ラウラの一件のせいで、今日のトーナメントは中止が決定されたらしい。俺とシャルルは事情聴取、観客席から乱入してきた一夏は生徒指導室送り。それが終って俺たちは、ようやく食堂に戻ってこれた。
ラウラはあの後保健室に運ばれていったけど、命に別状はないそうだ。意識もすぐに戻ったらしくて、それを聞いて俺もほっとしている。明日になったら会いに行こう。今なら少し落ち着いて、話ができるかもしれない。
「ぐっ……一枚、二枚、三枚……」
ある意味、ラウラより重症なのはこっちだろう。織斑先生からの魂の指導を受け、一夏は絶賛沈没中だ。片手は殴られた頭を押さえて、もう片方の手でお札をめくっている。
「S定食の……五人分×三食分……マジかよ……」
冷静になった頭が今になって、S定食三回分の恐怖を理解したみたいだ。
食堂での一番高価なメニューであるS定食。IS学園の学食は、学生にも手の届きやすい値段に設定されている。それにも関わらず一夏が嘆いているのは……理由は推して知るべし。スペシャルのSが付くというのは伊達じゃない。
「フン、勝手に突っ込んでいったお前が悪い」
「バカな兄貴の癖がうつったのかしらね」
「これで少しは反省するのでは?」
全員で腕を組みながら、冷たい視線を向ける女子三人組。トーナメントが中止になったせいで、今日は殊更に機嫌が悪い。実力を見せる機会が無くなったのが、よほど気に入らないんだろう。でもみんな、それは奢ってもらう側の態度じゃないと思う。それと凰(ファン)、バカな兄貴って誰のことだ? いつもいつも人のことをバカ呼ばわりしやがって……まあ、今はいいや。
「一夏、お前の定食代は俺が払うから。元気出せって、な?」
「ほら、一夏の好きな緑茶だよ?」
「うう……二人とも、ありがとな……」
シャルルと二人で、涙目の一夏にできる限りのフォローを入れる。篠ノ乃も、セシリアも凰も、優しい言葉の一つぐらいかけてやれば良いのに。
「アスカにデュノア、一夏をあまり甘やかすな。今日はそいつの自業自得だからな」
三人の中でも特に不機嫌なのが篠ノ乃だ。そんなにトーナメントが大事なことだったのか? それは、一夏と一緒に気合が入ってたのは知ってたけど……もしかして、何か結果について賭けでもしてたりするのか? いや、篠ノ乃の性格からして、あんまりそういうことも無さそうだし……うーん、分かんねー。
「トーナメント中止……せっかくのチャンスが……」
「トトカルチョが……ビジネスチャンスが……」
「もっとシン×シャルルが見れると思ってたのに……」
「二人のプロマイド……予約してたのに……」
それから向こうには、ため息を吐いてトボトボと食堂を出て行く集団。トーナメントの中止を聞いて、みんなショックを受けているみたいだ。だけど、何だか試合に出られなかったことが残念なわけじゃないっぽいぞ。プロマイドって、いったい何のことだろう? 試合の写真とか売れるのか?
「あ、そう言えば。箒、先月の約束だが付き合っても良いぞ?」
「そうか。それは良かった――何? い、いい、今何と言った?」
「なっ!?」
「なんですって!?」
「いや、付き合っても良いって」
思い出したように言う一夏と、それを何度も聞きなおす篠ノ乃。それから慌てたように身を乗り出すセシリアに凰。俺の知らないところで話が進んでたみたいだ。へー。一夏の奴、そんな約束してたのか。知らなかった。あれ? でもさ――
「一夏さん、それはどういうことですのっ!?」
「さっさと説明しなさいよっ!」
「つ、ついに私と一夏が……ああ、苦節何年だろうか。この胸に隠してきた想いがようやく日の目を見る時が――」
「なぁ一夏、一つ聞いていいか?」
「ん? 別に構わんが」
「篠ノ乃と付き合うって、何に?」
ガツンッ!
食堂にいたほぼ全員の頭が、まるで吸い込まれるように机にぶつかった。さっきまで騒いでいた三人も、隣で穏やかに笑っていたシャルルも、周りで話を聞いていた人たちまで例外はいなかった。
え? ちょっとみんな、突然どうしたんだ? 何かおかしなこと言ったか、俺……?
