寂しい、侘しい、物足りない。
シャルル・デュノア改め、シャルロット・デュノアは自室のベットでぬいぐるみを弄っていた。夜も更け、電気も消され、暗闇の中でルームメイトは既に寝入っている。それでもシャルは寝付けないでいた。
足りないのだ。温かかった、あの手が。
足りない、淋しい、堪らない。
文字通り手持ち無沙汰なシャルは、ベッドのぬいぐるみを弄り続ける。
ぬいぐるみの手を握っても、それでは落ち着かない。
ぬいぐるみは手を握らせてくれても、自分の手を握り返してはくれない。甘く優しい言葉をかけてはくれない。心を焦がす赤い瞳は、自分の姿を映してはくれない。
「寂しいよぉ……シン……」
想い人の名前が、自然とシャルの口からついて出た。
つい先日まで同室だったシン・アスカは、もうシャルの傍にはいなかった。自分の性別を公表したその日から、ルームメイトはラウラ・ボーデヴィッヒへと変更されたのだ。
ラウラと一緒の部屋なのが嫌なわけでなかった。当初の印象が嘘のように、彼女も随分と丸くなり、年頃の女の子らしい面を覗かせるようになった。
しかし、シンと一緒にいられる時は確実に減った。同じ部屋で暮らすことが、いかに二人の時間を作り上げていたことか。後悔は先に立たなかった。
今まで自分が仲間達を騙していたことの謝罪。確かに性別を明かしたのはその通りであるのだが、シャルは謝罪の他、もう一つだけ別の意味を抱えていた。それは自分に明日をくれた人間へのメッセージだ。
――僕は女の子なんだよ。だから君も、もっと……僕を女の子として見てほしいんだ。もっと僕のことを見ていてほしいんだ――
そして思ったとおりに、シンはシャルのことを女の子として見るようになった。
ただし、それだけだった。
自分のことを、大切な人だと言った。
そこまでだった。
『シャル、今までずっとゴメンな……俺、シャルのことに気付いてやれなくて……』
『シン……ううん、いいんだ。シンがいてくれれば、僕はもう……』
『シャル……俺は約束は守るよ。シャルのことを守る』
『シン……』
『だってシャルは、俺にとって大切な人だからな』
『……ねえ、シン。その先の言葉、今ここで欲しいな……』
『……へ?』
『……へ?』
盛大な誤算であった。シンはシャルの好意に全く気付いていなかったのだ。
映画を鑑賞し反省したと思いきや、シンの思考はシャルの想像を遥かに上回る超宇宙的な存在だった。
シンはずっと、『香菜ちゃんの正体に気が付かない健一くん』を非難していた。
非難していたのは『香菜ちゃんの好意に気が付かない健一くん』ではなかったのだ。
そして、自分が健一くん並みに鈍いことを自覚し、深く反省した。
『何故自分はシャルの正体に気付いてやれなかったのか』と。
『何故シャルの好意に気付かなかったのか』という反省は全くなかった。
つまりシャルが好意を抱いていることは、シンは自覚していないのだ。
激鈍ここに極まれり。
シャルの嘆きはどれほどのものか。
結果としてシンとの関係はまるで進まず、二人の空間も失った。
周囲の女子も、自分達が付き合っているわけでないと知ってしまった。
ライバルが一気に増えた。ラウラもシンにべったりだ。
悪夢だった。
自分を夢の世界に導いてくれた手は、儚く消えていった。
「ばかぁ……シンのばかばかばかばかぁ……」
涙をにじませて、ぬいぐるみの首をもぎ取る。シンから貰った『もげろっ! 健一くん特大ぬいぐるみ』だ。首をもいで、くっつけ、もいで、くっつけを繰り返す。
ぬいぐるみは何も答えてくれない。電池を入れて言う言葉は『どうして誰も、教えてくれなかったんだーっ!』だけだ。
自分の胸はこんなにも苦しいというのに。
シンは安穏と寝ているんだろう。
もげてしまえ、と思う。
心の雨雲を吹き飛ばしたシンは、また厄介な雨雲を連れてきた。
雨は降り続け、自分を濡らしている。
早く自分の想いに気付いてくれれば、雨は止むのに。
いっそ、自分の想いを伝えれば楽になるのだろうか?
