二人の転校生が来てから一週間が経過した。放課後の第三アリーナで、三人の男女が親しげに言葉を交わしている。一夏、セシリア、鈴の三人だ。訓練の場であるのに、シンの姿は見られない。たいていの場合、一夏の特訓にはシンが同席しているので、珍しいことである。
「さて、それじゃあ摸擬戦始めるか。二人とも、よろしく頼むぜ」
「アンタが自分から頼むなんてね。まあ、仕方ないから手伝ってやるけど」
「ふふふ、ようやくわたくしの実力にお気づきになったのかしら」
ISを展開させながらセシリアと鈴が得意げに笑った。お互いに隣をチラリと見て火花を散らしたが、一夏の目には映らない。グッと握りしめる雪片弐型。その鋭い刃に映って見えたのは、シンの姿だった。
織斑一夏は、誰かを守ることへの強い羨望がある。幼い頃から両親はおらず、強い姉に一人守られてきたことがその憧れの原因だ。偶然とは言えISを動かせるようになったことは、その思いを現実に近づけるのに都合よい事態だった。これで、自分の守りたいものを守れる。守りたいという意志も、それを貫くための心の強さも、一夏は持ち合わせてはいた。しかし入学当初、それはまだ幼い、漠然としたものでもあった。憧れ、目標とするものがどこか遠いのだ。
確かに、織斑千冬は唯一の肉親であり、近しい目標のように思われる。だが、その実、千冬は異性であり、年も離れており、なにより世界大会優勝という経歴は、身近に置く目標にはあまりにかけ離れている。自覚はないが、一夏には意志を貫く強さがあっても、それを求め続ける“渇望”が無かったのだ。おそらく学園に一人の男子であったのなら、無意識のまま、その幼い憧憬を抱き続けただろう。姉のようになれたらいい、と。
しかし、学園に現れたもう一人の男子。シン・アスカがいた。
同じ年頃、同じ男同士、同じ守るという目標を持っているにもかかわらず、自分とは比べ物にならない力。自分を牽引し、周囲の信頼を勝ち取っていき、みんなを守っていくその力。一夏にとっては足りなかった、競い比べる相手だった。このようになりたいという、曖昧な気持ちではない。『この背中を超えたい』という明確な目標を形作るには、シンは十分すぎる相手になった。
一夏は剣を見つめ続ける。
今手にしている、雪片弐型。姉の手にしていた雪片に似た刀。
先ほど廊下であったときに、その姉が自分に言ったのだ。
『アスカと一緒にいることが多いようだが、一つ言っておく。お前はアスカと同じにならなくていいんだ』
『千冬姉、それってどういう……?』
『おそらく、だがな。アイツも同じことを思っているはずだ。お前にはお前の力がある。それを信じることだ』
『俺の力……』
『そら、分かったら早く行け。ノロノロしていると、アスカはいつまでもお前の先にいるぞ?』
雪片弐型を、大きく振るう。その切っ先に映ったのは、今度は一夏の姿。
自分を信じること。自分の力を見つけること。
それができなければ、きっとシンには追いつけない。ましてや追い越すなんてできやしない。
ならば、シンと同等の訓練だけじゃ足りない。同量の訓練でさえ、追いつけるか分からないのだ。
対峙する二人の姿を見据え、剣を構える。そこに迷いはない。
「行くぞっ!――」
大きく踏み込み、剣を振りかぶったその時――
真横から、砲撃の重音が三人の間に割って入った。
◇
「今日の訓練は第三アリーナだよな? 一夏たちは先に行ってるみたいだし」
「うん。みんなで摸擬戦をするみたいだよ」
放課後になって、俺とシャルルは特訓のために第三アリーナに向かっていた。みんなに先に行ってもらったのには、ちょっとした理由がある。
「ねえ、シン。訓練の手伝いの話、僕でホントに良いの?」
「シャルルだから頼めるんだ。お世話になる」
今日から一夏たちとの訓練に加えて、シャルルに特訓を頼むことにしていた。学年別個人トーナメントを勝ち抜くための、言わば秘密特訓ってやつだ。各シルエットを使いこなすのと、それともう一つ考えてある奥の手。それができるようにするためには、シャルルの助けが必須になる。シャルルも快く承諾してくれたから、とりあえずは安心だ。
……唯一、シャルルには訓練の内容が筒抜けになるっていう穴があるんだけど。対シャルル戦、考えておかないといけないな。摸擬戦のデータを収集して、手っ取り早くシミュレーションでも組むのが一番か? いや、それも少しまずい。持久戦が得意なシャルルだから、逆に対策をうたれた時が危ないだろう。新装備を使って新しい戦術に切り替えるのが良いか? ダメだ。これは時間が足りないから現実的じゃない。うーん、何か別に方法がないか――
「し、シン。あんまりじっと見つめられると……」
「ん? ああ、ゴメン――」
「アスカ! デュノア! ここにいたか!」
慌てた様子で、篠ノ乃が廊下の向こうから駆けてきた。あれ、一夏の訓練に合流してるはずじゃなかったっけ?