「信じられませんわこの方……まさかここまで鈍いなんて……」
「こ、こここ、この、このバカは……またこんなことを言って……」
「落ち着け、落ち着くんだ篠ノ乃箒……もうお前は木刀を振り回す必要はない……」
顔も上げないで机に突っ伏しながら、三人が呪詛のようにブツブツと呟いている。なんだか怖い光景だな……みんな、そんなことは止めてくれよ。ホラー映画みたいで気味が悪いから。
「みんなどうしたのさ? シャルルもどうしたんだよ? なあ?」
「言わなきゃいけないことなのかな、それ……」
シャルルはゆらりと顔を上げると、俺のことをまるで打ち上げられた深海魚でも見つけたような目で見てきた。
「シン……君って実はこの世界の人間じゃなくて、遠い銀河ゲキニブ星からやって来た王子様なんじゃないの?」
「げ、ゲキニブ星?」
「そう、ゲキニブ星。地球には乙女心を理解するための修行に出された、とか」
「そんなわけないじゃないか……ってみんな、なんで納得したように肯いてるんだよ。止めてくれよ」
違う、俺はゲキニブ星人とやらじゃないから。俺はコーディネイターだけど同じ人間だから。違う世界から来た、って部分は合ってるんだけどさ。
「あのなぁシン、みんなも呆れるって」
唯一頭を沈めなかった一夏がカラカラと笑う。それから今度は指を立てて、自信満々な様子で俺に答えを教えてくれた。
「付き合うって言ったらさ」
「ふんふん」
「買い物だろ、普通」
「あ、そっか」
ガツーンッ!
重力が十倍にでもなったのだろうか。机が割れんばかりの勢いで、みんなの頭が叩きつけられた。
「「え? え? え?」」
もはや怪奇現象だ。今度は一夏にも理由が分からないらしい。俺たちの頭には今頃疑問符がいくつも浮かんでいるんだろう。しょうがないだろ? だって、見当もつかないんだから……
「シン、とりあえずここから出ようか」
「え? でもまだ夕食が……」
「後にしてね」
シャルルは素早く俺の手を掴むと席を立って、出口に引っ張っていってしまった。唖然とする一夏を置いて。
「シャルル、一夏は……」
「ああいう風になりたい?」
「へ?」
食堂のドアを閉めた途端、中からもの凄い怒声と一夏の悲鳴が聞こえてきた。
「「「このゲキニブ星の第二王子がああぁぁーーっ!」」」
「シン、シャルル、助け――ぎゃああああああぁぁぁっ!」
中の惨状を想像してしまい、思わず身震いしてしまう俺。そんな……どうしてこんなことに……
買い物に付き合うってこういうことなのか? そんな買い物、俺は嫌だ。
「もう……シンもみんなも、相変わらずなんだから……これじゃ……」
「ん?」
「言い出すことも、言えなくなっちゃうじゃない――」
「――え?」
そう言ったシャルルの言葉は、どこか寂しそうだった。
手を引かれて後ろを歩いていたから、表情を見ることはできない。
「……シン、今日から大浴場が使えるんでしょ? 行ってきなよ。その間に僕も、準備するから」
「う、うん。じゃあ、風呂に入ってくる」
「うん、ありがとう」
そう言えば一夏の念願かなって、今日から大浴場の使用が解禁されたんだっけ。一番喜ぶだろう一夏が、あの惨状だけど。湯船には入れるのか? 傷がしみて痛そうだな……可哀想に。
あと、シャルルが言った準備って何のことだろう? 大事な話って、準備のいることなのかな?
◇
そんなわけで、俺は一人で風呂に入ってきた。大浴場なんだから当たり前だけど、一人で使うにはちょっと大きすぎだった。あの大きさなら、調子に乗って泳いでも平気だろうな。まあそんなこと置いといて、シャルルが待ってる部屋に戻るとしよう。
「シャルル、ただいま」
「あっ……おかえり、シン」
お互いに声を掛け合ってから俺は中に入っていく。部屋に座っていたのは、スポーツジャージを着た金髪の女の子で――へ? ヤバイ、部屋間違えた!?
「ご、ゴメン! 部屋間違えたっ!」
「シン、待って! 部屋なんて間違えてないよっ!」
「そんなわけっ! な……い――」
――目の前の光景が信じられない。部屋を間違えたのかと思ってドアの番号を見直してみたけど、間違いない。正真正銘、俺の部屋だった。
食堂で定食を食べそこね、学園生活初の風呂に入りに行き、戻ってきただけ。そう、特別なことなんてしていない。いつものように、俺のルームメイトが部屋で待っているはずだった。そのはずだったんだ。
寝食を共にしていたルームメイトが、部屋の真ん中にちょこんと座っている。視線を部屋全体に巡らしても、見えるのはいつもの目覚まし時計。制服。大事な携帯。やっぱり間違いじゃない。二つのベットもそのまま。俺たちの部屋だ。
大事な話があるって言ってた。どんな悩みだって聞いてやるって、答えた。
視線を前に戻す。金色の髪が眩しい、上品な佇まい。スポーツジャージを着ていても崩れない、その雰囲気。ただし、いつもと違うところがあった。
後ろでまとめていた金髪は今、しなやかに背中に伸びている。ジャージから浮き上がるボディーは、丸みを帯びた曲線的なラインを描いていた。全身から香る、甘い匂い。
それらから導き出される結論は一つ。
「お、女の子……?」
「うん、そうなんだ。今まで黙っててゴメンね……」
胸に手を当てて、ほんのり顔を上気させて言った。柔らかな印象はそのままでも、その仕草が妙に心を揺さぶる。
「ねえ、シン。僕、本当は……女の子なんだ」
まさか、シャルルが女の子だなんて――
――ちょっと待てよ? 妙な既視感がある……。
どこかで見たような気が……って、じゃなくてっ! そんなこと今はどうでもいいだろっ!?
