとも彼の場合、バズが自分の背中に隠すようにして左手に握られている、ブドウの絵が描かれたラベルの貼られたビンの方に興味があったのだが。
ルークの指摘に、バズはそのビンをアルによく見えるように掲げてみせて、
「あぁ、これ? せっかくだから、景気付けの意味も込めて1杯どうかなって思って。厨房の人に頼み込んで、普段ここに出すよりも良い物を貰ったんだよ」
ラベルに描かれたブドウのイラストからも分かる通り、それは赤ワインだった。安全な飲み水を確保することが難しい地方では水代わりに飲まれているワインだが、綺麗な川が近くを流れる学院では単純に嗜好品として飲まれている。子供が一度に大量に摂取することは良しとされていないものの、飲むこと自体を禁ずる法律は無い。
全員が見守る中ビンの蓋を開けたバズは、ちょうど空になっていたアルのグラスに中身の液体を注いだ。血のように深い赤色でありながら向こうの景色が覗き込めるほどに透明で、照明の光を受けて宝石のようにキラキラと煌めいているそれは、確かに普段このテーブルに並べられる物よりも上等に見える。
「アルさんは、ワイン飲める?」
「うん、好きだよ」
「良かった良かった。それじゃ“お近づきの印”として、飲んでくれるかな?」
そう言ってニッコリと笑ってみせるバズとは対照的に、バニラとルークはますます疑惑の色を濃くしていった。ルークがチラリと周りに目を遣ると、少し離れた所に座る男子生徒グループが、関係無い感じを装いながらこちらをチラチラと盗み見て口元をニヤニヤと歪めているのが見える。
「アル、そのワインさ――」
「いただきまーす」
「えっ! ちょっ――」
親切心からルークが声を掛けようとしたその瞬間、アルが素早い動きでワイングラスを取ってその中身を口の中に流し込んでしまった。
ほぼ一瞬の内に空になったグラスをテーブルに置いた彼女は、唇をペロリと舐めて満足そうな笑みと共にホウと息を吐いた。
「へぇ……、やっぱり高級なワインは違うね」
「おっ、やっぱり分かるかな? 良かったらこのワイン、全部呑んじゃっても構わないから」
「えっ! 全部貰って良いのっ! やったー!」
バズが自分の持ってきたそのビンをアルの目の前にゴトリと置くと、アルはすぐさま片手で持てるくらいに細くなっている注ぎ口付近を掴んで自分のグラスに並々と注ぎ、グビグビとかなりの勢いでそれを呑み始めた。空になったら注ぎ足してまた呑み始める、というルーチンワークが即座に出来上がった彼女の手に掛かれば、おそらく1分もしない内にビンの中身はすべて彼女の中に収まってしまうに違いない。
「えっと……、アルちゃん、あの……」
そしてそれを正面で見ていたバニラは、その両手を所在なさげにワタワタと空中に漂わせながら遠慮がちにアルへと声を掛けた。先程までは“別の要因”で彼女を心配していたバニラだが、今はただ単純に“試合前にビン1本分も酒を呑むこと”自体に対象が移っていた。
「あっはっはっ、そんなに喜んでくれるとこっちも嬉しいよ。――それじゃアルさん、また試合で」
バズはそう言い残して、その場を離れて自分の席へと戻っていった。偶然かどうかは知らないが、彼の席は先程ルークが目に留めていた男子グループのすぐ傍だった。
「……アルにしては、随分と軽率な行動じゃない?」
若干小声がちにそう言ったルークに対し、アルは能天気な笑顔を浮かべながらワインを注ぐ手を止めようとしない。
「えぇっ? 大丈夫だって。わたし、二日酔いとか一度もしたこと無いから」
「いや、そういうことじゃなくて。――例えば、そのワインに何か盛られてるとか」
「大丈夫だって、ヘーキヘーキ」
そう言ってグビグビとワインを呑み続けるアルに、ルークは小さく首を横に振るとバニラへと視線を向けた。それだけで何かを察した彼女は、力強い表情で彼を見つめながら小さく頷いた。
「…………」
そしてこの一連の出来事の間、ヴィナはずっと我関せずといった態度で黙々と朝食を食べ進めていた。
* * *
「勝者、レッダー」
審判であるザンガの声に、ギャラリーの生徒達が一斉に歓声をあげた。そんな彼らの視線を一身に集める男子生徒・レッダーは、口を引き結んであまり大きな反応を見せずにいるものの、ようやく勝利を手にした喜びを隠しきれずに口角が上がっている。
期末試験の演習科目、第3試合。この日の広場も、赤線で囲まれた会場で生徒が熱戦を繰り広げる度に歓声や溜息が辺りに響き渡っている。騒ぎたい年頃が集まっているだけあって感情表現も素直で、実際に試合を観なくてもどんな状況なのか大体把握できるほどである。