でも、それはずるい。不公平だ。
シンにも同じように、やきもきして欲しい。自分を想って、雨に濡れてほしい。
ずぶ濡れになったところで、今度は自分が傘を差してあげよう。
そして笑顔で言おう。シンがくれた笑顔で。
『僕もシンのことが好き』と。
その時に二人の雨雲が晴れるから。
傘を放り捨て、歩き出せるから。
だから今はガマンしよう。二人で手を繋ぎ、水たまりを飛び越える日まで。
「でも、早くしてほしいなあ……風邪ひいちゃうよ……」
シャルはにじんだ目をこすり、もいだ首をきつく抱きしめた。
シンはいったいどんな夢を見ているのだろうか?
少しでも自分に関係のある夢であるのだろうか?
自分はどんな夢を見るのだろうか?
シンは夢に出てくれるのだろうか?
まどろみに落ちながら、いつまでもシャルの中からシンが離れることはなかった。
◇
うん、これは夢だ。夢に決まってる。
ミネルバのみんながいるんだから、夢に決まってる。
夢だ、夢なんだ。だから早く覚めてくれ。
じゃなきゃ俺は、この後どうなるか分かったもんじゃない。
「ではこれより、被告人シン・アスカの裁判を始めたいと思う。タリア、よろしいかな?」
「はい、議長」
「タリア、今の私は裁判長だ。だが、ギルと呼んでくれて構わんよ」
「ギル……楽しそうね?」
法壇の席に着いているデュランダル議長、それからグラディス艦長が微笑を浮かべている。何で議長までここにいるんだ? いやいや、そうじゃなくて……
「議長、質問してよろしいでしょうか?」
「何かね? それと今の私は裁判長だ」
「……裁判長、どうして自分はここに立たされているのでありますか?」
「シン、それは君の裁判だからだよ」
優しく語りかけるような議長の話し方は変わらない。でも今回ばかりは議長の言っていることの意味が分からない。全くだ。理解の余地もない。
俺がいるのは法廷らしき場所だ。まず目の前に座っているのは、議長に艦長の二人。それから、左手の方向で涼しい顔をしているのがレイ。右手にいるのは、毅然とした態度で前を見据えているアスランだ。そして後ろにいるのは……
「シン、もげろ。な?」
「大丈夫だぞ~。もげたら俺たちが直してやるから」
「信じらんない。ねえ、お姉ちゃん」
「シン、アンタいつからそんな奴に……」
「「「「スーパーエース様は良いご身分だなぁっ!? いい加減にしやがれっ!」」」」
ヴィーノ、ヨウラン、メイリンにルナ。その他ミネルバクルーのみんなだった。口々に俺の悪口を言って……みんな、酷くないか? じゃなくてっ!
「なんで俺が裁判にかけられてるんだよっ!?」
法廷いっぱいに響く大声で、俺は吠え立てた。いくら夢の中だからって、こんな横暴がまかり通ってたまるか!