深ーく深呼吸をして気持ちを落ち着けようと努力する。
大事な話だって言ってたんだ。どんな悩みでも聞いてやるって言ったんだ。
だから慌てちゃダメだ。慌てちゃダメだ。慌てちゃダメだ。
「やっぱり、驚かせちゃったかな?」
「――いや、もう平気。だから――」
深呼吸を繰り返して、シャルルの前に座った。
「――話、聞かせてくれるか?」
「……うん」
◇
「僕が男のフリをしてたのは、父からの命令なんだ。デュノア社社長から、直接の命令」
シャルルが語り出したことは、耳を疑うような内容だった。
「僕は妾の子どもで……お母さんが亡くなったときに、引き取られたんだ。たまたまIS適正があったから、テストパイロットをすることになって……」
自分の知らない世界の話。遠い、自分と関係ない話。そう思うことはいつだって、本当は自分のすぐ傍にあるのに。
「それから、経営危機に陥ったデュノア社の復興をかけて、僕が送り込まれたんだ。男子生徒としての広告塔の役割と、同じ男子生徒の機体データを盗む……スパイとしての役割で。ああ、もちろんデータは盗んでないから安心して」
また俺は、気付いてなかったんだ。
「それに、これでもう終わりだから。僕は本国に帰るよ。デュノア社のことは……今更、僕には関係ないことか」
理解できないことだらけだった。
家族ってなんだ? いつも優しくて、温かくて、大事なものじゃないのか?
どうして親が、自分の子どもを苦しめるんだ?
どうして親が、子どもを実験動物みたいに扱えるんだ?
親って、子どもを守ってくれる存在じゃないのか?
それに、どうしてシャルルは――
「――どうして、俺に話したんだ?」
分からなかった。どうしてシャルルが、俺に話してくれたのか。
「俺はシャルルのことに気付いてなかった。データを盗む機会だって、いくらでもあった。なのに、どうして?」
当たり前だけど、俺はシャルルがスパイだなんて疑ってもみなかった。
無防備な俺からだったら機体データなんて簡単に盗めただろう。
黙っていれば良かっただけだ。なのに、どうして俺に話してしまったのか。
「……懺悔、みたいなものかな。みんなをずっと騙してきて……もうそんなの嫌だって、思ったんだ」
話を始めたときから、シャルルはずっと表情を変えない。
一緒にいた時はずっと笑ってくれていたのに。
淡々と、何の感情もないように。自分の思いを押し込めるようにしか、話をしてくれない。
「シンが言ってくれたんだよ? 自分の明日を選んでいいって。だから僕はこの道を選んだんだ。僕はフランスに帰るよ」
「そんな……別に帰る必要なんてないじゃないか! なのにどうして!? ここにいればいいじゃないかっ!」
否定してほしくなかった。
今までと変わらずに、みんなと一緒にいる。そのことを否定してほしくなかった。
けれどそんな俺の期待とは裏腹に、シャルルの首がゆっくりと横に振られた。拒否の意は明らかだった。
「IS学園にいれば、三年間は自由だろうね。でも、みんなを騙したままなんて耐えられないよ。僕のことを信じてくれている人たちのことを……騙し続けるなんて」
「それでも、シャルルは言ったじゃないか! みんなと一緒にいて、嬉しいって! 楽しいって言ったじゃないかっ!」
たまらずに声を荒げる俺を、シャルルが静かに見ている。
嬉しそうで、寂しそうで、胸の締め付けられる表情。
「……これが僕の運命だから。今まで、本当にありがとう」
シャルルはそう言って頭を下げた後、もう一度笑顔を作ってみせた。
初めてシャルルが来たあの日と、何一つ変わらない笑顔だ。
その笑顔に、親友の笑顔が重なった。レイが見せてくれた、最後の笑顔に。
何を言えばいいのか。
今まで曖昧だったものが、ようやく形になった。
『レイの運命は……変わらないのか?』
メサイアでまた議長に会って、話をしてもらって……それでもどうしても分からなかった。だからレイに聞いたんだ。
『議長は……定められた運命を受け入れることが幸せだって言ったけど、レイは……』
アスランの言うことも、議長の言うことも、どっちかが正しくて、どっちかが間違ってるなんて思えなかった。両方とも納得できるところはあって、違って感じられることもあって……正直なところ、今でも俺には分からない。そう簡単に答えが出るものじゃないし、簡単に結論付けちゃいけないことなんだと思う。
それでも、教えてもらったことと、分かったことはある。
『シン……』
誰だって自分の明日を生きていたいし、それを諦めたらいけないんだ。
生きている限り、明日はやってくるんだから。
『そろそろ出撃だぞ』
レイはふっと、優しく笑った。