「…………」
そんな中、バニラは周りの生徒達に流されて大声をあげるようなことも無く、両膝を腕で抱えながら真剣な顔つきで地面に座り込んでいた。これまでも殊更騒ぐような真似をしなかった彼女ではあるが、今の彼女はまるで外界から切り離されたかのように周りの喧騒が耳に入っていない。
「……ねぇアルちゃん、本当に体は何ともない? 無理してるとかじゃないよね?」
「もう、バニラは心配性だなぁ。大丈夫だって言ってるじゃん」
試験が始まってから何回目になるか分からないバニラの質問に、アルも試験が始まってから何回目になるか分からない答えで返した。それでもバニラは信用できないのか、困ったような笑顔を浮かべる彼女を疑惑の目で見つめている。
バニラの見たところ、特に変わった様子は見当たらない。強いて挙げるとするならば、ここ最近特に気温が上がってきたせいか、額に若干汗を滲ませているくらいだ。
しかし今までクラスメイトであること以外に何の接点も無い生徒が、試合をするこの日に限って話し掛け、しかもワインをプレゼントするなんていかにも怪しすぎる。何か毒の1つでも盛られているんじゃないか、と疑うのはむしろ当然とも言えるだろう。
それを分かっているはずなのに、アルはそのワインを何の躊躇いも無く呑んだ。もしかして何か毒に対する秘策があるのか、とバニラは食事の後も彼女をずっと観察していたが、彼女はその後も特にそれらしい行動を取ることも無く、ついにここまで来てしまった。
――まさかアルちゃん、ワインが美味しそうだから、何か盛られてるのが分かってて我慢できなかった、とかじゃないよね……?
バニラのアルに対する疑いが別ベクトルへ向かいそうになった、そのとき、
「次、バズとアル」
ザンガの呼び掛けによって、他の生徒達からどよめきの声があがった。幾つかに分かれているグループの中でも男子生徒の中では最大を誇るグループからバズが立ち上がり、周りの生徒達が背中をバンバン叩くなど少々手荒い激励を受けているのが見える。
「んじゃ、行ってくる」
「……ねぇアルちゃん、本当に――」
バニラの心配する声を振り切るように、アルは足早に会場の中央へと歩いていった。
それを背中で見送ったバニラは、先程までバズがいたグループへと目を向ける。
男子生徒達が、今朝の食堂でも浮かべていたにやけ顔でアルを眺めていた。
――アルちゃん……。
無意識の内に合掌して祈るようなポーズになっているバニラが見つめる中、2人は所定のスタート位置へと辿り着いた。向かって右側のバズは穏やかに見える笑みを浮かべ、そして向かって左側のアルはいつになく引き締まった表情をしているように見える。
それはまるで、何かを堪えているかのような――
「改めてルールを確認する。勝利条件は相手を戦闘不能にするか、相手をエリアの外に出すか、あるいは相手が降参を申し出て審判である私がそれを認めたら、の3つだ。私が試合開始の合図を出すまでその場から動かず、呪文の詠唱もするな。合図の前に何かしているのを見つけ次第、即座に失格とするから注意しろ。もし試合中にそれ以上の続行が危険だと私が判断した場合、即座に試合を中止する。――何か質問はあるか?」
「はい、大丈夫です」
「…………」
ザンガが本日何度目かの、過去2日を合わせると何十度目かにもなるルール確認に、バズはやや食い気味に返事をしたのに対し、アルはなかなか口を開こうとしなかった。
「……アル、聞こえているか?」
「へっ? あ、うん、大丈夫」
慌てるように返事をするアルに、ザンガは小さく首をかしげ、バズはその穏やかな笑みを崩さず、そして例の男子生徒達の中から何人かプッと吹き出して口を押さえた。おそらく今朝の遣り取りを知らない他の生徒は、傍目には鈍臭く見えるアルの言動を嗤ったと受け取ったのか、特に不思議に感じる様子は無い。
しかしバニラは、確信した。
やはり今朝のワインには“何か”が盛られていたのだ、と。
「――それでは、試合開始!」
ザンガの叫び声がゴングの代わりとなり、試合の幕が上がった。
会場内だけでなく、ギャラリーの生徒達の緊張も一気に膨れ上がる。
「…………?」
しかしその緊張感も、数秒経過した頃になって戸惑いの空気へと変わっていった。
試合が始まったというのに、アルがその場から動こうとしなかった。
第1試合は相手に向かって一直線に、第2試合は逆に相手から距離を取るように、という違いはあっても、彼女は試合開始と共にその脚力を活かして動き始めていた。しかし今回は、数秒が経過しても1歩もその場を動かずに立ち尽くしている。
