〈暴食〉のアル   作:ゆうと00

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第78話

「はぁ――はぁ――」

 

 鬱蒼とした森の中を歩く、1人の少女がいた。

 背中に掛かるほどに長い金髪は、以前ならば太陽の光そのものだと形容されるほどに鮮やかだったであろうに、現在は砂と泥に塗れて見るに堪えないほどに変わり果てている。身に着けている服も急激な気温の変化や怪我に耐えられるとはとても思えない、薄い布1枚をとりあえず服の形にしたような粗末極まるものであり、それすらも現在はあちこちが破れてしまっている。もちろん靴なんて上等なものは履いておらず、尖った石や木の根が点在する地面を裸足で歩いている。

 そしてその敗れた箇所から覗く白い肌は、打撲や裂傷によって赤や青に変色し、さらに砂や泥の汚れで覆われていた。森どころか街中を歩くのにも適していない彼女の恰好、この森が学院近くの演習場とは違って毒のある虫や中型の魔獣も生息していることを考えると、これでも奇跡的なほどに軽傷で済んでいると言えるだろう。

 

「はぁ――はぁ――」

 

 いつ立ち止まってもおかしくない覚束ない足取りで、木の傍を通り過ぎる度にそれに寄り掛かって短い休憩を繰り返すほどに体力を消耗しているが、それでも少女は立ち止まろうとしなかった。パッチリと大きく澄んだ蒼い目が今にも閉じられそうになるのを懸命に堪え、時折後ろを振り返って何かを確認するような仕草をしながら、少女は1歩1歩ゆっくりと前に進んでいく。

 

「早く――戻らないと――みんなが――」

 

 荒い呼吸の合間に、少女の口からふとそんな言葉が漏れ出た。そして少女はそれを自分の耳で聞き取り、睨みつけるようにキッと前を見据えて踏み出す足に力を込めた。

 そんな少女の耳は、上半分が上方向に尖った特徴的な外見をしていた。

 

 

 *         *         *

 

 

「おー! すごーい!」

「グルルッ――」

 

 学院前で待機しているという“フゥ”を目の当たりにしてから現在まで、アルは事あるごとに興奮した様子で感嘆の言葉を叫んでいた。混じりっ気の無い無邪気そのものな彼女の反応に、帰省に対してまったく乗り気でなかったクルスでさえも思わず口元が綻ぶほどだった。

 そこまでアルを興奮させたフゥというのは、“スカイドラゴン”と称されるドラゴンの一種だった。人が簡単に踏み込めない山々の頂上を根城にして、一度離陸すると数十時間は空を飛び続けるという、見掛けることすら希少なドラゴンの中でも特に珍しい種類である。しかもルークの使い魔であるブラントとは違って成体であり、ブラントよりも体高だけで文字通り頭1つ抜きん出ており、それに合わせて全体的な体の大きさもかなりの迫力となっている。

 そしてフゥの背中には、おそらく今から自分達が乗るであろう籠のようなものが取り付けられていた。数人ほどは余裕で座れるほどの広さがあるそれは、充分な高さのある柵で囲まれているので落下の心配も無く、屋根も付いているので雨も防ぐことができる。なので見た目的には籠というよりも、公園などに置かれている東屋(あずまや)の方が近いかもしれない。

 そんなフゥをキラキラした目で見つめていたアルだが、ふいに彼女の体が浮き上がったと思ったら、見えない何かに摘ままれているかのようにその籠まで運ばれていった。スカイドラゴンは風系統の魔術に似た攻撃手段を持っており、アルだけでなくクルス達も同じようにフワフワと浮かんでいるのが見えた。

 

 そうして全員が乗ったのを確認すると、フゥは背中に生えた翼を大きくバサッと広げた。見た目としてはコウモリに似たそれであるが、その大きさは普通の民家が数棟ほど余裕で入るほどに桁違いだ。それをバサバサとはためかせると、自身の数百キロ(下手したらそれ以上)の体重に加えアル達5人と1匹を乗せた籠を物ともせずに、その巨体がフワリと重力から解放されたように浮き上がった。

 そうしてあっという間に学院が玩具か何かに見えるほどにまで高く飛び上がると、その体を水平にして空を貫く勢いで飛び始めた。そのスピードは先月にブラントに乗ってロンドまで行ったときよりもさらに速く、これがまたアルの気分を高揚させた。