クローンだったレイ。
テロメアが短くて、もう寿命が残りわずかだったレイ。
二度と俺たちと同じような子供を作らないために、世界を変えようとしたレイ。
そのレイが言ったことだ。どんな命でも、生きられるなら生きたいだろうって。
あの時笑ったレイに、俺は何も言ってやれなかった。何の答えも貰うことはできなかった。
だけど今、俺は勝手に答えを言おうと思う。レイの分を、自分で勝手にだ。
レイ、怒らないでくれよ? だって――
「……諦めちゃダメだ」
「え?」
――もう俺は大切な人たちの、その明日を諦めたくないから。
「シャルル、諦めちゃダメだ。まだシャルルには明日があるんだから」
驚いた表情のシャルルを、まっすぐに見つめる。伝えたいことはこの際、思いっきり言ってしまおう。遠慮なんかいらない。
何も言えないまま、シャルルまでいなくなったら……俺は絶対に後悔する。
「シャルルはここにいる。ここで明日を選べる。明日を生きていられるんだ。それを自分から捨てるなんて、そんなの絶対にダメだ」
「…………」
「シャルルは本当はどうしたいんだ? 自分の運命なんて、そんなことは考えなくていいから。本当のことを……自分が本当にしたいことを言ってくれ」
「…………」
「俺は自分の意志でここにいる。みんなが後押ししてくれたことだけど、決めたのは俺自身だ。それと同じなんだ。前にも言っただろ? 自分の気持ちを最後に決めるのは自分だ。他の誰でもないシャルル自身なんだ」
伝えたいことが上手く言葉になってるかは分からないけど、とにかく伝えたかった。
前と同じだ。明日を選んで良いんだってこと。明日を諦めたらいけないってことだ。
「こうするしかないって、無理に思い込んじゃいけない。これしか選べないからって、与えられた何かに答えをすがっちゃいけない。シャルルが自分で、自分の望む明日を決めて良いんだ」
シャルルは俺の信じる、大切な人なんだから。
明日を諦めてほしくなんてない。
もう大切な人がいなくなるなんて……そんなの嫌だ。
「でも、僕は……」
「大丈夫、俺は約束は守るさ。もしシャルルの明日を奪おうとする奴がいても――」
シャルルを信じる気持ちは、ずっと変わっていないから。
だから約束したんだ。
「――俺がシャルルを守るから。どんなことがあっても、絶対に」
「……っ!」
はっとした顔をした後、シャルルはうつむいた。手を固く握りしめて、肩を震わせながら。
「……僕は……僕は……」
ポタリと一つ、シャルルの手に雫が落ちてきらめいた。
「僕は、ここにいたい……」
「……うん」
雫がシャルルの言葉に重なるように、いくつも零れ落ちていく。シャルルの気持ちを押し出すように、いくつもいくつも。
「僕はここにいたい……!」
「僕はここにいたい! もっとみんなと一緒に笑っていたい!」
「もっとみんなで! ずっとこの先も! ずっと、シンと一緒に! 一緒に笑っていたい! これからもずっと、ずっとずっと……僕はシンと一緒にいたいっ! 一緒に、いたいよ……」
涙の雨が、少しずつ収まっていった。顔を下に向けたまま、シャルルは言葉を紡いでいく。
「シン、本当にいいの……?」
「ああ」
「僕、今までずっとシンのこと裏切ってたんだよ?」
「気にするなよ。俺は気にしてない」
「これからずっと、シンに迷惑かけるかもしれないんだよっ!?」
「それでも、シャルルがここにいる。……俺はそれで良いから」
シャルルの震えが止まった。袖で顔を何度もぬぐって、息を整えて、もう一言が続く。
「ずっと……ずっとずっと僕と一緒に……いてくれる……?」
返事の代わりに固くうなずくと、それから――
今まで見たことのない、初めての表情。
冷たい雨を吹き飛ばす、晴れ渡った空の下。
暖かな日溜りのように――
「うん! 約束っ!」
――シャルルが笑った。
「うん、約束する」
返事をしながら俺も笑った。シャルルと同じように自然に笑えていた。
「のど渇いただろ? たまには自販機で、飲み物買ってくるよ。シャルルは何がいい?」
「……シャルロット」
「え?」
立ち上がってドアに向かう俺を止めたのは、まだ赤い目をこすっているシャルルの言葉だった。
「シャルロット。お母さんがくれた、僕の本当の名前。二人でいるときだけでいいから、僕のことを呼んで。本当の、名前で」
「うん、分かった。じゃあシャルロット、何が飲みたい?」
「うん、シンにお任せするよ」
「了解だ」
敬礼を一つして、俺は部屋を後にした。廊下に出た時に深く息を吐いて、それから歩き出す。
これで良かったんだよな? レイ……
俺って勝手だから、あんなこと言っちゃったけど、それでも良いよな?
