〈暴食〉のアル   作:ゆうと00

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第70話

「う、んん……」

 

 ダイアが目を覚ましたとき最初に視界に飛び込んできたのは、雲1つ無い澄んだ青空ではなく、細かいヒビやら綻びやらがあちこちに見える赤煉瓦の天井だった。そして背中から伝わる感触も青々とした植物が匂い立つ草原ではなく、横たわる体を優しく受け止めて包み込む清潔なシーツだった。

 ダイアが上半身を起こして、部屋の中をぐるりと見渡す。病院で見るようなタイプのベッドが4つ横に並んでいて、ダイアが眠っていたのは最も入口から遠い窓際のものだった。部屋の壁際には様々な薬品が収められた棚が備え付けられており、先程感じた“病院で見るような”という印象を強めている。

 その棚の傍には様々な本が積み上げられた机と椅子があり、白衣を身に纏った人物がダイアに背を向ける形でそこに座っていた。

 そしてダイアがその人物へと視線を向けたのとほぼ同時、まるでそれを体で感じ取ったかのような見事なタイミングで、その人物はこちらへと振り返った。少々癖のある茶髪に黒縁の眼鏡を掛けた男で、男性にしては細い体躯とおっとりした雰囲気から、どこか気の弱そうな印象を受ける。

 

「良かった、目を覚ましたみたいだね。傷はもう治ってるけど、体力がまだ回復してないから無闇に動かないでね」

「……ありがとうございます、シン先生」

 

 あまり顔を合わせたことは無かったが、ダイアはすぐに記憶から彼の名を呼び起こすと、小さく頭を下げながらお礼の言葉を口にした。

 彼のことは、ダイアもある程度は知っていた。マンチェスタ家に代々仕える平民の家に生まれた彼は、平民でありながら白魔術を使いこなすほどの才覚に恵まれ、この学院を学年2位の成績で卒業。その後数年間の足取りは不明だが、マンチェスタ家の令嬢であるクルスと共にこの学院に就職してからは、自身の研究室や保健室に引き籠もった生活を送っている。

 ダイアとしては教師などと比べるとどうしても華やかさに欠ける印象は拭えないが、それでも王立の魔術学院に就職できるということはその実力を認められたということだ。しかも平民出身でそれを成し遂げたということで、ダイアも密かに一目置く人物であることに間違いはない。

 

「私、どれくらい眠ってました?」

「そんなに長くはないよ。夕食の時間は過ぎてるけど、まだ門限の時間にはなっていないし」

「……そうですか」

「今日はもう遅いから、ここで眠っていくと良いよ。――気分はどう? 吐き気がするとか、頭がボーッとするとか無い?」

「……大丈夫です、特に問題はありません」

 

 ダイアはシンの質問に答えながら、自分が意識を失う直前のことを思い返していた。

 視界が塗り潰されるほどに飛び回る、タンポポの綿毛。

 それらが一瞬で姿を変えて自身の体を濡らしていく、鼻をつく匂いを放つ謎の液体。

 そしてその液体を起点として、一気に自分に襲い掛かってきた炎。

 その炎に体を焼かれてのた打ち回りながらも見えた、引き攣った表情でこちらをじっと見つめるバニラ。

 

「……バニラは、ここに来ましたか?」

「バニラさん? あぁ、君がここに運ばれてくる前に来たよ。両肩を怪我してたから治療して、すぐに帰っていったけど」

「そうですか。――あいつ、どんな様子でした?」

 

 ダイアの問い掛けに、シンは彼女に向けていた視線を明後日の方向に飛ばして数秒考え、彼女へと視線を戻して口を開いた。

 

「初めて自分の魔術で人を傷つけたせいか、怖がってる感じだったね。それ自体は、演習の科目が追加される3年生の戦闘科の生徒に毎年1人くらいは見られることだよ。中には専攻の変更を希望してくる生徒もいるし、ひどいときには魔術自体が使えなくなって自主退学する生徒もいるよ」

「バニラはどうですか? 退学になりそうですか?」

「……さぁ、それについては本人次第だから何とも」

 