「シン、法廷内では静粛にしろ。お前の罪状は検察である俺が説明する」
「れ、レイ!? 罪状ってなんだよ!? どうしてお前がっ!?」
「気にするな、俺は気にしてない」
「頼むからそこは気にしてくれよっ!」
書類を整えながら、さらりと言ってのけるレイ。おい、お前が味方をしてくれなきゃ誰が助けてくれるんだよ……なあ……
「安心しろ、シン。お前の無罪は俺が勝ち取ってみせる」
「アスランが弁護人!? 頼む、いや、頼みますアスランっ!」
「了解だ。アスラン・ザラ、出る!」
胸に光る弁護士バッジならぬFAITHバッジが眩しい。ちょっと口下手でうじうじする癖はあるけど、いざという時には決めてくれる人。アスラン、やっぱりアンタは頼りになるや。くそっ……目の前がにじんできた。でもさ、後ろのみんなからのブーイングが怖いよ。
「ではさっそく裁判に入ろうか。レイ、起訴状の読み上げを頼む」
「はい、裁判長」
しっかり議長のことを裁判長と呼ぶレイ。こっちを一瞥すると、一回ため息を吐いてから長々と俺の罪状ってやつを説明し出した。
「被告人であるシン・アスカは同室であったシャルロット・デュノア女史に対して過剰なスキンシップ・大変誤解を招きやすい甘言により、彼女のうららかな純情を弄んだとされている。これはれっきとした詐欺であり、検察はこれを立証するものである。本法廷は夢の中であり証人は呼ぶことができないが、証拠となる映像は用意したのでご覧になっていただこう」
言い終わるとレイはどこからかリモコンを取り出し、上から大きなモニターを下ろした。そこに映し出された映像は……俺のプライバシーなんて完全に無視したようなものだった。
『俺がシャルルを守るから。どんなことがあっても、絶対に』
『……うん』
『ねえ、シン。訓練の手伝いの話、僕でホントに良いの?』
『シャルルだから頼めるんだ。お世話になる』
『はあ……そうですか……』
『えへへっ』
『気絶しても、すぐに目を覚ましてあげるから……僕の王子様……』
何だこれ? 俺を晒しものにするのが目的なのか? 背中に感じる殺気は怖いし……悪夢だ。早く覚めてくれ。ていうか、俺がいつシャルを弄んだっていうんだ? そんなことするわけないじゃないかっ!
「さて、被告人の意見を聞こう。シン、言いたいことはあるか?」
「あるに決まってるだろ! 俺はシャルのことを傷つけたりしない、絶対に!」
興奮して席をたたく俺を、レイは半眼で呆れたように見ていた。レイ、お前ってそんな表情したっけ? クールなお前にしては随分と表情が豊かになった気が……
「男装中の彼女に気付かなかったことはどうなんだ?」
「それは……で、でも! それはもうシャルも許してくれたことだ!」
「自分の事を棚に上げて健一くんを批判していたが……お前が健一くん並みに鈍いと気付いた後は? お前は彼女に何を言った?」
「謝ったさ! それから、シャルを守るって、そう言っただけだっ! 何がいけないんだよっ!?」
「……それだけなのが、いけないんだ」
レイと一緒に、法廷中のみんな(アスランを除く)が一斉にため息をついた。レイは手にしていた書類を投げやりに放り出すと、また澄ました顔で議長に向き直る。
「――裁判長。このように、被告は自分の鈍感さが彼女を騙し、どれだけの精神的苦痛を与えているかにまるで気付いていません。即刻、有罪の判決を」
「うぅむ。これは仕方がないかもしれないな……」
「何だよそれっ!?」
半分以上が嘆きになった言葉で必至に訴えても、みんなの白い目は変わらなかった。どうしよう、このままじゃ訳分かんないまま有罪に……
「裁判長、弁護人の陳述を許可していただきたい」
「はっ!? あ、アスラン!」
「ああ、許可しよう」
そうだ、この人が残っていた。赤服を颯爽と纏い、雄雄しく立つ姿は英雄のそれ。弁護人アスランだ。視線に精一杯の応援を込めると、それに気付いてくれたのかアスランは小さく、けど力強くうなずいてから俺の弁護を始めてくれた。
「まず、被告人の発言にシャルル女史を苦しめる意図はない! さらに被告は自信の発言に責任を持とうとしており、シャルル女史もこれを認めている! 賞賛こそされ、どこに非難されることがあるでしょうか!?」
おおっ、艦にいた時の口下手からは想像もできない流暢さ。これは期待できるぞ!
「被告の発言は、信頼する人間に対して当然のものと思われます! 決して嘘偽りではなく、詐欺として罰せられるものではない! シャルル女史の感じている精神的苦痛はきっと別のことに要因があり、シン――被告のすべきことは、その精神的苦痛を除去するために奮闘することであるでしょう! いかがですか、裁判長!?」
静まり返る法廷。これだけ理路整然と言われれば、いくらレイでもぐうの音も出ないに違いない。流石だアスラン。でも、どうしてだろう。法廷中のみんなが今度はアスランに白い目を向けてるよ。
「――裁判長。弁護人の発言からお分かりの通り、彼は被告と同じぐらい鈍く、シャルル女史の心情を一切理解できていません。よって、発言における信頼性が一切ありません。弁護としては不十分でしょう」
「ああ、そのようだ」
「「なぁっ!?」」
俺とアスランの声が被る。そう言われて納得できるわけないだろっ!? 今言ったことのどこにおかしなとこがあったんだよっ!?