「篠ノ乃、どうしたんだよ?」
「先に行った三人が、ラウラと交戦している! 急げ!」
「ラウラっ!? アイツ、性懲りもなくっ!」
十中八九、仕掛けてきたのはラウラからだ。三対一で、しかも、同じ専用機持ちを相手にけしかける。並大抵の自信じゃない。
第三アリーナ近づくごとに、騒ぎが大きくなっている。観客席のゲートに飛び込むと、ステージでは四つの機影が空中を舞っていた。
いくつもの青いビットが、黒い機体を取り囲む。でも、ラウラが右腕を掲げた途端に、包囲射撃をしようとする各機が動きを止めた。その隙をつくために近づいた
明らかに一夏たちが圧されている。三人とも、攻撃のタイミングは合っていたはずだ。なのに、ラウラが腕を振るうだけで、三人はまるで身動きが取れなくなっている。
「くそっ、どうなってるんだよ!?」
「シン、あれはAICだよ。シュヴァルツィア・レーゲンの第三世代型兵器だ。慣性停止能力、まさかあそこまで完成してるなんて……」
「ようするに特殊武装なんだな? 分かった! シャルル、ありがとう!」
「アスカ、待てっ!」
観客席を抜けて、ピットの中へ。くそっ、もたもたしてると三人ともやられる。一夏、セシリア、凰――
イグナイテッドを展開しながら、シルエットはソードを選択。ピットの入り口を開けようとするんだけど、またもピットは開かない。使用許可申請だとか、模擬戦闘中につき待機しろだとか……ああもうっ、ごちゃごちゃうるさい! こっちは急いでるんだよ!
「もういいっ! 邪魔だっ!」
入り口の後方に飛んでいって、対艦刀を引き出す。
降りぬかれた刃が、そのきらめきをどんどん強くしていく。その切っ先をゲートに突きつけて、準備完了。
「シン! ちょっとそれはダメ――」
「はああああっっっ!」
限界まで引き上げられた出力が、対艦刀の先にまでビームの刃を形作る。
瞬発力特化のスラスターを背負い、その勢いに任せたまま、無理やりにゲートに突っ込んだ。
刃が扉に衝突した瞬間、バリヤーの干渉が周囲に紫電を撒き散らす。
火を噴き続けるスラスター。次第に弱まる光の膜。聞こえてくる、ひび割れるような音。
特殊合金がへこみを作った次の瞬間、周りの壁ごと引きはがされて、ゲートは轟音と共にステージに投げ出された。
「一夏! セシリア! 凰!」
「シン!」
「アンタ、またやったの!?」
「無茶なさいますわね、まったく」
戦闘を継続していたらしい四人が一斉にこっちを向いた。
みんなは……良かった。ダメージは負ってるけど、まだ機体は維持できてる。
「ラウラ、お前……!」
「ようやく来たか。こいつらでは準備運動にしかならなかったぞ?」
「これ以上、お前がみんなを傷つけるなら……」
対艦刀の大きな刃で、空中を何度も切り裂いた。頭の中は真っ白だ。
全身を赤く染めるソードシルエット。空いた片手でもう一本の対艦刀を掴んで、ラウラに近づいていく。
もうガマンの限界だ。堪忍袋の緒が切れた。トーナメントなんて気の長い話、していられるかっ……!