 シンの回答は何とも曖昧なものだったが、ダイアは「そうですか」と返事をしただけでそれ以上は訊かなかった。

 そのときの彼女の表情は、ここにいない誰かを思い起こして嘲笑うものだった。

 

「ふんっ、どうせあいつは魔術師なんかになれるわけないんだから、ここで大人しく退学しとけば良いのよ……。貴族ってだけで学院に通ってるような奴にはお似合いの末路だわ……」

 

 シンがダイアに背を向けて机に向き直った後も、彼女の独り言は続く。

 

「やっぱり、あいつにわざと負けて正解だったわ……。あいつのことだから、こうなることは目に見えてたし……。そうでなかったら、あいつに負けるなんて天地がひっくり返っても有り得ないんだから――」

「…………」

 

 背中からブツブツと聞こえてくる独り言に対して、シンは特に口を挟むつもりは無かった。

 

 

 *         *         *

 

 

 一口に“生徒寮”といっても、王立の魔術学院は創立数百年は経つ由緒正しき教育機関だ。魔術を教える場所ということから考えても生徒の多くは貴族出身であるため、たとえ子供といえどもそれなりの待遇で出迎える必要がある。あるいはそれとは別に、将来魔術で国を支える貴重な人材に成長することを期待して(と同時にプレッシャーを掛けて)いるとも考えられる。

 なので生徒が普段生活する部屋は、平民の住居がすっぽりと収まってしまうくらいに広々とした部屋となっており、備え付けられた家具や床に敷くカーペットも平民が値段を見たら目玉が飛び出すくらいに高級な物ばかり取り揃えられている。しかし貴族の中には備え付けの家具では満足できないと、わざわざ実家から高いお金を掛けて家具を取り寄せる者もいるというのだから驚きだ。

 現在バニラが(うずくま)るようにして潜り込んでいるそのベッドも、元々は実家で幼いときから使っていた物である。最初はバニラもわざわざ持ってくるなんてと遠慮したのだが、環境が変わって眠りが浅くなったらいけないという両親の配慮に渋々納得した形となった。

 しかし今のバニラは、そんな両親の配慮に感謝していた。

 こうしてベッドに潜り込んでいれば、学院に入学してからのことを一時的にでも忘れることができるのだから。

 

 こんこん――。

 

「……誰?」

 

 と、部屋のドアをノックする音に、バニラはすっぽりと頭まで被っていたベッドカバーを捲り、ゆっくりとした動きで上体を起こした。その表情は疲れ切って生気が無く、目元はほんの微かに赤く染まっている。

 このまま居留守を使ってしまおうか、さっきの呟きもドアの外までは聞こえていないだろうし、とバニラが考えていると、

 

 こんこん――。

 

 まるで狙い澄ましたかのように再び聞こえてきたノックの音に、バニラは嫌々ながらといった表情を隠そうともせずに(別に今は1人なのだから隠す必要も無いのだが)ベッドから立ち上がり、入口のドアまで歩いて鍵を外した。

 

「…………」

 

 ドアの向こう側にいたのは、まっすぐこちらを見つめるヴィナだった。

 

「あっ、ヴィナちゃん……。えっと……」

「…………」

「えっと、とりあえず、上がる……?」

 

 バニラが戸惑いながらも大きくドアを開けると、人1人が通れるくらいのスペースができた瞬間に、ヴィナが体を潜り込ませるように部屋の中へと入っていった。あまりに素早い彼女の動きにバニラは目を丸くするも、すぐに我に返ってドアをゆっくりと閉めた。

 部屋の真ん中辺りに立ってこちらをじっと見つめ続けるヴィナに、バニラが若干引き攣った笑みを浮かべて、

 

「ご、ごめんねヴィナちゃん。飲み物とか用意してなくて――」

「どうしてあそこで止めなかった?」

 

 バニラの言葉を遮って放たれたヴィナの問い掛けに、バニラは引き攣った笑みのまま固まった。

 それを気にすることなく、ヴィナが言葉を続ける。

 

「第3試験で私が出した課題は“実戦中にタンポポの綿毛で相手を取り囲むこと”でしかなかったはず。あくまで“試合でアルに勝つこと”が最終目標な以上、液体火薬を使った攻撃手段は本番までアルに見せるべきじゃなかった。今回の試合であなたが最後まで見せてしまったことで、アルはそれへの対抗手段を考える余裕ができてしまった」

