〈暴食〉のアル   作:ゆうと00

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第71話

「ん……、もう朝か……」

 

 バニラが自室のベッドで目を覚ましたとき、既に窓から眩しいばかりの太陽の光がこれでもかと差し込み、ベッドに横たわる彼女の肌をジリジリと熱していた。最近はすっかり日が昇るのも早くなったとはいえ、目を開けた瞬間に顔をしかめるほど眩しいとなれば、普段の起床時間を大分過ぎてしまっているだろう、と彼女は寝ぼけた頭を懸命に動かして現在の時刻を推測していく。

 しかし太陽の見える方角から考えて、それほど遅く目覚めたとは考えにくい。今は期末試験の期間なので通常の授業は無いが、それと照らし合わせてもせいぜい1時限目の授業の最中といった感じだろう。

 それに今日の普通クラスでの期末試験は、午後に執り行われる予定だ。なのでこの時間帯に起きたとしても、殊更慌てふためく必要は無い。とはいえ試合の準備などを考えると、そろそろベッドから降りた方が良いだろう。

 しかしバニラはそれらのことを全て理解したうえで、未だにベッドから上半身を起こした姿勢のまま動かなかった。そして胸に沸き立つ胸に湧き上がる憂鬱な感情を、肺の中を全部空っぽにする勢いの溜息に込めて吐き出した。それでも次から次へと湧いて出るその感情に、バニラは今にも泣きそうに顔を歪めて視線を落とした。

 

 その視線の先には、掛け布団の上に無造作に投げ出された自身の両手があった。上等な陶器のように滑らかで白い肌をしたその両手は、年端もいかない少女らしい柔らかく小さなものだ。

 しかし一度ひとたび杖を握り締めれば、その年端もいかない少女の手が、相手を死に至らしめる魔術を繰り出す“凶器”へと変貌を遂げる。

 

「…………」

 

 バニラは、自分が碌に魔術も使えない落ちこぼれであることをずっと悩んでいた。タンポポを咲かせる魔術を初めて使ったときは、ようやくまともに使える魔術が見つかったと喜ぶと共に、それが戦闘に一切役立たないことに落胆した。そして今回の試験に向けてヴィナに特訓してもらい、ようやく自分にも“実戦的な魔術”が使えるようになったと歓喜した記憶もまだ新しい。

 しかし先日の試合で悲鳴をあげて燃え盛るダイアの姿を目の当たりにして、バニラはふと考えるようになった。

 

 自分は魔術を使えるようになって、それで何をしたかったのだろうか?

 誰かを傷つけて死に追いやることが、自分のやりたいことだったのだろうか?

 

 と、前回の試験終了時から、もはや何度目になるかを数えるのも億劫なほどに繰り返し思い浮かべてきた疑問が再び湧き上がってきたそのとき、

 

 こんこん――。

 

「は――っ……」

 

 ドアのノックに反射的に返事をしようとしたバニラは、喉から声が飛び出した直後にその口を閉ざしてその声を引っ込めた。相手が誰かは分からないが、たとえ誰だったとしても顔を合わせる気分にはなれそうにない。

 しかし残念ながら、完全に声を抑えることはできなかった。ドアの向こうにいる来客は耳聡くバニラの声を聞き取ったのか、先程よりも若干強めにドアをノックして中に呼び掛けてきた。

 

「バニラ、いるんでしょ?」

「アルちゃん――!」

 

 聞きなれた声が耳に届いたその瞬間、バニラはつい数秒前に居留守を使おうと考えていたことすら忘れて、大声でその名を口にした。

 しかし、それも無理はない。

 ドアの向こうにいるのは、彼女がこの学院で間違いなく一番心を許している“親友”であるのと同時に、まさに今日の試合で戦うことになっている“対戦相手”なのだから。

 そんな彼女に、バニラは思わずベッドに手を突いて腰を浮かし、そして次の瞬間にそれに気づいてゆっくりと腰を下ろした。

 

「……アルちゃん、何か用?」

 

 代わりに口にしたその問い掛けは、バニラ本人でさえ戸惑うほどに冷たかった。

 しかしアルがそれを気にした様子は無く、明るい声でここに来た理由をドア越しに話し始めた。

 

「バニラさ、今朝食堂に来なかったでしょ? 何か食べないと体が保たないと思ったからさ、少しだけど朝食を持ってきたんだ」

「えっ――」

 

 アルの言葉に、バニラの肩がピクリと跳ねた。アルの気遣いが純粋に嬉しく、左胸の辺りがほんのりと温かくなるのを感じ、口元が自然と綻んでいく。

 しかし、いや、だからこそ、バニラはその直後に顔をしかめ、心臓を直接締め付けられるような息苦しい心地になった。それを示すように、彼女の腕は制服の左胸の辺りを皺になるくらいにきつく握り締めている。

 

「バニラ、悪いんだけど開けてくれない? 両手が塞がってるから、わたし1人じゃ開けられないんだよね」

「えっ? えっと……、うん、分かった……」

 

 バニラは少しだけ迷う素振りを見せたが、すぐにベッドから立ち上がってドアへと駆け寄った。つい先程まで誰とも顔を合わせたくないと考えていたとはいえ、ここまで朝食を運んでくれたアルを追い返すような真似はできなかった。