「叩き切って――」
「そこまでだお前達!」
俺の言葉を遮った、あの声。振り向いてみれば、間違いない。織斑先生だった。隣にはシャルルに篠ノ乃、山田先生までいる。
「アリーナを破壊されても困るのでな。決着をつけたかったら学年別トーナメントでやってもらおう。それから、トーナメントまでは私闘は一切禁止だ。ラウラ、いいな?」
「教官がそう、仰るのなら」
少し不満がありそうだったけど、素直にラウラは肯くと、スタスタと歩み去ってしまった。
「お前達も、それで良いな?」
「あ、ああ……」
「返事は『ハイ』だ。アスカ、お前はどうなんだ?」
「……了解であります」
はっきり言って俺の方は不満だらけだ。みんなを傷つけて、何も無しなんて……けど、ここで頭に血が上ったままじゃいけないってことも、一応理解していた。怒りとか憎しみだけで戦っちゃいけないって。それじゃ何にもならないって。まあ、やっぱり腹は立つんだけど。
仕方がないから、イグナイテッドの展開を解除。俺も入り口の方に歩いていこうとしたら、山田先生が立ちふさがった。困ったような笑顔で、どこかを指さしている。
「山田先生、どうかしたんですか?」
「あの、アスカくん、アレは……」
アレ? 不思議に思ってぐるりと首を回すと、そこには鉄の塊――さっきまでゲートと呼ばれていたもの――が転がっていた。それから、ちらほらと壁の破片。なんであんなものが転がって……はっ!?
ISのプログラムも驚くだろう速度で、俺は自分がやったことを正確に整理し始める。
許可申請の不備。それにも関わらずアリーナに乱入。その結果の器物破損。
かろうじて戦闘行為は避けられたのが、救いなのか?
どっちにしろ、生徒指導室行きだよなあ……
迫り来る圧迫感に威圧感。心に忍び寄るのは焦燥感。
むんずと首根っこを捕まえられた。誰がやったのかなんて、見なくてもわかる。
「シン、俺たち先に戻ってるから……」
「こりない方ですわね」
「フン、バーカ」
「……今回は、私は何もしてないぞ?」
「アハハ……シン、後でね」
それぞれみんなが敬礼をして、俺の横を過ぎ去っていく。一夏、セシリア、凰、篠ノ乃、それにシャルル。さよならみんな。俺、みんなに会えて良かったよ――
「さあ、扉を壊したことはどのように説明してくれるつもりだ?」
怒りで真っ白だった目の前が、今度は絶望で真っ暗になった。
ねえ、ステラ。どうして俺はいつまでたっても成長しないんだろうね。
◇
お説教という名の束縛から開放された時には、既に空に月が昇っていた。空腹と疲労のせいでフラフラになりながら、なんとか食堂にたどり着く。扉を開ければ、一夏たちが座っている席が見えた。最後の力を振り絞って手を振ろうとしたけど、目の前にわっと押し寄せる人の波。たちまちに俺は呑み込まれた。
「アスカくん! 私と組んで!」
「ペアは是非とも私と!」
「何も言わなくていいから、ここにサインして! 幸せにするから!」
組む? ペア? 何を言われているかわからないけど、今の俺にはそれを聞き返す気力も尽きていた。あれよあれよ、波間を漂う木の葉みたいに流されていく。けど、力なく弄ばれる俺の両手を誰かが引っ張り上げてくれた。暖かい手が二人分。いったい誰が?