「……えっと、その、ご、ごめんなさい……」

 

 体を縮こまらせて頭を下げるバニラに、ヴィナは小さく鼻から息を吐いた。

 

「でも、あなたが試合に勝てたことは事実。たとえ相手が完全に油断しきっていたとはいえ、あなたが自分の魔術で相手を倒したことには変わらない」

「ヴィ、ヴィナちゃん、観てたの……?」

「本棟の屋上から。――おめでとう」

 

 それは彼女の口から初めて聞いた、労いの言葉だった。特訓中に聞いた言葉がせいぜい『遅い』とか『もう1回』くらいでしかなかったバニラにとって、初めて彼女に認められたと受け取れる言葉でもある。

 そもそも彼女は今まで一度も、魔術を成功させて人に褒められるといった経験をしてこなかった。唯一成功した“タンポポを咲かせる魔術”も、一応教師から『おめでとう』の一言を貰っているとはいえ、それが単なる上辺だけのものであることは彼女もひしひしと感じていた。そんな彼女が初めて実戦的な魔術を成功させ、しかもそれで対戦相手を倒すことができたのである。“戦闘科”に身を置く者として、これ以上嬉しいことなんて無いだろう。

 

「あ、ありがとう、ヴィナちゃん……」

 

 だというのに、バニラの表情は実に曇っていた。顔を俯かせてたどたどしく礼を口にするバニラの姿は、どこかしら怯えているような印象を受けるものだった。

 

「ね、ねぇ、ヴィナちゃん……。その、ダイアちゃんのことなんだけどさ……」

「迅速な手当のおかげで、怪我は完全に治ってる。少しの間保健室で安静にしていれば、次の試験までには普通に動けるようになっているはず」

「そ、そっか……」

 

 質問の内容を言っていないのに的確な答えが返ってきたことにバニラは驚いた様子だったが、ダイアの容体がそれほど深刻なものではなかったことにホッと胸を撫で下ろしていた。

 しかしそれでも、バニラの表情が晴れることはなかった。

 

「ねぇ、ヴィナちゃん……。もしもあれが試験じゃなくて、救護担当の先生が傍にいなかったら――」

「確実に、相手は死んでいた」

「――――! そ、そうだよね……」

 

 “死”という明確な言葉がヴィナの口から飛び出した瞬間、バニラの肩がビクッ! と大きく跳ねた。そして体を小刻みに震わせ、口元を引き結ぶその顔から血の気が引いていく。

 そんな彼女に対し、ヴィナが言い放つ。

 

「それの何が問題なの?」

「へっ……?」

 

 一瞬ヴィナが何を言っているのか分からず、バニラは思わず顔を上げて彼女へと視線を向けた。

 相変わらずの平然とした無表情で、ヴィナは言葉を続ける。

 

「下手に手加減して手痛い反撃を食らうくらいなら、過剰攻撃するくらいが丁度良い。“もしも救護担当の教師が傍にいなかったら”なんて仮定にも意味が無い。――それに、私の言っていたことを律儀に守ったんでしょう? 『相手を殺すつもりで挑め』って言葉を」

「そ、そんな! わ、私はダイアちゃんを殺すつもりなんて――」

 

 反論しようと声を張り上げるバニラだったが、その勢いは急激に萎んでいった。

 彼女の脳裏を過ぎるのは、あのときのダイアの姿だった。

 ボロボロに焼け焦げた制服。

 皮膚が剥がれ落ちて赤黒い中身が露出した体。

 ピクリとも動かずに、今にも止まってしまいそうな呼吸。

 

「ひっ――――!」

 

 その瞬間、バニラは自分の体を抱きしめながら、脚の力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。

 そうしてガタガタと震える彼女の姿を見下ろしながら、ヴィナは僅かに首をかしげた。

 

「何をそんなに怖がってるのか、私にはよく分からない。戦闘科なんて、結局のところ“人を殺す技術を勉強するところ”でしかない。最初に戦闘科を選んだ時点で、こうなることは想定していたはず」