 

『マンチェスタ家が誇るスカイドラゴン、どうやらお気に召していただけたようで何よりでございます』

 

 現在はシンの胸ポケットにその体をすっぽりと収めているアーノルドが、その小さな体で恭しさをめいいっぱい表現して頭を下げた。ちなみにフゥが彼女達を籠に乗せたのも、こうして空を飛んでいるのも、すべてアーノルドの指示によるものである。巨大なドラゴンが爪の先ほどの大きさしかないネズミに使役されるというのは、何ともシュールな光景である。

 

「こんな伝説上でしか見たことのない生き物がいるなんて……。やっぱりマンチェスタ家って凄いんですね……」

「そりゃ一部の人間からは“現王政よりも力を持つ地方貴族”とまで言われてるくらいだからね」

『ほっほっほっ。シン殿、あまりそういうことを吹聴すると不敬罪に問われかねませんぞ』

 

 バニラの呟きに反応したシンの言葉に、アーノルドが窘めるようにそう言った。しかしそれに反して、その声色は不釣り合いに明るいものだった。自分の仕えている一族への敬意と誇りを隠しきれていない彼に、彼らから少し離れた場所に座るクルスは秘かに溜息を吐いた。

 そしてクルスのすぐ近くでアルが柵から身を乗り出して眼下の景色を眺めていたのだが、何やら退屈そうにあくびをしながら柵から離れて腰を下ろした。おそらく先程から森と平原と川くらいしか見るものが無く、早々に飽きてしまったのだろう。主要都市などでは一定の高度以上で街の上を飛んではいけない条例が定められている場合が多く、ドラゴンのように空中で移動する際は街などを避けて進む必要があるため、そのような景色ばかりになっても致し方ないのだが。

 そんな彼女の次なる興味の対象に選ばれたのは、アーノルドを胸ポケットにしまうシンだった。

 

「そういえばシンって、そのネズミと昔から知り合いなの? さっきから何だか親しい感じだけど」

「親しいかどうかは知らないけど、昔から知り合いなのは間違いないよ」

『確かに、シン殿が物心もつかない赤ん坊の頃から知っておりますからな』

 

 感慨深そうにそう言って頷くアーノルドに、バニラは「えっ、そうなんですか?」と意外そうに目を丸くした。

 

「でもシン先生、確か私の記憶違いじゃなければ、平民出身だったと思うんですけど……」

「確かに僕の家は貴族でも何でもない普通の家だけど、僕の両親がマンチェスタ家に仕えてるからね。その付き合いで、僕も小さい頃から屋敷に出入りすることが多かったんだよ」

『もっともシン殿の場合、“大変重要な役目”を御当主様より仰せつかっておりましたからな』

「重要な役目? 何それ?」

 

 何やら勿体ぶった言い回しに惹かれてアルが尋ねると、アーノルドは意味ありげな所作でクルスへと顔を向けた。突然無言で話を振られたクルスは、その視線から逃げるように明後日の方へとそっぽを向いた。

 そんな彼女の反応に含み笑い(ネズミだから表情は分かりづらいが、おそらくそんな感じで)をしたアーノルドは、改めてアルに向き直ってその質問に答える。

 

『幼かった頃のシン殿の役目は、ずばり“クルスお嬢様の遊び相手”でございました』

「へぇっ、シン先生が! ということは、マンチェスタ先生とシン先生って幼馴染だったんですね!」

 

 満面の笑みと共にそう言ったバニラに、シンはなぜか苦笑いで応えた。

 

「幼馴染っていうか、僕はどちらかというと“家来”みたいな感じだったけどね」

「でも、自分の子供の遊び相手に指名されるんですから、シン先生のご両親は相当信頼されてたんですよ!」

「ん? そういうもんなの、バニラ?」

 

 首をかしげて尋ねるアルに、バニラは「そうだよ」と即座に彼女の方を向いて答えた。

 

「貴族の家では、特にマンチェスタ家みたいに格式の高い家になるほど、跡取り候補になる子供と顔を合わせられる人が制限されるんだよ。遊び相手だとしてもそれは変わらなくて、大抵はごく一部の古株の使用人とか、分家があればそこの同世代の子供とか、そういった人がその役目を担うことになるんだよ」