「おいシン!? しっかりしろ! コラコラ、そこ、ルール違反だって」
「シン、大丈夫!? ほら、ペン握ってちゃダメだよ! サインしちゃダメっ!!」
一夏にシャルルだった。二人が俺を担ぎながら、人の波をかき分けて奥のテーブルに向かう。一夏も、セシリアも、凰も、みんな怪我が無さそうで良かった。もしあのまま戦闘が続いていたら、大怪我をしていたかもしれない。
「みんな、無事で良かった……」
「お前の方が無事じゃないぞ、シン。ほら、今メシが来るからな?」
「二回もアリーナのドアを壊す奴がいる? ホント、バカね」
「あら鈴さん。先程までシンさんの心配をしていた方の発言とは思えませんわね?」
「べ、別にこんな奴の心配なんてしてないわよっ!」
セシリアと凰は仲良く喧嘩してるし、篠ノ乃とシャルルはそれを眺めながらお茶飲んでるし、いつも通りの光景だ。一夏が差し出してくれたお茶を飲むと、気力がみるみる回復してくる。仲間って良いものだ。飲み干すお茶も、俺の目頭も熱い。
あ、そうだ。ペアって何の話だったんだろう?
「みんな助かったよ、ありがとう。ところで、ペアって何のこと?」
「ああ、コレのことだ」
篠ノ乃がひらりと紙一枚を渡す。なになに、『今月開催する学年別トーナメントでは、より実戦的な摸擬戦闘を行うため――
「『二人組みでの参加を必須とする』、か。随分と急な話だな」
「それで、ペアをどうするかで話をしようと思って、ここに集まってるんだ」
食堂の賑わいもこれが原因らしい。ペア、か。いつものグループだったら、全部で六人。二人ずつで上手に組み合わせができるところなんだけど。
辺りでは女子がみんなこっちの発言に聞き耳を立てている。多分、貴重な男子生徒とペアを組みたいってことなんだろう。相も変わらず、俺たちは珍獣だ。はあ、どうしよう。
「なあ、シン。今回は俺とお前、別々で戦わないか?」
「え? 一夏、どうしてだ?」
俺にとって意外な申し出だった。二人組だったら、多分一夏とペアになるかなって思ってたのに。摸擬戦の回数も俺が一番多いし、セシリア戦で組んだ経験もあるから、一夏から誘ってくる気がしていたんだ。
一夏の表情を伺ってみれば、剣を握っている時と同じぐらい真剣な顔。それが真っ直ぐ俺を見ている。
「今日のこともそうだが……俺もいつまでもシンに頼ってられない。いつまでも誰かに守ってもらうだけじゃ駄目なんだ。だから、今回は俺と戦ってくれ」
「一夏……」
一夏の目に宿る強い意志。昔の俺もこんな風に真っ直ぐだったら、力を誤らないで済んだんだろうか。でも、これが一夏の強さなんだ。それなら、その強さを全力で迎え撃つのが俺のすべきことだ。軽々と追い抜ける背中じゃ、申し訳が立たない。
そうだろ? アスラン。
「ああ。でもな、一夏。俺は絶対に負けない」
「今度こそ一撃、決めてやるぜ」
俺たちはふっと笑いながら、お互いのこぶしを突き出して叩き付け合う。一夏の本気、確かに受け取った。けど、俺は誰にも負ける気はない。
「はー、男って単純ね」
「ついていけませんわ」
「だが男子たるもの、こうでなくてはいかんぞ」
う……気持ちが盛り上がってたんだから、水を差さないでくれよ。こういうの、女子には分かんないんだろうな。アカデミーにいた時から、ルナも呆れてたっけか。単純? ついていけない? 良いだろ、別に。
「さて、本題のペアは……って、うわあっ!」
「織斑くん! 私と私と!」
「ならアスカくんは私!」
「デュノアくーん! お願-い!」
俺と一夏が組まないことを聞いて、またもみんなが一斉に寄ってきた。みんなが来てくれるのはありがたいんだけど、そんな即決できないし……
ん、ペア? ペアを組むってことになったら当然だけど、相方とは試合しないんだよな? 試合しないんだから、対策しなくても良いって事だよな? 手の内を見せても、秘密特訓の相手をしてもらってても、特に問題ないってことだよな?