ああ、さっきはお前が言ったこと真似させてもらった。
だって、お前のモノの言い方っていっつもクールでさ。それでいてはっきりしてて、頼りがいもあって。一々格好良いんだよ。
へへっ、こうやって褒めても、レイは涼しい顔してるんだもんな。人がせっかく褒めてるんだから、もっと喜べよ。
……ありがとう、レイ。お前がいてくれて良かった。
それと……ゴメンな。お前との約束、守れなくて。
でも、今度こそ守るから。約束は絶対に。
シャルルが笑ってくれた。俺も一緒に笑えたんだ。
あの笑顔を守れるようにがんばるよ。
それがお前の分も、明日を生きるってことになると思うから。
だから、またな。レイ……
◇
フランスに帰るならば黙って帰国するという選択肢もあったというのに、シャルロットはそれをしようとしなかった。裏切りに対する懺悔、謝罪がしたかったからだ。自分にもう一度温もりをくれた人間に謝りたかった。
どんな風に思われたとしても構わなかったろう。帰国してしまえばまた一人、シンに会うことはない。ただ学園で過ごした、一月ばかりの思い出を抱えて生きていくつもりだった。二度と手に入らないだろう幻影を抱きしめて生きるつもりだった。
そんなことは本心では望んでいなかったのに。自分の気持ちを偽っていた。
しかしもうその必要は無い。気持ちは固まったのだ。
シンが出て行った後の部屋で、シャルロットは座ったまま彼を待つ。
待っている間にすべきことがある。シンを心配させないために。
今日は涙がよく出る一日だった。
一度目は、大浴場に行ったシンの帰りを待っているとき。
話さなければならないこと、別離という事実を考えただけで涙が滲んだのだ。
泣くほどだったら最初から素直な気持ちでいれば良かったのに。そう、今になって思う。
二度目は、シンに自分の気持ちを吐き出したとき。
感情が溢れてしまったとしか言い様がないものだった。我慢していた分もあって驚くほどの涙が出た。
ただ、あの時になってようやく自分の気持ちが伝えられたのだ。
そして三度目。今この時、自分はまた泣いている。
どうやら嬉しい時も涙は出てしまうらしい。
がんばってこらえれば、今度は心臓が服を打ち付ける。
心を落ち着けようと何度深く息を吸って、吐いても、暴れまわる心臓をなだめることができない。
規則正しい時計の音がカメならば、今の心臓はさながらアキレスほどの速さだろうか。
頬は、熱い。熱くて、熱くて熱くて。熱を帯びたまま冷め止まない。
みんなと……シンと一緒にいられる。これからもずっと。
ここにいて良い。ここが自分の居場所なのだ。
誰かが言ったからじゃない。自分で決めたこと。自分で決めた明日。
それを守ってくれる。約束してくれた。
自分を、自分の明日を守ってくれる人と、これからも一緒にいられる。
これからどんな明日が待っているだろうか。
シンは自分の想いに気付いてくれるだろうか。
みんなはどんな顔をして自分を迎えてくれるだろうか。
どんな明日になったとしても、唯一言えることがある。
自分で決めた明日の形。シンがくれた明日の形。
(僕の明日……決めたよ。僕の明日はね、シン――)
――君と生きる明日だから――
◇
自販機でコーヒー牛乳といちごミルクを購入。パックを手にしながら、俺はシャルのことに考えを巡らしていた。
さて、シャルル――じゃなくてシャルロットか。じゃあシャルでいいよな? ルナみたいに愛称で呼んで。
それでシャルには、ここにいていいと言ったけど……現実問題として先送りするわけにもいかないし。とりあえず明日、こういうことにも詳しそうだから、葛城さんに相談かな。困った時の葛城さん頼みか……自重したいとは思うんだけどなあ。結局、自分では考えてないや。
「見つけたっ! アスカくんよっ!」
「アスカくーんっ!」
「え? みんな、どうしたの……?」
クラスメートが数人駆け寄ってきた。みんなの目がらんらんと輝いている。非常に嫌な予感しかしない、マジで。
「この後食堂に集合! “アレ”持ってきてねっ!」
「もちろんデュノア君も一緒ね!」
「あ、あのさ。アレってもしかして……」
「「「そう、アレっ!!」」」
食堂に集合で、アレ。嫌な予感がするどころの騒ぎじゃない。
脳裏に凄惨なあの光景がよぎった。真っ赤な顔で暴れまわる篠ノ乃と、真っ青な顔で自分の悲運を嘆く一夏の二人だ。
ああ、また誰かのトラウマが生まれる気が……
◇
「それではこれより! 第三回『ドキドキ! マリンクッキー!!』を始めまーす!」
「「「「「「「イエーーーーーーーーイっ!!」」」」」」」
食堂の中央で開始の宣言がされると、生徒達が一斉に沸き立った。
嫌な予感が的中し、恐怖のゲーム『ドキドキ! マリンクッキー!』が再来してしまった。
こんなことになるなら早く処分しとけば良かったんだ。いや、味は普通のクッキーなんだ。シャルと二人でお茶請けにしておけば良かったんだ。くそ……後悔は先に立たない。
「アンタたち、随分仲が良さそうね。ほーんと、うらやましいぐらい」
「お二人とも、やっぱりその気があるのでは……?」
「事情があるんだよ……頼むから放っておいてくれ」
参加者の中にいたセシリアと凰が、半眼で声をかけてきた。ジトーっとした視線が痛い。ついでに言えば二人だけの視線じゃなくて、周囲の視線全部が痛い。
理由? 今度ばかりは俺でも分かるさ。絶対に、コレだ。
「シャル……もう落ち着いたよな?」