『確かにマンチェスタ家は格式こそ高いですが、今の御当主様は貴族や平民といったものに関して特にこだわりはありませんからな。シン殿のご両親は御当主様にとってなくてはならない存在であり、故に信頼関係も厚いのでございます』

「へぇ、何だか羨ましいですね……。私の両親の場合、それとは正反対に平民の人に対してはかなり厳しいですから……」

『平民に厳しいというのは、何も悪いことばかりではありませぬ。貴族としての責任を重んじているからこそ、貴族と平民の待遇や役割を明確に区別するということもございます。もちろん無闇な重税などで平民を締め上げたり私腹を肥やすような輩は論外ですが、ヴァルシローネ家に関しましては、少なくとも私がそのようなことを聞いた覚えはございません』

「そ、そうですね……。えっと、ありがとうございます……」

 

 バニラからしたら自分の両親への苦言を他家の使用人に諭された形となったからか、気恥ずかしさや気まずさ、そして自分の両親への申し訳なさで自然とアーノルドに頭を下げていた。人間のバニラがネズミに対して頭を下げるというのは、何ともシュールな光景である。

 そんな彼女をフォローするようなタイミングで、シンがこんなことを言い出した。

 

「とはいっても、マンチェスタ家がかなり変わってることは間違いありませんけどね。少なくとも僕は、領主の嫡子が大人の護衛も付けずに平民に混じって領地を駆け回ってるなんて、今まで1回も聞いたことがありませんから」

『ほっほっほっ、それは“マンチェスタ家が”というよりは“クルスお嬢様が”と表現するのが適切でございますぞ、シン殿』

 

 シンとアーノルドの口から語られるクルスの幼少期に、アルとバニラが揃って目を見開いて食いついた。アルは面白いものを見つけたように楽しそうな笑顔、バニラはにわかには信じ難いと物語る困惑の表情、という違いはあったが。

 

「えっ、何々! クルスって、昔はそういう感じだったの?」

「そうだったんですか? 何だか意外ですね……。今のマンチェスタ先生はとても落ち着いていて、いかにも“貴族出身のお嬢様”って感じなのに……」

『ほっほっほっ、現在のお嬢様の学院での様子はシン殿を介して聞いております。今でこそマンチェスタ家の令嬢に恥じない――とまではいかなくとも相応の振る舞いをなさるようになりましたが、それこそ学生時代から卒業後の数年間に関しては――』

「アーノルド、お喋りはそこまでにしなさい。シンも、何を余計なことを口走っているのかしら?」

 

 ぴしゃりと言い放つようなクルスの鋭い声に、アーノルドは含んだような笑みで口を閉ざし、シンは肩を小さく震わせて苦笑いを浮かべた。

 当然のように納得できないアルは「えー!」と唇を尖らせて、

 

「何だかすっごい気になるんだけど! ――ねぇねぇ、後でクルスのいないときにこっそり聞かせてよ」

『承知致しました。エピソードには事欠きませんので、必ずやアル様を満足させて御覧に入れましょう』

「アーノルド、少しでも喋ったら本当に承知しないわよ」

 

 外の景色に顔を向けながら吐き捨てるようにそう言うクルスに、アーノルドはその小さな体を器用に動かして肩を竦めてみせた。どう考えても一般的な主人と執事では有り得ない会話を繰り広げる2人を、バニラは羨望にも似た眼差しで見つめていた。

 と、そのとき、バニラのすぐ隣から、グゥ、と小さな獣が唸るような音が聞こえてきた。

 隣に目を移すまでもなく、その音の正体がアルの腹の虫だというのが容易に分かった。

 

「あー、お腹空いたー。ねぇねぇ、そろそろお昼ご飯にしない?」

「確かに、もうそんな時間ね。せっかくだから、どこか適当な場所に降りて食事にしましょうか」

『かしこまりました』

 

 クルスの提案を受け、アーノルドがフゥに指示を出した。空を貫く勢いで飛んでいたフゥは、背中に乗るクルス達が慣性で吹っ飛ばされないように徐々にそのスピードを緩め、それに合わせて高度も落として地上に近づいていく。

 そんな中で地上を隈なく見渡していたアーノルドの決定により、地平線ギリギリまで広がる原生林の中にある小高い丘が皆の昼食の場となった。その丘にだけ木が生えておらず、まるで鮮やかな緑色の海にぽっかりと浮かぶ孤島のような光景である。