「裁判長っ! 検察の発言を認めるなんて――」
「君にはもうご退場願おうか、アスラン」
「なああああああぁぁぁぁぁぁーーーー……――」
「あ、アスランっ!? アスラン、アスラーーーーンっ!」
議長が木槌を鳴らした途端に、アスランの足元に大きな穴が現れて、アスランの姿は影も形も無くなってしまった。俺の必死の呼びかけもむなしく穴に響くばかり。
どうなってんだよ!? 弁護人を強制退席させるって、デタラメすぎやしないか!? なんて出来レースだよっ、コイツはっ!?
アスランまでいなくなり、とうとう俺は四面楚歌になってしまった。もう誰も俺の味方をしてくれる人間はいない。後は判決が下されるだけだろう。夢の中なのに、どうしてこんなことに……。
「被告に与えるべき刑罰は……これから一週間、毎晩のお説教にでもしましょうか。裁判長、判決を願います」
「そ、そんな……」
またお説教かよ……しかも一週間毎晩だなんて。ただでさえ現実で織斑先生に怒られてばっかりなのに、夢と現実の両方でお説教だなんて絶対に嫌だ。嫌だよ……俺が何をしたって言うんだ……。
「シン、最後に何か言いたいことはあるかね?」
「あります……言わせてください」
沈みこむ顔をなんとか上げる。夢の中だろうが、これだけは……。
納得できないことばかりだけど、これだけは言っておかなきゃいけない。
「どんなことがあったって! 何を言われたって! 俺はシャルを守るって約束したんだっ! 俺は今度こそ約束を守るんだっ!」
言い終わるとまた法廷は水を打ったように静かになって、それからため息を吐く声がいっぱい聞こえてきた。ど、どうしてみんな呆れてるんだよ?
「これが若さ、というものなのかな……?」
「シン、あなた……」
「そういうこと言うから勘違いさせるんだよ……」
「もう怒る気力もねーよ……」
「カッコいいこと言ってるのに……女の子の敵ね」
「肝心なところが足りてないのよ、シンってば」
やれやれとばかりに法廷中のみんなが頭を振った。俺、別におかしなこと言ってないよな? じゃあ、このみんなの反応は何だ?
「よく言ったな、シン」
「え? あ、アスラン?」
驚いて振り向けば、アスランが俺の後ろで微笑みながら立っていた。アスラン、よく無事で――いや、全然無事じゃないや。服はぼろぼろに擦り切れて、あちこち傷だらけだった。
「それだけの覚悟があるんだろう? なら、これはお前が付けるべきじゃないのか?」
そう言ってアスランが外したのは……信念の、忠誠の、信頼の証。俺がもうなくしたと思ったもの。FAITHバッジだった。
「それは……でも、アスラン。俺はもう……」
「シン、これは俺のバッジだ。シャルルと言ったな。彼女に渡せば、きっと喜ぶだろう」
「レイ!? お前まで……」
検察席から歩いてきたレイが、自分のバッジを外した。受け取るのをためらっていた俺に、二人はバッジを握らせて肩に手を置く。二人とも優しく笑っていた。
「シン、自分の信念に忠誠を誓うんだ。今のお前にならその資格は――これを付ける資格はあるはずだ」
「俺たちはお前を信じるから渡す。だからお前も、自分が信じる人に渡せ。このバッジはそのためのものだ」
「アスラン……レイ……ああっ! 二人とも、ありがとう!」
二人のバッジを受け取る。一つを自分の襟に付けて、もう一つを堅く握りしめて。
みんなの眼差しが、今度は温かいものに変わっていた。そうか、みんな俺にこれを伝えるために……わざわざこんな芝居をして……
自分の信念に忠誠を誓う……俺、やってみせるよ。
席に戻る二人の背中はなんだか遠くに見えて、やっぱり格好良かった。アスランの背中は――所々に穴が開いてるのが、ちょっとだけ情けないけど……
「みんな、ありがと――」
「では、裁判の続きを始めるぞ。被告人、席に着け」
「――へ?」
ぽかんと、口を大きく開けてしまった。え? 裁判、まだ続くの? レイ、どういうこと?