 鍵を外してドアを開けると、料理の載ったトレイを持つアルと目が合った。湯気を立てるシチューと肉のソテー、美味しそうな焼き色のついたパンは、1人分の朝食としては充分な量である。おそらく『少しだけど』というのは、あくまでアル基準での話のようだ。

 

「急いで持って来たんだから、冷めない内に食べちゃってねー」

 

 部屋の主であるはずのバニラを押し退けるようにして部屋に入ってきたアルは、普段バニラが勉強に使っている机まで早足で向かっていった。器に入ったシチューがポチャポチャと波を立てているが、1滴も外に零れていなかった。

 そしてアルはその机にトレイを置くと、くるりとその場で回るようにバニラへと向き直り、ニコニコと満面の笑みで彼女を見つめる。

 

「えっと、それじゃ、いただきます……」

 

 なぜかそのまま一言も喋らない彼女の謎の圧力に屈したかどうかは分からないが、バニラは戸惑いを隠せないながらも机の前にある椅子に座り、スプーンを手に取ってシチューに口をつけた。煮込んだ野菜や肉の旨味が溶け込んだ甘くて温かいスープが体に染み渡っていく感覚に、バニラは無意識にホッと息を吐いた。

 そんな彼女に、アルが「そういえば」と何かを思いだしたように呟いた。

 

「今日さ、ルークとヴィナが試合するでしょ? せっかくだし一緒に観に行かない?」

 

 アルの言葉に、バニラはスープを掬う手をピタリと止めた。

 戦闘科3年生の特進クラスでトップの成績を誇るルークと、何かと話題の尽きない実力未知数のヴィナとの試合は、クラスや学年を飛び越して生徒達の中でも話題になっており、食堂で食事をしているときもあちらこちらで話題に挙がっているほどだった。バニラとしても、アルが無実の罪を着せられたことを切っ掛けに親交を深めるようになったルークと、自分を特訓してくれたヴィナとの試合は個人的に気になるところだ。どちらもその実力は申し分なく、どれだけハイレベルな試合を見せてくれるのだろうという純粋な興味も湧き上がってくる。

 そしてその興味を自覚した途端、バニラの表情に再び影が差した。あれだけ誰かを傷つけることを恐れていた自分が、人の戦う姿を見世物として楽しもうとしていたことに嫌悪する。

 

「……ごめん、アルちゃん。私はいいや」

「えぇっ、そうなの? 良いじゃん、一緒に観ようよ!」

「あんまり体調が良くなくてさ、もう少し部屋にいることにするよ。午後の試験には多分出られると思うから、アルちゃんは1人で行ってきてよ」

「えぇっ! そんなのつまんないよー! せっかくクルスから双眼鏡を借りてきたんだからさ、わたしと一緒に“特等席”で試合を観ようよ!」

 

 言外に『行きたくない』と言っているのになかなか引こうとしないアルに、バニラは彼女に対してほんの少しだけ苛立ちを覚えた。そんな感情を彼女にぶつけるなんて、それこそ最初の演習が終わったとき以来かもしれない。

 

「ごめん、アルちゃん。今はあんまり、その、試合を観たい気分じゃないんだよ」

「そっかー、それじゃ仕方ないかぁ……。参ったな……、バニラと一緒じゃないと“特等席”に行けないんだよなぁ……」

「えっ?」

 

 顔を見なくても“しょんぼり”とした表情なのが分かる声色で呟くアルに、バニラの肩がピクリと跳ねた。

 

「そ、そうなの……?」

「そうそう。その2人の試合が結構人気みたいでさ、普段よりも大勢の人が観に来てるんだよ。だからもう会場の周りが凄い人だかりでさ、今から行っても全然見えないんだよね」

「……棟の屋上に行ったら? あそこなら庭園になってるから入れるし、上から会場を見下ろせるんじゃない?」

「そこも満杯。さっき見に行ったけど、みんな欄干にへばりついてたよ」

 

 その光景を思い出したのか、アルは可笑しそうに笑い声を混じらせながらそう言った。

 

「…………」

 

 それを聞きながら、バニラは何やら考え込んでいた。

 そして何かを迷うように数秒ほど口をモゴモゴさせてから、ゆっくりと口を開いた。

 

「……だったら私が、その“特等席”まで一緒に行こうか?」

「本当? ありがとっ!」

 

 その瞬間、アルの表情が満面の笑みで華やいだ。一切の毒気の無い純粋な笑顔に、バニラも思わず口元を緩ませる。

 

「それじゃさ! もうすぐ試合が始まるから、急いで“箒”を用意して!」

「……ほうき?」

 

 しかしアルのその言葉で、バニラの顔が戸惑いのそれへと一瞬で変わった。

 アルの手には、首にぶら下げるタイプの紐が付いた“双眼鏡”が2つ握られていた。

 

 

 

 

 もしもこれが本当に見世物だとしたら、興行的にはまさしく“大成功”と表現して差し支えないだろう。そんな馬鹿げたことを考えてしまうくらいには、現在の広場は大勢のギャラリーで溢れていた。