「そうだ、その手があった!」
「うおっ!?」
「ひゃあっ!?」
突然大声を上げて立ち上がったせいか、周囲が軽い悲鳴をあげた。いけない、落ち着かないと……
軽く咳払いをして着席し、シャルルの方に向き直る。
「シャルル、俺と組んでくれないか?」
「え、僕と?」
「特訓の時もそうだったけど、シャルルじゃないとダメなんだ。頼む」
「う、うん……シンがそう言うなら喜んで」
「良かった。また明日からよろしくな」
しっかりと握手をきめて、交渉成立した。対シャルル用のシミュレ-ション作る手間も省けるし、これで心置きなく訓練もできるぞ。へっへーん、我ながら名案だったな!
「うう……やっぱりアスカくんと一緒か……」
「二人とも、すっごく仲良いもんね。アスカくんってやっぱり……」
「シャルル×シンか……コレは良いわね」
俺とシャルルのペアが決まると、囲んでいた女子の三分の二ぐらいが退いていった。残り三分の一はまだ、テーブルの三人も交えて熱い討論を交わしている。
「ここはクラスメイトのわたくしが!」
「セシリアばっかりずるいよ! 私もクラスメイト!」
「いや、幼馴染の私とでしょ!」
「うう、幼馴染は反則! 反対!」
「それを言うなら私はクラスメイトで幼馴染だ! 私と組め、一夏!」
「え、いや、あの、俺は」
すごい様相だ。これは時間かかりそうだな……ああ、そう言えば頼んでくれた食事、取りに行ってないや。一夏には悪いけど、先にいただいてるとしよう。
「ふふ、一夏はすごい人気者だね」
「だな。俺はシャルルがいてくれて良かったよ」
そう言うとシャルルはニッコリと笑って答えてくれた。よーし、訓練がんばるぞ! いや、今日はお説教で台無しにしちゃったから……うん、明日からだな!
騒がしいテーブルを離れて、俺は意気揚々と食事を取りに行った。えーと、今日の定食は何だろな?
◇
『――目の前の光景が信じられない。部屋を間違えたのかと思ってドアの番号を見直してみたけど、間違いない。正真正銘、俺の部屋だった。
食堂で定食を食べ、風呂に入りに行き、戻ってきただけ。そう、特別なことなんてしていない。いつものように、俺のルームメイトが部屋で待っているはずだった。そのはずだったんだ。
寝食を共にしていたルームメイトが、部屋の真ん中にちょこんと座っている。視線を部屋全体に巡らしても、見えるのはいつもの目覚まし時計。制服。大事な携帯。やっぱり間違いじゃない。二つのベットもそのまま。俺たちの部屋だ。
大事な話があるって言ってた。どんな悩みだって聞いてやるって、答えた。
視線を前に戻す。金色の髪が眩しい、上品な佇まい。スポーツジャージを着ていても崩れない、その雰囲気。ただし、いつもと違うところがあった。
後ろでまとめていた金髪は今、しなやかに背中に伸びている。ジャージから浮き上がるボディーは、丸みを帯びた曲線的なラインを描いていた。全身から香る、甘い匂い。
それらから導き出される結論は一つ。
「お、女の子……?」
「うん、そうなんだ。今まで黙っててゴメンね……」
胸に手を当てて、ほんのり顔を上気させて言った。柔らかな印象はそのままでも、その仕草が妙に心を揺さぶる。
「ねえ、健一。僕、本当は……女の子なんだ」
まさか、香菜が女の子だなんて――』
「結局ここまで気付かなかったのかよ、健一くん……嘘だろ?」
たまらずしおりも挟まずに本を閉じて、ベットの横に放り出す。
“ボクはホントはオンナのコっ!”――マユと約束した映画の原作だ。時間もあるし、ちょっとした気分転換になるだろうって思って読んだけど……甘かった。
香奈ちゃんが女の子だってことに、健一くんはまるで気がつかない。まあ、お話としてはそういう構成なんだろうけど、後で気付いたり、発覚するシーンが来ると思ってたのに……
気付かない。健一くんはひたすら気付かない。そりゃもう、見ているこっちが唖然とするぐらいに気付かない。