「そりゃそうかもしれないけどさ……、私はほら、碌に魔術も使えない“落ちこぼれ”だったから……」

「だから“誰かを傷つける機会なんて来ない”と思っていた?」

 

 最短距離でぶつけてくるヴィナの問い掛けに、バニラは床をじっと見つめながら口をモゴモゴと動かすのみだった。

 しかしやがて、彼女がポツポツと話し出す。

 

「ヴィナちゃんさ……、前に私に言ったよね……。『なんで私が戦闘科を選んだのか分からない、まだ研究科の方が向いてる』って……」

 

 それはヴィナがバニラに対して一方的に試験の目標を設定した、第1試験が行われた日の夜のことだ。

 

「本当は私も戦闘科じゃなくて、研究科に行きたかったよ……。私の実力じゃ戦闘なんて向いてないのは分かり切ってるし、研究だったらまだ幾らかやりようもあると思って……。先生にも『研究科の方が良いんじゃないか』って言われたし……」

 

 ちなみにだが、研究科ならば実技の成績は考慮されない、というわけではない。魔術の研究というのは実際に自分で使ってみたときの感覚を基に修正を加えていく方法が一般的であり、そちらの方が魔術を理論だけで研究するよりも遥かに効率的だからだ。実際、研究職で成果を挙げている研究者のほとんどが、戦闘分野においても優秀な魔術師であったりする。

 とはいえ、バニラの実技の成績を考慮するのならば、戦闘科よりも研究科に進んだ方が良いのは明らかだ。

 だったらなぜ戦闘科を選んだんだ、というヴィナの無言の問い掛けに応えるように、バニラが遠慮がちに口を開いた。

 

「3年生に進級して専攻を決めるとき、両親から『戦闘科以外は認めない』って強く言われたんだよ……。私の実家は、まだ戦争が頻繁にあった時代に武功で成り上がった家だからさ、“戦いこそが魔術師の華”って思ってるところがあるんだよね。小さい頃から『研究者なんて戦うことから逃げた軟派者だ』とか『強い魔術師こそが領民を導く最高の領主たり得るのだ』とか、そんなことばっかり聞かされたよ」

 

 バニラはそう言うと、大きく溜息を吐いて首を横に振った。その仕草には彼女にしては珍しく、他人を馬鹿にするような感情が含まれているように見える。

 しかしそれも、仕方ないのかもしれない。過去には国家間や貴族同士での領土争いなどを理由に、歴史にその名が刻まれるほどの大規模な戦争が何度も行われてきたが、ここ100年ほどは戦争とも呼べないほどの小競り合いに終始する場合がほとんどだ。昔は国家間の戦争で大活躍だった王軍も、今は警察でも手を焼く重大犯罪者の取り締まりか、魔獣が人間や村を襲ったときに派遣される程度である。

 言うなれば、バニラの両親のような考え方は“時代錯誤”と誹られても不思議ではない。しかし貴族というのは基本的にプライドが高く、貴族の位を与えられた功績に関することを殊更に持ち上げる傾向があったとしても、これまた不思議ではない。

 

「そんなの無視して、研究科に進めば良かったじゃない」

「できるわけないよ。ここに通えるのだって、両親が学費を払ってくれてるからだし……。奨学金もあくまで平民向けの制度で、実家が学費を払える余裕がある状況で認められるものじゃないし……」

 

 バニラの声はみるみる小さくなっていき、彼女が膝を抱えて顔を(うず)める頃にはヴィナの耳にも届かないほどになった。ヴィナも口を開く気配が無いため、重々しい静寂が2人を包み込む。

 しばらくの間じっとバニラを見下ろしていたヴィナだったが、興味が失せたようにふと視線を逸らしてそのまま入口のドアへと歩いていった。

 そしてドアノブに手を掛けたそのとき、

 

「ねぇ、ヴィナちゃん」

 

 バニラの呼び掛けに、ヴィナの動きがぴたりと止まった。

 

「ヴィナちゃんが初めて魔術で誰かを傷つけたときも、私みたいに怖くて震えてた……? それとも、今みたいに耐えられた……?」

 