「それとアスラン。この後あなたを被告として、オーブ代表から婚約詐欺の裁判を頼まれて――」
「シン……お前にならできる。俺は信じているからな……」
アスランはそう言い残すと、超人的な跳躍力で席を飛び越えて、またたく間に走り去ってしまった。あれ? アスラン、どこ行くんですか? 俺の弁護してくれるんじゃないの?
「裁判長、アスランが逃亡しました」
「なに、放っておいて構わないさ。外はハイネたちに警備を頼んでいる」
「了解です」
「あ、ああ、あんの裏切り者がああぁぁーーーーっ!」
俺の雄たけび空しく、弁護人は今度は自主退席しやがった。アスランめ……くそっ、俺はもう絶対に、アンタを信じたりしないぞっ! 二度と信じるもんかっ!
「裁判長、判決をどうぞ」
「シン、君は有罪だよ」
「理不尽だあああああぁぁぁぁぁーーーーっ!」
判決が言い渡されて、またも俺の絶叫が法廷に空しく響いた。
◇
「お兄様、不機嫌なようだが……私の起こし方が悪かったか?」
「いや、今日だけは起こしてくれてありがとな」
「酷い顔してるぜ。シン、夢見でも悪かったのか?」
「ああ、最低最悪だった」
食堂の席に座りながら、俺は未だに仏頂面をしていた。今日見た夢のあまりにも理不尽な内容、そして明日から一週間の悪夢を考えると、機嫌の良いはずがなかった。当たり前だけど、夢で貰ったFAITHバッジは無かったし……どっかの店にでも売ってるから、明日にでも買って来いって言うのか? 馬鹿にしてっ!
トーストに乱暴にかじりつき、コーヒーをがぶがぶと飲み干し、コーンスープをすする。流石に雰囲気が伝わるのか、一夏とラウラ以外に近寄ってくる生徒はほとんどいない。篠ノ乃、セシリア、
「お兄様、今日は和食ではないのか?」
「何を食べたっていいだろ、別に。どうしてだよ?」
「それでは『お兄様、ほっぺにご飯粒付いてるよ? もう、仕方ないな~』ができない」
「ぶはぁっ! ごほっ、ごほっ!」
ラウラが変なことを言ったせいで、変なところコーヒーが入ってしまった。むせ返る俺を、食堂のみんなが奇異の目で見ている。くそっ、目が覚めたら今度はこっちかよ。
「お兄様、大丈夫か? 待っていろ、私がきれいにしてやる」
「止めろっ! 俺の頬を掴むなっ! 顔を近づけるなっ!」
一つ舌打ちをした後、それならばとラウラはハンカチを取り出して俺の頬を吹き始めた。
ラウラが俺のことを『お兄様』と呼ぶようになってから、ずっとこの調子だ。ただ俺の呼び方が変わっただけならともかく……明らかにラウラの取る行動がおかしい。
寝ている俺を馬乗りになって起こす。
俺の分まで弁当を作ってくる。俺の箸は付いてない。
昼食の時になって、二人で一つの箸で俺に弁当を食べさせようとする。
廊下では無理やり腕を組もうとする。
大人しいと思えば、一緒に風呂に入れとせがむ。
挙句に夜にはベットに侵入しようとしてくる。
いったいどうなってる? シャルが止めてくれていなければ、俺の身がもたない。今日こそ一言、きっちり言ってやるっ!