 

「やっほーい! お昼だお昼だー!」

 

 フゥの両脚が地面に付くかどうかというタイミングでその背中から飛び出したアルは、自身の何倍もある高さから着地した衝撃を感じさせることもなくはしゃいでいた。そんな彼女の様子はすっかり慣れたものなのか、クルスは「そんなに慌てなくてもお昼は逃げないわよー」と呼び掛け、バニラは困ったように眉を寄せて笑みを零し、ヴィナは無言を貫きながらもその目を彼女に固定させている。

 

「ほぅ、成程……」

 

 しかし彼女の身体能力を初めて目の当たりにしたアーノルドは、シンの胸ポケットに体をすっぽりと収めた状態で興味深そうに彼女を観察していた。

 行きのときと同じようにフゥの助けを借りて、バニラ達も地面に降り立った。しっかりと根の張られた芝生で地面が覆われているので、わざわざシートを敷かなくてもあまり服が汚れることはない。バニラだけは座るときに少しだけ躊躇う素振りを見せていたが、他の面々が躊躇いなく地面に座り込んでいるのを見て、ゆっくりとした仕草で地面に腰を下ろした。

 

「クルス! 早く早く!」

「はいはい、分かってるって。そんなに急かさないの」

 

 アルの期待に満ちた眼差しをビシビシと感じながら、クルスが右手に持っていた“箱”を地面に置いた。

 それは学院を出発する際に食堂の料理人達に頼んで作らせた、昼食用の弁当だった。両手で抱えるほどに大きな3層構造の弁当箱は、液体が染み出さず破れにくい特殊な紙で作られている。紙で出来ているため軽く、役目を終えれば小さく折り畳んで廃棄したり焼却できるため、余計な荷物を持ちたくない旅行者などに人気のものだ。

 

「おぉっ! 美味しそー!」

 

 蓋を開けて中を覗き込んだアルの言葉通り、そこには鶏の唐揚げや卵焼きやサンドイッチなど、まさにピクニックなどで持って行くような定番の料理がこれでもかと詰まっていた。ただの定番料理と侮ってはいけない。学院に雇われている料理人は料理長のボルノーを始めとして優秀な人材ばかりであるため、料理の味自体もさることながら、視覚的にも楽しめるように盛り付け方にも工夫が凝らされている。

 普段から豪勢な食事を楽しむアル達にもその効果は覿面(てきめん)なようで、クルスやシン、バニラもその弁当を覗いて自然と口元が綻んでいた。ネズミなので表情の変化が分からないアーノルド、そしてこんなときでも無表情のヴィナはそのままだったが、少なくともその料理に不満を持っている様子は無さそうだ。

 全員が弁当を囲むように集まったのを確認したシンが、自分の荷物から使い捨てのフォークを皆に配ろうとして、

 

「それじゃ、いっただっきまーす!」

 

 それすらも待ちきれないアルが、我先にとサンドイッチに手を伸ばした、

 まさに、そのときだった。

 

「――グルルッ」

『どうした、フゥ?』

 

 近くで俯せに寝そべっていたフゥが唸り声をあげて上半身を起こし、何かを覗き込むように或る方向へと顔を向けた。それに気づいたアーノルドが同じ場所へと目を凝らし、他の面々もそれに倣ってそちらへと顔を向ける。アルも彼らと同じ行動を取るが、彼女だけはちゃっかりサンドイッチを手にしてモグモグと咀嚼している。

 フゥが顔を向けたそこは、他の方向と同じように木が生い茂っている森の風景が広がっているだけだった。まさか魔獣でも潜んでいるのか、とクルス達の目に警戒の色が宿る。

 そんな彼女達の見つめる中、その茂みの向こうから“彼女”は姿を現した。

 

「えっ――!」

「――――!」

 

 アル達と同じか少し年下であろうその少女は、背中に掛かるほどに長い金髪を砂や泥に塗れさせ、あちこちが敗れた粗雑な服から覗かせる肌には痛々しい打撲痕や生々しい裂傷が見え隠れしていた。尖った石や木の根が点在する地面を歩いたであろう足は特にひどく、遠くからでも分かるほどに泥と血に塗れていた。

 そしてその少女が顔を上げてアル達の姿を目に映した途端、彼女は糸が切れたようにその場に倒れ伏した。


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