 特進クラスの試合を観て参考にしようという真面目な生徒は一定数いるし、特にそれが学年問わず女子から絶大な人気を誇るルークともなれば観客が多くなるもの頷ける。しかし現在、試合会場の周りを取り囲んでいる生徒の数は、元々の特進クラスの生徒数を大きく上回っていた。会場の境界線である赤い線よりも更に離れた場所で試合開始を待つ生徒達の光景は、まるで闘技場の四方を取り囲む壁のようである。

 しかも観客はそれだけに留まらない。学院の本棟を構成する5つの塔の内、真ん中の“白の塔”以外は屋上が庭園となっているため立ち入ることができる。なので会場に隣接した2つの塔の屋上は、生徒だけでなく手の空いた教師の姿も見受けられた。そこから会場を見下ろせば、ますます広場が即席の闘技場に見えることだろう。

 さて、それだけの観客が集まっていることもあって、アルの言う通り、会場をよく見渡せるポイントは既に押さえられてしまっている。試合開始直前にやって来たアルとバニラの入る余地など残されていない、と思われていたが、

 

「おぉっ、やっぱりよく見える! ちょっと遠いけど、双眼鏡を使えば大丈夫でしょ!」

「ちょ、ちょっとアルちゃん! ほ、本当に大丈夫なの、こんな所に上っちゃって!」

 

 満面の笑みではしゃぐアルに対し、バニラは顔面蒼白で体をガタガタ震わせながら彼女に呼び掛けた。

 2人が現在いるのは、唯一屋上庭園が造られていない“白の塔”の頂上、円錐状になっている屋根の上である。バニラの箒に乗ってここまで来たは良いものの、当然ながら柵なんてものは存在していないので、ちょっとでも足を滑らせれば大惨事は免れない。

 ちなみに、屋根には2人以外の姿は無い。素行の悪い生徒が1人くらいはいそうなものだが、屋根のすぐ真下に学院長室があるのが影響しているのかもしれない。そう考えると、バニラがガタガタ震えているのも、塔の高さによるものだけではないのかもしれない。

 

「大丈夫だって! 学院長だったらわたし達がここにいることだって知ってるはずだし、何も言ってこないってことは黙認されてるってことだよ」

 

 しかしアルはそんなバニラに構う素振りを見せず、双眼鏡を目に当てて広場を観察するのに忙しい様子だった。

 

「…………もう」

 

 バニラは大きく溜息を吐いてそれ以上は何も言わず、自分の手元へと視線を落とした。

 彼女の両手には、先程アルから渡された双眼鏡が握られていた。

 

「…………」

 

 しばらく迷う素振りを見せていたバニラだったが、やがてゆっくりと、双眼鏡のレンズを自分の両目に当てて覗き込んだ。

 一定の距離を保って向かい合うルークとヴィナの姿が、レンズによって巨大化されて彼女の目に映った。

 

 

 *         *         *

 

 

「改めてルールを確認する。勝利条件は相手を戦闘不能にするか、相手をエリアの外に出すか、あるいは相手が降参を申し出て審判である私がそれを認めたら――」

 

 もはや生徒の誰もがまともに聞いてないであろうことが分かっていて、それでも省略することなく律儀にルール説明を続けるザンガの声を右から左に聞き流しながら、ルークは正面に立つヴィナを観察していた。

 彼女は相変わらずの無表情で、何を考えているのか読み取ることができない。過去3戦の相手は学年1位の自分と戦うだけあって大なり小なり緊張した面持ちばかりだったが、少なくとも彼女は緊張しているようには見えなかった。

 これまでの3戦、ヴィナはどれも傷1つ負うことなく勝利を収めている。相手にまともに攻撃させる暇すら与えずに炎系統の魔術でゴリ押しする単純な戦法だが、相手を選ばずにその戦法が成立している時点でかなりの実力なのが窺える。

 ルークの脳裏に、これまでのヴィナの試合風景が浮かび上がる。そのどれもが彼女の真正面に巨大な炎が燃え盛る光景で終了しており、彼女は試合開始時から1歩も動くことなくそれを平然と眺めているのみだった。それはもはや試合と呼ぶのもおこがましい、彼女にとってみれば単なる“作業”でしかないほどに一方的な試合展開だった。

 

 そんな経緯もあり、最近ではクラス内にヴィナの実力を疑う者は1人もいなくなっていた。最初はアルの知り合いということもあって侮蔑と好奇の視線を彼女に向けていたクラスメイト達も、今や彼女を見る目には畏怖の念が宿っている。もっとも、ルーク以外に彼女と会話を交わすクラスメイトがいないことに変わりないのだが。

 そんな彼女を正面に据えて、ルークは小さく深呼吸を繰り返した。そしてその行動によって、彼は自分が現在緊張していることを自覚した。

 しかし、自分の口角が不自然に吊り上がっていくのは、自覚できなかった。

 

「――それでは、試合開始!」

 

 ザンガが声を張り上げて宣言し、会場を取り巻くギャラリーの緊張感が一気に高まった。

 

 

 そして次の瞬間、ルークの体が炎で包まれた。


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