先輩の彰さん(言わずもがな鈍い)に相談すれば的外れなアドバイスをもらい、友達の昴輝くん(これまた鈍かった)とは変わらぬバカをやり、香菜ちゃんの胸を触れば『意外と肉ついてるな?』の一言で横っ面を叩かれる。香菜ちゃん、せめてコルセットぐらい付けておこうよ。健一くんはナチュラルにセクハラするラッキースケベなんだから。
まあとにかくだ。最終的に、悩みぬいた香菜ちゃんが告白するまで微塵も疑わなかったんだから、この鈍いのは筋金入りなんだろう。恐れ入った、健一くん。信じられねー。
こんな調子で物語は終盤になってしまった。いい加減読み進めるのが辛くなったので、続きはまた今度に……というか、映画まで取っておこうかという気持ちがふつふつと込み上げてくる。いや、ダメだ。事前知識もないまま映画でラストを観たら、その場でツッコミを入れないで座っていられる自信がない。
マユ、どうしてこんな映画選んだんだ? お兄ちゃん分かんないよ……
「し、シン……頭を抱えたまま転げまわってどうしたの?」
「シャルル~……実はさ……」
俺は情けない声で、事の顛末を話し出した。最初はニコニコ笑っていたシャルルだったんだけど、話が“ボクはホントはオンナのコっ!”の中身に触れるのに併せて、その笑顔がドンドンと引きつっていった。シャルルにこんな顔をさせられるなんて、健一くんは本当にすごいな。
「――で、香菜ちゃんがついに自分の正体を告白したってわけ。な? 健一くん鈍いだろ? こんな奴、いるわけないよなー」
「……僕の目の前にいる君は?」
「え? シャルル、何か言った?」
「ううん、何でもないよ……コーヒー淹れるね」
なんだか重そうに額を押さえると、シャルルが棚の方へ向かっていった。コーヒーパックを探しているんだろう。でも、もう新しいパックを箱から出さなきゃいけなかった気がする。
「あれ、もうコーヒーパック無いのかな。新しいのはこの上にしまってある?」
「ああ、俺が取るよ。シャルルじゃ危ないから」
「大丈夫だよ。よっ、とっ」
「あ、コラ。危ないぞ」
棚に手の届かないシャルルが、爪先立ちをして奥に手を伸ばす。前にマユが同じことやって、危うく転びかけた。慌ててシャルルの傍に行ったら、予想通り。コーヒーパックの箱を掴んだ途端に、体勢を崩した。
「きゃっ!」
「ほら、だから言っただろ」
後ろに倒れかけたシャルルをキャッチ。シャルルの体を抱きかかえる俺の手は、シャルルの胸の辺りに……なんだ? なんだか硬い感触が……鉄みたいな……コルセット? どうしてコルセットなんてして――そうか! 分かったぞ!
「っ! し、しし、シン……そこは……」
「シャルル、そんなに体型気にしてたのか? 別にシャルルだったら――」
「~~~~っ! シンのばかーっ!!」
「ふぶへっ!」
バチンッ、とシャルルの平手が一線する。避けることもできない俺の横っ面を引っぱたき、脳をぐるぐる揺らした。
急速に飛び去っていく記憶、暗転していく視界、そして薄れゆく意識。
かろうじて残っている思考で、俺はかつての上司に答えを求めていた。
アスラン。俺、何か悪いことした? してないよな? やっぱりそうだよな?
じゃあ、なんでシャルルは怒ったんだ?
◇
次の日の一コマ。
「アンタ、その顔どうしたの? ま、どうせ女の子にでもやられたんでしょうけど」
「そんなわけないだろっ! 全然覚えてないんだけど……昨日突然、部屋で倒れちゃったらしいんだ」
「で、それがアンタの顔の紅葉とどう関係があるの?」
「それで、シャルルが介抱してくれたらしいんだよ。その時、気付けで一発強いのを打ったって言ってた」
「ふーん。私はてっきり、女の子に不用意なこと言って引っぱたかれたのかと」
「だからそんなわけないだろっ! ただ……」
「ただ?」
「……何か、すっごい勘違いをしてた気がする」