「うん」
「じゃあ……そろそろ離してくれないか?」
「やだ」
「……なら、いつまで繋いでればいいんだ?」
「ずっと」
「はぁ、そうですか……」
「えへへっ」
なんだかとっても“イイ笑顔”を浮かべてるシャルと、ため息を連発している俺だ。
もう少し正確に言えば、肩が触れるぐらいの距離で仲良く“手を繋いでる”俺たちだ。
更に詳細を追っていけば、ただ手を取ってるぐらいの繋ぎ方じゃなくて“指を絡ませて固く結ばれてる”俺たちの手だ。……部屋に戻ってから食堂にいる今この瞬間に至るまで、シャルは俺の手を握って離してくれないってわけ。
シャルにこうも堂々と言われてしまうと、俺も何も言えなくて……みんなの視線で針のむしろだ。ヒソヒソ声が心をチクチクと刺していって居心地が非常に悪い。それにさっきからフラッシュが連続でたかれて、辺りが眩しくてたまらない。うぁ……シャルが元気になったのは嬉しいけど、コレはキツイって。
「嫌だ……もう語尾にマリンだけは嫌だ……俺はもう誰も信じねぇ……」
「事故だったんだアレは……仕方がなかったんだ……誰のせいでもなかったんだ……」
俺とシャルを見ていないのは、隅っこでトラウマを再発させている二人ぐらいだ。ていうか誰だよ、一夏と篠ノ乃を呼んだりしたのは。二人とも逃げ出さずに来ちゃってるし……あ、おまけに順番を決めるくじ引きはしっかり引いてる。ホントに律儀だな、あの二人は……
「ささ、アスカくんから引いてねっ!」
「あぁ。えっと……俺は四十一番」
「僕は……四十二番だね」
順番で言ったらシャルが最後で、俺が一つ前だ。これは流石に当たらないだろうな。クジ運だけは良かったみたいで、ちょっと安心した。本当にこの罰ゲームは、何をさせられるか分かったもんじゃないから。
「では、一番の方からどーぞっ!」
「えいっ! マグロ、セーフだねっ!」
真ん中に置かれた箱から、一人ずつクッキーを引いていく。たったの一巡しかしないし、どうせ俺たちには回ってこないだろう。当たった人には可哀想だけど、罰ゲームの様子を見て笑わせてもらうとするかな。
「……イカだ。まあ、普通はまだ当たらないわよね」
まず一桁台。まさか早々に辺りが出ることはないだろう。凰の罰ゲーム姿を見たい気もしたけど。
「今回は……クジラですわね。セーフですわ」
二桁に入った。ゲームが長引いたほうが盛り上がるもんだし、まだ罰ゲームには早いってことか。
「……わ、私の勝ちだぞ! イワシだ!」
二十番台に。まだ半分も残ってるんだしな。それと篠ノ乃、おめでとう。これでもう木刀を俺たちに向けなくて済むな。向けないでくれよ、マジで恐いから。
「サバだっ! やっぱり俺はみんなを信じるっ!」
もう三十番台か。それにしても一夏、今度は助かって良かったな。俺たちのことも信じてくれるみたいで嬉しいよ。俺も一夏のことは絶対に信じ続けるからな。約束だ。
さて、次は誰がクッキーを引くんだろう? いい加減にもう、人数も絞られてきたはずだし――
「――さあ、最後はアスカくんとデュノアくんの一騎打ち! 繋がれたその手に秘めたる想い! 愛し合う二人の勝負の行方はいかにっ!?」
「……へ?」
気が付いたら、残りは俺とシャルだけになっていた。
え? え? う、嘘だろ? あれだけ人数がいて……残り二人ぃっ!?
「ほらシン、早く行こうよ。みんな待ってるよ?」
「ま、マジかよっ!?」
手を繋いだまま真ん中に歩いていくと、さっきまでより視線が俺たちに集中していく。
箱に書かれたサメの口が、俺にはとてつもなく大きく見えた。俺かシャルか、確立二分の一……。
「さあアスカくん、どうぞっ!」
「ま、迷うなっ! 俺はどんな罰ゲームでも……ッ!」
司会の子が嬉々として案内するけど、俺の顔は引きつるばかり。半分諦めてサメの口に手を突っ込んだ。諦め半分ではあるけど、『いくぞ、レイ! 援護してくれ!』と、心の中では親友に祈りまくる。いや、援護じゃないな。助けて、レイ。
そんなことを思いながら、中をごそごそとあさり、手に触れたものを掴んで引きずり出す。
「……ッ!?」
ちらりと箱の口から背びれの形が見えた。まさか、これはもしかしてサメじゃ――
「――シャチ、だ。ってことは……」
「アスカくん、セーフ! つまりデュノアくんの負けです!」
「あーあ、負けちゃったなあ」
周りから湧き上がる歓声。笑いながらシャルはサメのクッキーを取り出して、ポリポリかじり出す。助かったけど、罰ゲームはシャルか……なるべく、軽いものであってほしい。うん、折角元気になったシャルが部屋に引きこもるところなんて見たくないし。
「それではデュノアくんに罰ゲームを読み上げてもらいましょう!」
マイクを差し出され、シャルは箱の中を覗き込みながら罰ゲームの内容を発表し始めた。何だろうな? みんなの前でマリンダンスとかか? まあ、それぐらいなら何とかなりそうだ。
「ええっとね。『前の順番の人に、海よりふっかーい――』
そこから先の言葉が出てこないシャル。みんなが首を傾げていると、シャルの顔がみるみる赤くなっていく。
頭のてっぺんまで赤くなったとき、ようやくシャルは続きを口にした。
「『――ふっかーい、キス。キスの場所はもちろん、分かってるよな?』だって……」
時間が止まったように、食堂の音がぴたっと消えた。
へぇー、罰ゲームはキスなのか。前の人……うあっ、俺じゃないか。
アレ……待てよ?