 ヴィナはドアノブから手を離して、後ろを振り返った。

 両膝を抱えながらも僅かに顔を上げるバニラと目が合った。

 そんな彼女の目をじっと見つめながら、ヴィナは口を開いてこう答えた。

 

「憶えてない」

 

 

 *         *         *

 

 

 見るからに上等だと分かるカーペットが敷かれた生徒寮の廊下には、門限の時間が迫っているからか誰の姿も無い。そんな静寂も相まって、バニラの部屋を出てまっすぐ伸びた廊下を足音も無く歩くヴィナの立ち居振る舞いは、まるで彼女自体が幻か何かだと錯覚しそうなほどに静かで気配も希薄である。

 バニラの部屋から彼女の部屋までは、同じ建物内であることを差し引いてもあまり離れていない。階段を1階分昇って右に曲がれば、一度も曲がり角に差し掛かることなく部屋に到着する。若干早足で歩けば、おそらく1分も掛からない道のりだ。

 

「…………」

 

 そんな道のりを歩いていたヴィナは、階段を昇りきって突き当たりを右に曲がったその瞬間、普段ほとんど動くことのない眉をほんの少しだけ上げ、そして眉間に皺を寄せるほどに鋭くした。

 彼女の部屋の前に立ち、今まさにドアをノックしようとしていたその人物は、人の気配を敏感に察知してこちらへと顔を向けると、「あらまぁ」とでも言いたげに顔を綻ばせた。

 

「丁度良かった。今、あなたの部屋にお邪魔しようと思ってたのですよ。少しお話したいことがあって、中に入れてもらっても良いでしょうか?」

 

 そこにいたのは、白髪混じりの赤い髪を携えた、物腰の柔らかそうな女性の老人だった。にこにこと笑みを浮かべる彼女の目尻や口元には深い皺が刻まれ、見る者に安心感を与える暖かな雰囲気を醸し出している。見た目には70歳はとうに過ぎているであろう彼女だが、その立ち居振る舞いは非常に若々しく、しっかりとした足取りに背筋もピンとまっすぐ伸びている。

 彼女こそ、このイグリシア学院で最も偉い立場にいる学院長である。

 

「…………」

 

 そんな彼女を目の前にしたヴィナは、彼女の問い掛けにもまったく口を開かなかった。確かに大抵の生徒は彼女に話し掛けられれば緊張で声も出せなくなるだろうが、ヴィナの表情に緊張の色は微塵も無く、あからさまな敵意の含んだ警戒に染められている。

 そんな表情を向けられた学院長だが、彼女は機嫌を害した様子も無く、その朗らかな笑顔を一切崩すことなくヴィナを見つめ続ける。

 そんな無言の睨めっこが10秒ほど続き、やがてヴィナは小さく溜息を吐いて再び動き出した。学院長の傍まで歩み寄ってドアの前に立つと、制服のポケットから部屋の鍵を取り出してドアの錠を外し、ドアを大きく開け放ってそのまま部屋の中へと入っていった。

 明確な返事は無かったものの了承されたと受け取った学院長は、ヴィナについていく形で部屋の中へと足を踏み入れた。

 

 バニラと同じ広さをしているはずなのに、こちらの方が広々としているような印象を受ける。1人用ベッドや勉強机やクローゼットといった、元々この部屋に備えつけられた家具以外何も置かれていないからだ。もはやこざっぱりを通り越して殺風景と表現して差し支えないその部屋を見ると、この部屋はヴィナにとって“寝るための空間”以上の価値は無いことが容易に想像できる。おそらく勉強机の引き出しやクローゼットの中身も開けたところで、この部屋と同様に全体の1割も使われていないスカスカな光景が広がっているに違いない。

 当然ながらそんな場所に来客用の椅子なんて用意されているはずもなく、ヴィナはどこかに座るように学院長に勧めることも無く、部屋に入ったときから一直線に目指していたベッドにどっかりと腰を下ろした。

 

「よっこらしょ」

 

 しかし学院長もそれに対して戸惑う素振りも見せず、そのまま彼女と拳1つ分ほど離れた場所にポスンと座った。ヴィナが露骨に顔をしかめて彼女を睨みつけるが、それに気づいていないのか、あるいは気づいていながら無視しているのか、そこから動こうとしないでニコニコと笑みを浮かべ続けている。