実行の決意のために二、三度の咳払いをしてから、俺はラウラの方を向き直った。
「ラウラ、どういうつもりだ?」
「どういうつもりとは?」
「最近のおかしな行動のことだよっ! 何を考えてあんなことしてるんだっ!?」
俺は厳しめの口調と表情でラウラに詰め寄る。
けど、それがどうしてだか分からないって風に、ラウラは不思議そうに首を傾げながら、さらりと言ってのけた。
「妹とはこういうものではないのか? 送られてきた本にはそう書いてあったが」
「本? その本って何のことだよ?」
「これのことだ」
そう言ってラウラがどこからか差し出した本は、全部で三冊。それぞれ表紙の文字に目を通していくと……。
「『萌える妹入門』……何だこれ……』
「入門ということで、とても分かりやすく書いてあったな」
「『妹の社会哲学』……哲学って……」
「少し難解だったが、それも非常に参考になった」
「『妹百八式~兄を煩悩で満たす方法~』……おい……」
「過激な内容だったが……それさえマスターすれば、お兄様を劣情の波で押し流せるらしい」
既にたがが外れかけている俺に、止められるものは何もなくて。
ブチッっと、頭の奥で何か大事なものが切れる音がした。
「どこのどいつだ、こんなもん渡した奴はっ!?」
「どこのドイツではなく、私がいたドイツの部隊からの贈り物だ」
「ドイツのソイツらは! 俺を劣情の波で押し流して何をさせる気だああぁぁっ!」
「こういう時には何と言うのだったかな……」
俺の怒りなんてどこ吹く風といった様子で、ラウラは涼しい顔で本をめくり出した。
「そうそう、ここだ。『お兄様……お兄様になら私……何をされても……』」
「誰がするかああぁぁっ! そんな本を読むなああああぁぁぁぁーーっ!」
続いて本に書いてあったんだろうセリフを、今度は大げさに顔を赤らめて朗読する。
息を切らす俺。みんなの好奇の目。今日の俺は夢から覚めても叫んでばっかりな気がする。
「くそっ、どうしてこんなことに……」
「シンさん、あなた気付いていらっしゃらないので?」
「はい?」
ぜいぜいと方で息をする俺の耳に、呆れたような声が聞こえてくる。
視線を移せば、セシリアは今日も優雅な金の長髪をなびかせていた。聞き返す俺のことを、もうすっかり見慣れてしまった白い目で見ている。篠ノ乃も、凰も、全く変わらない目をしていた。
「アスカ、お前がボーデヴィッヒといる時だがな……頬が緩みっぱなしだぞ?」
「何だかんだ言って、しっかり面倒見てるし……根っからのシスコンなのね」
「……うそぉ? 一夏、ホントかっ!?」
「ああ、マジだけど。それにしても、どいつとドイツか……二人ともやるな」
一夏にも聞いたんだから、本当のことなんだろう。俺は開いた口が塞がらなかった。確かに、お兄様って呼ばれるとこう、何て言うか嬉しい感じもするし、そう呼ばれると不思議と面倒見なくちゃって気になるけど……。
「しかし妹とは楽しいものだな。お兄様、明日はどう起こせばいい? 制服エプロンにフライパンはポイントが高いそうだが」
「もう好きにしてくれ……あれ、ところでシャルは?」
「まだ寝ているのではないか?」
いつもなら真っ先にラウラを諌めてくれるシャルがいない。辺りを見回してもいないし、そもそもシャルは必ず俺の隣に来るから、食堂にはいないみたいだ。寝坊? 珍しいこともあるんだな。そろそろ時間が無くなるけど、平気なのかな? うーん……。
「気になるし、ちょっと俺見てくるよ」
「おう、遅れるなよ? 遅れちまったら、今日も千冬姉にどやされる」
「今日も、なんてのは勘弁だな。急いで行ってくる」
「お兄様、遅刻したのなら私が慰めてやろう」
「そんな慰めいるもんかっ!」
何杯目かのコーヒーを飲み干してから、俺は食堂を後にした。同室だった一月のこともあって、シャルがいないと落ち着かない気もする。
◇
さて、シャルの部屋の前まで来てドアを叩いても返事が無かった。
仕方ないから部屋に入ってみたんだけど……
「まだ寝てたのか……はあ……」
「ん……すぅ……」