『前の順番の人に――』
キス……?
『海よりふっかーい――』
キス?
『ふっかーい――』
キッスっ!? 待てよ、相手って――
「お、お、おおおおお、俺にぃっ!?」
「「「「「「「キャアアアアァァァァーーーーーッ!!!!」」」」」」」
爆発する女子の歓声。食堂が消し飛ばないのが不思議なぐらいの衝撃が伝わっていき、俺は思わずのけぞってしまった。
「アスカくんと、デュノアくんが、キス!?」
「ウソっ!? 信じらんないミラクルっ!!」
「デジカメはっ!? 撮影用機材はどこっ!?」
「今レコーダー持ってきましたっ!! 準備万端ですっ!!」
「お宝プロマイドだよっ! 一枚千五百円で予約開始っ!!」
「この地球に生きてて良かった……あ、鼻血が……」
みんながバタバタと食堂の中を走り回って、あっという間に記者会見でも開けそうな場所に変貌していく。
俺はと言えば、地に足がついている感覚がしない。ど、どうするっ!? 一夏たちに助けを――
「シン、障害を乗り越えてこそ男は強くなるんだぜ?」
「アスカ、今更お前が慌てるようなことじゃないだろう」
「せっかくの機会ですし、よろしかったのでは?」
「そうね。“愛し合う二人”にはお似合いだわ」
振り返ってみれば、みんなは俺たちを笑う気満々だった。当然ながら救いの手、無し。
くそっ、こんな危険物(クッキー)二度と買うもんかっ! 今度行くのは水族館じゃなくて動物園にしてやるっ!
「アハハ……流石にちょっと、恥ずかしいね?」
「え、いや、あ、その、うえぇ?」
慌てふためく俺の手をぎゅっとしながら、はにかむようにシャルが笑っている。
ちょっと? いやいやいやいや、俺はものすっごく恥ずかしいんだけど……そんな、何でシャルは平気なんだ?
「ねえ、シン……」
周りがまたもや静かになる。拾音マイクに囲まれながら、シャルが俺を上目遣いで見つめていた。
「僕とキスじゃ、嫌かな……?」
「煽り立てるようなことを言わないでくれっ!」
また大きく、女子の歓声があがった。顔に血が上って行ってるのが感じられる。演技派のシャルは罰ゲームにノリノリみたいだ。
「もう……いつもはあんなに優しくしてくれるのに」
「誤解を招く言い方は止めてくれえぇっ!」
三度、女子の歓声。ようやく分かった。シャルも恥ずかしくて少しおかしくなってるんだ。きっとそうだ、そうに違いない。そうじゃなければ……はっ!? そういうことかっ!
「ああっ! キスっていっても、オデコとかほっぺとか、そういうところにだよなっ!? だよな、シャルっ!?」
「大丈夫、“分かってる”よ。場所はもちろん……」
そう言って、自分の唇にぎゅっと人差し指を押し当てるシャル。
それを今度は、わめく俺の唇に押し当てて――
「ここ、だからね?」
「~~~~っ!? 嘘だろおおおおおおぉぉぉぉぉぉっ!?」
マウス・トゥ・マウスの証と、そして四度目の歓声で、俺は腰を抜かしそうになった。
顔が真っ赤なのを通り越して、全身まで茹で上がりそうだ。
これだけ赤い今の俺なら元上司の愛機のごとく、華麗に変形して空を飛べるかもしれない。アスラン俺を助けてくださいお願いですコノヤロー……頼みますよアスラン……。
周囲にはフラッシュが瞬いて、盛大な歓声が聞こえて、一夏たちは忍び笑いをしている。
緊張というか恥ずかしさというか、とにかく気が遠くなりそうだった。
それともいっそ、気絶でもしちゃえば楽になるのか……?
「気絶しても、すぐに目を覚ましてあげるから……僕の王子様……」
――もうダメだ。考えてることまでシャルにバレバレじゃないか……
「シン……」
はやし立てる周りの声。早鐘のように打たれる心臓の爆音。
「ぅ……ぁ……ッ!」
柔らかな片手が俺の頬に添えられた。それを自分の体に近づけて、熱っぽい視線を俺に向ける。シャルの顔がどんどん寄せられて――
「シン・アスカはいるか?」
唐突に食堂に入ってきた声で、シャルの顔が止められる。みんなの視線の先にいたのは銀髪の少女。なんと、あのラウラだった。とりあえず今のうちに体をシャルから離そう……あ、ダメだ。捕まった。
危機的状況から脱出できていない俺の方に、コツコツと歩み寄ってくるラウラ。いったいどうしたんだろう? もしかして助けてくれるのかな?