 そしてその笑顔のまま、学院長が口を開いた。

 

「今日の3年生普通クラスの期末試験での、バニラさんの試合についてなんですけど、アレってヴィナさんが色々と指示した結果なんでしょうか?」

「……なんでそれを、私に?」

「あら、だってここ最近彼女を鍛えてたの、ヴィナさんでしょ?」

「…………」

 

 少しの沈黙の後、ヴィナは首を横に振った。

 

「今日の試合の目標は、あくまでタンポポを実戦でどこまで操れるかを見るものであって、むしろそれが分かればテキトーに負ける段取りだった。そこから先はアルとの試合まで、一度も見せるつもりは無かった」

「まぁ、そうでしょうね。あの場面で攻撃方法を見せてしまったら、アルさんに対策を考える時間を与えてしまうことになりますしね。バニラさんの最終目標である“試合でアルさんに勝つ”を達成する確率が、かなり下がってしまうでしょうね」

「…………」

 

 ヴィナの学院長を見る目に宿る警戒の色が、さらに濃くなっていった。わざとやっているのではないか、と思ってしまう彼女の言動に、ヴィナはもはや呆れてすらいた。

 そしてそんなヴィナに気づいていないのか、あるいは気づいていながら無視しているのか、学院長は自信の頬に手を当てながら悩ましげな表情を浮かべて、

 

「バニラさんは実技の成績があまり良くなかったのもありますが、そもそも戦闘科に向いた性格ではありませんでした。ヴィナさんが鍛えてくれたおかげで実力がついたのは確かですが、それによって彼女に払拭し難いトラウマが生まれなければ良いのですが……」

 

 そう言って大きく溜息を吐くその姿は、彼女が普段からどれほど生徒のことを気に掛けているかが窺える、まさしく生徒を案じる理想的な教育者そのものだった。

 しかしヴィナは彼女のそんな姿を見て、これ見よがしに大きな溜息を吐いた。

 そしてそこで初めて、学院長はヴィナの態度に反応して顔を向けた。

 

「あらあら、ヴィナさんは私をあまり信用していないのですね。ここに来るまでのあなたの境遇を考えれば仕方のないことかもしれませんが、できれば信用してくれると私としても嬉しいのですけど」

 

 学院長のその言葉に、ヴィナはフッと鼻から息を漏らした。口元こそ変わらなかったが、嘲笑の意味が含まれていることは明白だった。

 

「あんたを信用? できるわけないでしょう。

 

 

 ――いきなり私の前に現れて『あなたとアルさんを引き合わせる手伝いをしてあげる』って言ってきた奴のことなんか」

 

 

 ヴィナの言葉に、学院長はわざとらしく口に手を当てて「あらまぁ」と言った。

 

「でも実際のところ、助かったでしょう? ロンドの街は広いから、あの子が着ていた赤いコートを目印に私が居場所を逐一教えてなかったら、あのときにあなた達が出会うことなんて無かったと思いますよ?」

「その代わり、自称〈火刑人〉のせいで警察に捕まりかけたけど」

「アレは本当にたまたまで、言わば“不慮の事故”だったんですよ。私だって責任を感じているんですから」

「はっ! どうだか」

 

 苛立たしげに吐き捨てるヴィナに、学院長は眉尻を下げて大きく溜息を吐いた。

 そしてゆっくりと、ベッドから腰を上げる。

 

「とりあえず、ヴィナさんがバニラさんに意地悪したわけじゃないことは分かったから、そろそろお暇させてもらいますね」

「どうせ訊かなくったって、最初から分かってたくせに。だってあんた――」

「それじゃヴィナさん、試験頑張ってくださいね。次の試合はいよいよ“彼”とでしたよね。あんまり油断してると負けちゃうかもしれないですよ、彼はとても優秀な生徒なので」

 

 学院長はにこやかな笑みを浮かべながらそう言い残して、ドアを開けて部屋を出ていった。

 しんと静まり返った部屋の中で、ベッドに腰を下ろすヴィナの大きな溜息が響き渡った。


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