シャルはまだ気持ち良さそうに寝息を立てていた。枕元には首の無いぬいぐるみが置いてあって、布団の中のシャルは何かを抱きしめた格好で寝ている。俺があげた『もげろっ! 健一くん特大ぬいぐるみ』の首を抱えているんだろう。止めてくれよ……なんだが罪悪感とかで胸が潰れそうになるから……
とにかく、これ以上首の無いぬいぐるみを見ていると気持ちが滅入る。さっさとシャルを起こして首をくっ付けてもらおう。
「ほらシャル、朝だぞ? 起きないと遅刻するぞ?」
「んん……? あれ……シン……有罪になったんじゃ……」
寝ぼけてるのか? シャルの口からありえない単語が聞こえてきた気がする。気のせいだよな? アハハ……
「シャル、どんな夢見てたんだ……?」
「う~ん……シンのこと、訴える夢……」
ありえないけど、夢の中で俺を訴えたのはシャル本人だったらしい。理不尽過ぎた内容だったけど、それじゃあもう怒るに怒れなかった。はあ……何だったんだよ、あの夢は……。
「いいから起きろって。遅刻しちゃうだろ?」
「ん~……」
薄目でこっちを見てから、ぬいぐるみの首に回していた手を片方、俺に向ける。シャルがこの仕草をするってことは、いつものアレか……。
「手、繋いでくれたら起きるよ……」
「やっぱり……ほら、起きろシャル~」
部屋が変わってからも、シャルが手を繋ぎたがるのは変わらなかった。シャルってなんだか、甘えたがりな妹みたいな気が……いけない、これ以上妹が増えても困る。
「おはようシン……僕のこと、起こしに来てくれたんだ」
少しずつ目が覚めてきたらしいシャルが、軽く伸びをして上体を起こした。俺が部屋で目にしていたスポーツジャージ姿とは打って変わって、女の子らしいパジャマ姿だ。猫のプリントがいっぱいで可愛らしい。
「おはようシャル。目、覚めたか? 早くしないとホントに遅刻するぞ?」
「シンが毎日起こしに来てくれたら、僕も遅刻しないんだけどなぁ」
手を繋いだままシャルが笑顔を見せる。朝からそんな冗談を……
「前は一人で起きられたじゃないか。どうしたんだよ?」
「シンのせいだよ……? もう……」
笑いながらもシャルの顔に赤みが差していった。あれ? そんなに部屋暑い? そう言えば、もう七月になるもんな。全体的に空調が利いてるから、学園の中は快適だけど。こういう所は流石は国の重要施設……って、そうじゃなくて。
「シャ~ル~。急がないと――」
「約束してくれないと、離さないもんねっ」
「うわっ!」
繋いだ手がグイと引っ張られて、俺はシャルのベットに沈み込んでいった。さらに俺に布団を被せて、その上にシャルがのしかかる。
「こらっ、シャル! 離れろっ!」
「ダメだよ、えへへっ」
「こんのーっ!」
「きゃっ、アハハハハっ!」
バタバタとベットの上で暴れまわる。枕を掴み、布団をかけて、二人で笑って。
こうやってふざけあうのも……家族がいなくなってからいつ以来か分からない。ただオーブにいた時は、マユとこうやって遊ぶのが、とても幸せだったと思う。
そして今、大事な人と一緒にいて、俺は幸せだ。
「シン、もう降参?」
「分かった分かった。約束するから早く離れてくれって」
「へへ~、約束だよっ? 明日から必ずねっ?」
「うん、約束する」
暴れまわったせいか、俺から離れたシャルの顔は真っ赤だった。朝からこんな運動するからだぞ? 全く、仕方がないなぁ――っておいっ! だからそうじゃなくて、時間!
時計に映った時間を見た途端に、俺とシャルの顔が青くなった。ホームルーム開始のたった十分前。このままだと確実に出席簿に挨拶コースだ。
「シャル! ち、遅刻する!」
「あっ! ご、ゴメン! すぐ着替えるからね!」
「食堂に行ってるヒマなんてないぞっ!? 買い置きの食事、部屋からもって来るから!」
「う、うん! おく、おく、遅れるよぉ~っ!」
「うああぁぁ~っ!」
シャルは傍の首を放り投げて、洗面所に駆け込んでいく。
俺は大慌てでシャルの部屋を出て、自分の部屋に向けて廊下を走り出した。
結局この後、俺とシャルは仲良く遅刻するはめになった。
授業には間に合わなくて、織斑先生には怒られ、クラスのみんなからの視線は辛くてたまらなかった。
教室に二人で入ったとき、何故だかシャルはニコニコ笑っていたけど……その内に笑顔のコツでも教えてもらおうかな。