しかしギャラリーが戸惑っているのは、それだけが原因ではない。
彼女の対戦相手であるバズも、同じようにその場を動くどころか呪文の詠唱さえしていなかった。その手に杖を軽く握ってはいるものの、ニコニコと笑みを浮かべるばかりで魔力を込める動作もしていない。
何の変化も訪れない静寂の時間を、ギャラリーは野次を飛ばすのも忘れて見守るしかなかった。
今にも笑い出しそうになるのを必死に我慢している、バズと一緒にいた男子生徒達を除いて。
そして、
「――――アルちゃんっ!」
「ぷっ! あっはっはっ!」
まるで糸の切れたマリオネットのように、アルが突然その場に崩れ落ちるように地面に膝を突いた。それを見たバニラは思わず大声をあげて身を乗り出すように立ち上がり、男子生徒達はとうとう我慢の限界といった感じに噴き出して笑い声を響かせる。
「おいおい乞食、今までの威勢はどうしたんだよ!」
「ほら! いつもみたいに、俺達に野蛮人なりの戦い方を見せてくれよ!」
「そうだそうだ! いつまでも、そんな所で座っていないでさぁ!」
「それとも、どこか体の調子でも悪いのかなぁ?」
思い思いに罵倒の言葉を叫ぶ彼らに、バニラは非難する意味を込めてキッと睨みを利かせた。もっともクラス一の落ちこぼれである彼女の睨み程度では何の効果も無く、むしろ彼らはその見下すような笑みをより一層深くした。
効果の無い睨みを早々に切り上げたバニラは、今度は心配で仕方がないといった表情をアルに向けた。彼女は地面に顔を俯かせ、長い緑色の髪が垂れ下がって顔を覆い隠してしまっているため、その表情を窺い知ることはできない。
そんな彼女に、バズが1歩1歩ゆっくりと踏みしめるように近づいていく。
先程までの穏やかな笑みを、ほんの少しだけ歪ませながら。
「おや、アルさん。急にしゃがんじゃって、どうしたのかな? もしかして、お腹の具合が悪かったりするのかな?」
「…………」
「あはは、返事をする余裕すら無いとは……。ザンガ先生、こういう場合は試合ってどうなるんですか?」
バズがにこやかな表情で審判役のザンガに問い掛けると、腕を組んで険しい表情を浮かべる彼は、未だに地面に片膝を突いているアルをじっと見つめた。肩を上下させるほどに呼吸が荒く、髪の隙間から僅かに覗かせる額や喉周りから玉のように汗が噴き出している。
それを見つめながら、ザンガは言い放った。
「
「……あらら、それは本当に
バズはそれだけ言うと、今までテキトーに握っていた杖を持ち直し、ほとんど口に出さずに呪文を唱え始めた。
「僕を恨まないでね。僕はただ、試合を続行するという先生の指示に従っているだけなんだから。――だからって、先生を恨めってことじゃないけどね。全ては“自己管理”のできてない君自身が招いた結果なんだから」
バズが喋っている間に、彼の杖の先端から握り拳ほどの大きさの水の塊が生まれた。空中に浮かびながら高速回転して渦を作り出すその光景は、まるで力を溜めているようにも見える。
バズが最も得意とする魔術は、青魔術水系統に分類される《アクア・ショット》だ。金属の粉を混合させた水を高速で射出することにより、分厚い壁でさえも穴を空けるほどの威力を発揮する。もちろん熟練度によってその威力はまちまちだが、バズほどの腕前でも人に向けて放てば大怪我を負うことは必至だ。
それを分かっていながら、バズは杖の先端をアルの頭へと向けた。
それでも尚、アルは俯いたまま顔を上げようとしない。
「まぁ、ちょっと痛いだけですぐに済むよ。ここの先生方は素晴らしい人材が揃ってるから、どんな怪我でもすぐに治してくれるんだ。――たとえ、死に至るような大怪我でもね」
「ま、待って!」
顔を真っ青にしたバニラが大声で叫ぶが、罵詈雑言を並べ立てる男子生徒達の声に掻き消されてザンガには届かなかった。腕を組んで試合中の2人を眺める彼の表情には、焦りや憂いといった感情は見られない。
こうして大勢の生徒や教師の見守る中、バズの杖の先端から勢いよく飛び出した水は、
「よっと」
アルが片膝を突いた姿勢から体1つ分横に跳んだことで、ほんの僅かに広場の地面を掘り返す結果に留まった。
「へっ――――」
間抜けな声を出しながらも、一瞬動かなくなったその頭で必死に状況把握に努めていたバズだったが、親指と人差し指で輪っかを作るアルの手が目の前に現れたことで、彼の思考は疑問に塗り潰されてむりやり中断させられてしまった。
ばちぃんっ!