期待に満ちた視線を送ってみたものの、ラウラはくるりと背を向けてしまった。やっぱり無理だったのか――
「全員、今までの非礼を詫びたい。済まなかった」
今まで騒いでいたみんなが一斉にポカンと口を開けた。
ラウラが謝った。今までのことを謝罪した。え、うそぉ? いきなりどうしたんだ?
予想外の出来事に唖然としている俺を見ると、ラウラは何がおかしいのかと首を傾げて言う。
「謝罪をしろと言ったのは“お兄様”だろう? さあ、これで今日から私も“お兄様”の妹だ」
「……はい?」
お兄様? おにいさま? オニイサマ?
みんなの口が更に大きく開いた。もう俺の頭は状況に何一つ追いつけていない。
ラウラの視線の先にいるのは……俺、だよなあ。じゃあ、俺が……お兄様?
「え、お兄様って俺のことぉっ!?」
「織斑一夏が言っていた。シン・アスカは自分の兄だ、だから強くなれると。ならば私もお兄様の妹にしてもらう」
「はあっ!? ちょ、一夏ぁっ!? お前、ラウラに何言ったんだっ!?」
「お、俺だって別に変なことは言ってねえぞっ!?」
「織斑一夏、お前が言ったことだろう。だが私はまだ、お前には負けたつもりはないからな。お兄様という同じ条件が揃えば私が勝つ」
俺の知らないところで、何がどうなっているやら。
どういうことだ、と一夏に篠ノ乃達が詰め寄るのを無視して、ラウラは真っ直ぐに俺を見つめていた。
「それに……お兄様は約束してくれたではないか」
「え……?」
「――私のことも、守ってくれるのだろう?――」
今までの冷たさが嘘のように、ラウラが穏やかに笑った。あぁ、普通に笑った顔は初めて見たな。自然に、笑えるんじゃないか。
「ああ、約束だ――」
「ねえシン、その話は後でゆっくり聞かせてもらうね」
「――へ? しゃ、シャル……?」
心の中に何だか温かいものが広がった俺の隣から、今度は絶対零度の声が聞こえてきた。
怒ってる。理由は分かんないけど、シャルがものすっごく……怒ってる。
上手く言葉が出なくてたじろいでいると、向こうから砲撃音が聞こえてきた。多分あれ、凰の衝撃砲だ。
「なんでアンタたちは軽々しくそういうこと言うのよっ!?」
「な、何かいけないこと言ったか、俺っ!?」
「いつまで無自覚なつもりだ、痴れ者があっ!!」
「ここで星に還して差し上げますわよっ!!」
またも食堂大暴れ事件が勃発している。しかも今度は女子三人対一夏一人。
可哀想な一夏……でも、一夏なら大丈夫だって信じてるから。だから俺は手を出さない。手が出せないわけじゃないぞ?
「もう、せっかく良いところだったのに……シン、部屋に戻ろっか」
「え、逃げ――じゃなくて、戻っていいの?」
「戻らないとすごく危ないからね。じゃあ、ボーデヴィッヒさん。シンは僕が連れて行くから」
「なんだ、お兄様まで連れて行ってしまうのか?」
「わ、悪い、ラウラ。また今度な」
「むぅ……仕方ない。それではな、お兄様」
そう言ってラウラは大騒ぎをする一夏たちのところに向かっていく。もしかして、あの戦場を止めに入ってくれるのか?
「おい一夏、私の分のS定食はどこだ?」
「っておいッ! なんでお前の分までおごんなきゃ――うおおおおおおおっ!!」
違った。ただ食事をたかりに行っただけだった。
苦笑する俺の手を引いたまま、シャルはみんなの中をするりと抜けて食堂の入り口に向かう。
「ねえ、シン。ほらっ」
「ん? ああ、分かった」
入り口に差し掛かったところでみんなに向き直る。
片手は繋がれたまま。もう片方の手を額に掲げた敬礼のポーズだ。
全員に聞こえるように大きな声で。俺とシャルの二人で一緒に。
「「みんな、また明日っ!」」
「ああっ、二人とも待ってよ!!」
「まだキスシーンが撮れてないのにっ!!」
「ふふっ、それはまた今度にしてね」
「今度なんて言わないでくれっ!!」
食堂を後にして、まだ手を繋いだまま、俺とシャルはずっと笑っていた。
みんなといられること、明日があること。
それが二人とも嬉しくてたまらなかった。
明日からまた騒がしくなるんだろうな――
――そう言えば、部屋に戻ったときに感じた、あの既視感は何だったんだ? どこかで、全く同じ事を見た気がする。いや、本で読んだ気が……。
まあ、思い出せないんだから大したことじゃないんだろ、きっと。