「ぐ――がぁっ!」
親指に押さえつけられて力を溜めた人差し指が、勢いよく放たれて相手の額を弾く。子供の悪戯で誰もが一度はやったことのある“デコピン”も、アルの手に掛かれば脳に多大な衝撃を与える攻撃手段へと変貌を遂げる。現にそれをモロに食らったバズは、額から血を垂らしながらその場に崩れ落ちて地面に転がってしまった。
何度も立ち上がろうと試みるバズだったが、脳を揺さぶられて意識が朦朧としている彼ではまともに手足に力を入れることはできない。必死の形相で荒々しく呼吸をする彼からは、つい先程までの穏やかで余裕に満ちた態度は微塵も感じられない。
そしてそんな彼を、アルは心底呆れ果てたような表情で眺めていた。
「何というかさ、本当に
「な……なんでだ……。あのとき、確かに……ワインを呑んで……いたはず……」
荒々しい呼吸の合間に零れるバズの言葉に、アルは「あぁ、あれね」と呟いて、
「ワインなんて繊細なものにあんな強力な下剤を混ぜたら、味がおかしくなっちゃうでしょ。やり慣れてないのかもしれないけど、次やるときにはもうちょっと上手くやった方が良いよ」
「な……なんで……おまえには……効かなかったんだ……」
バズのごもっともな疑問に、アルは何てことないかのようにこう答えた。
「――わたし、トイレしたこと無いんだよね」
「……何だそれ、意味……分かんねぇ……」
その言葉を最後に、バズはとうとう力尽きて意識を失った。
「勝者、アル」
それを確認したザンガの試合終了宣言に、バニラからは歓声の声が、他の生徒からは落胆の声が漏れた。既に恒例となってしまっている光景なので、今更バニラも気にする様子は無かった。
「良かった、あのとき試合終了にならなくて。あのままわたしの負けになったらどうしよう、って思ってたよ」
そしてアルもそんなことより、ザンガがあのとき試合終了の判断を下さなかったことの方に興味が向いていた。
突然話を振られたザンガだったが、むしろその質問が来ることを予期していたようにすぐさま彼女へと視線を向けて口を開いた。
「体調不良による発汗と、単純な暑さによる発汗を、私が見逃すはずがない」
「……やっぱりバレちゃってたか」
アルはそう言って、ローブのポケットから薄紙で出来た小型の袋を幾つも取り出した。その中には粉末状の薬品が入っており、一定時間弱い熱を放出する効果がある。冬場ならいざ知らず、この時期にはまず使われることの無い物であることは間違いない。
ザンガはそれを目にしても表情を変えることなく目を逸らし、気絶するバズを治療する白魔術師の教師を眺める作業に入った。
アルもそれをほぼ同じタイミングで踵を返し、軽い足取りで元いた場所、つまりバニラの下へと戻ってきた。
そしてそんな彼女を、バニラが喜びと心配を綯い交ぜにした感情を振りまきながら出迎えた。
「良かった、アルちゃん! 本当に体調を崩してたらどうしよう、って思ってたんだから!」
「だから言ったでしょ、大丈夫だって」
「で、でも! 倒れそうになったあのとき、本当にアルちゃんがどうにかなっちゃうんじゃないかって、すっごく怖かったんだから――」
「バニラ」
興奮に任せて思ったことをそのまま口に出していたバニラを、アルはその一言だけで黙らせた。
その真剣な表情に、バニラは首をかしげて疑問の言葉を口に――
「ねぇバニラ、そろそろ集中した方が良いんじゃない?」
「――――あっ」
しようとしたとき、アルのその言葉によって、バニラは“或ること”を思い出した。
そして、それと同時に、
「次、バニラとダイア」
ザンガの、特に叫んでいるわけでもないのによく通る呼び掛けがバニラの耳に届いた。