真剣を構える青年が尹に向かって一直線に走ってくる。相手は完全に
勿論、尹には振り払う火の粉を振り払えるだけの力がある。それどころか、やろうと思えば火の元を一気に消せるほどの力があった。しかし、その力を使うわけにはいかない。使えば余程青年が幸運でない限り彼の命の火は消えてしまうのだから。
この数日で尹を取り巻く環境は激変した。未だ木野尹と言う人物を知るものが少ないということが大きいが、少なくとも今は彼を認めて彼を心配するヒトがいる。外で一人寂しく生きていた時には味わうことの無かった充足感を再び味わうことも出来た。だが、それは同時に彼を縛る鎖にもなっていたのだ。その鎖が今まさに尹を縛っている。
人間と言う生き物は厄介なもので、その状況を知っていても…自分の身を守るために罪を犯したとしても、その罪を犯した者を責めこそすれ慰める、褒めると言ったことをすることはほとんどない。自分の命を守るために危害を加えてきた相手を殺す、と言うことは尹は別に問題ないと思っているが大半の人間はそうは思っていないだろう。いかなる理由があるとて人の命を奪うことは最大級の禁忌とされているのだから。
故に尹は青年の攻撃に対して有効な手段を見いだせずにいた。たとえ人並み外れた戦闘力を持っている尹と言えど―いや、この場合はそれが仇になっているとも言えるかもしれない―襲い来る青年に傷一つ付けずにこの場を納めるということはほぼ不可能だった。刀を抜かなければ殺られるかもしれない。けれど抜いてしまえばこちらが相手を殺めてしまうかもしれない。自分の身を優先するのか、それとも世の考えに乗っ取って穏便に済ませるべきなのか。その判断が出来ずにいた。
「せぇぇぇぇぇぇああああ!!」
「ッ!!」
結局どうすべきかの判断を下せぬまま、尹は僅かに刀を抜き鞘から見える抜き身の部分で青年の凶刃を受け止める。その太刀筋は疑う余地もないほどの急所狙い。頭に血が上ってしまった青年に良心と言う言葉は既に失われてしまっているようだ。いや、もしかしたら尹を殺すということが彼にとっての『良心』なのかもしれないが。
故に青年はその手を緩めることなく次の攻撃動作に移る。当然尹もそれに対応しすぐさま回避動作に移った。先程まで当然のようにやってきた動作。紙一重で相手の動きを躱す。同時に尹はそれが今とてつもなく恐ろしいものだと実感した。しくじれば死ぬ…死への恐怖を始めて実感した。妖怪とやった時は彼も今の青年同様頭に血が上っているようなものだったからさして感じなかったが、今は違う。自分の命が脅かされているということへの恐怖感がじわじわと彼を蝕みはじめた。
ここに来た時からついさっきまで何となしにずっと考えていた『いつ死んでもいい』等と言う戯言は吹き飛んでいた。死にたくない。今までで初めてそう思えた。右へ左へ、前へ後ろへと必死に相手の攻撃をかわし続ける尹。しかし、この状況をどう打破すべきかが見いだせない彼は焦り、怯え、疲弊し始めていた。今はまだちゃんと避けられているが長くはもたない。それは尹本人が一番分かっていた。だからこそ焦燥感が彼を煽る。
「どうしたぁっ!? その刀は飾りなのか!?」
「くぅっ…!!」
青年の煽り文句に返答を返せない。飾りであるのが最良の選択であると思いたかった。コレがその役割を果たしてしまったら間違いなく最悪とまではいかなくてもよくない方向に事が進んでしまう。だがもう尹も限界だった。息が乱れ、動きは徐々に精彩を欠いていく。それは青年も同じはずだが、何をそうさせるのか今の彼は限界を超えてしまっている様で全く動きが衰えない。後でその反動を受けるのは明らかであるが青年にとってその『後に来る反動』等どうでもいいことなのだろう。
そして、ついにその時が来てしまった。
「貰ったぁ!!」
「しまっ…!」
ほんの一瞬、尹の反応が遅れる。たかが一瞬。されど致命的な一瞬。青年の振るう刃が尹の首筋を捉えて一直線に振り下ろされる。尹はそれに対して何もできなかった。咄嗟に身を固くして目を瞑る。その直後、肉を断つ鈍い音と激痛が尹に襲い……かからなかった。
何時まで経っても剣をその身に受ける痛みが訪れないことに疑問を覚え、恐る恐る目を開ける尹。青年が振り下ろした刃は、尹の首まで数ミリと言うところで止まっていた。
(何が……)
視線を青年の顔へと移す。その表情は先程の鬼気迫るものではなく、恐れと焦りに染まっていた。状況が呑み込めないでいる尹。そんな彼の後ろから、老人の声が響く。
「里の真ん中で騒ぎがあるからと来てみれば……一体何をしておるのだ。聖治」
「…ッ!?」
老人の言葉に刀を下げ口をパクパクと動かす青年。想定外に次ぐ想定外な出来事にどうやら完全にパニックへと陥ってしまっているようである。
「こ、これはですね父上…里の平和を守るためにひ、必要な事でして……」
「平和を守るだと…? お前は何もわからなかったというのか?」
「は…?」
青年の言葉に深いため息をつく老人。それは失望と呆れを表すものであった。どうやら、彼は尹と青年の実力差を正確に見抜いているようだった。やや呆然としている尹を余所に老人は青年へと近寄り…そして刀を取り上げた。突然の行動に加え無駄のないその動きに青年は抵抗することも敵わず刀を取り上げられてしまう。
「剣を交えて分からなかったのか? お前程度ではそこの御仁には敵わんよ。お前は天狗になりすぎたんだ。里の剣術大会で優勝したからと言って真面目に鍛錬をしないからこうなる」
「お、俺がソイツに敵わない!? なぜそう言えるんですか父上! 先程まで完全に俺の方が優勢……」
青年が老人の言葉に反論しようと声を上げるが、老人はそれを遮り怒鳴った。
「阿呆! この御仁が刀を抜けばお前の首なんざ簡単に飛ばされてしまうわ! お前の身勝手な感情にずっと怒ることなく冷静に受け続けてくれたからこそお前は生きているんだぞ! ……そうであろう?」
不意に老人から話を振られたため、少々返答に戸惑った尹だったが数瞬の後に老人の目を見据えて答える。
「…その気になれば確かに出来ると思う。だからこそ抜かなかった」
「だろうな。お主にはうちの倅が迷惑をかけた。どう謝罪すればよい物か……」
しかし、老人が出てこなければ尹の首が飛んでいたのも事実である。それだけで十分だった。だが、尹はあえてこう切り出す。
「謝罪はいい。アンタが出てきてくれたから俺は助かった。…が、このままだと後味悪いしな。今度は本気でそこの馬鹿とやらせてもらってもいいか? 勿論木刀だ」
尹の言葉に少々驚いた表情をする老人だったが、直ぐにそれを了承した。再び相対する尹と青年。二人の手元に真剣は無い。血の雨が降ることだけは避けられるだろう。
今度は手加減せず、本気で攻める。そう心に誓う尹。元はと言えば先のことばかりを考え目の前のことへ集中しきれていなかった自分にも責任はあると思っていたこと。そして、全力で戦わないことが相手にとって失礼に当たるということを失念していた自分への戒めもかねてだった。
「今度は本気だ。さっきは悪かったな…手を抜いたりして」
「…どこまでも人をコケにしやがって。今度こそ叩きのめすぞこのガキ」
「それでは、ここに外来の御仁とうちの倅による試合を決行する。勝負は一本。なお多少の怪我は致し方ないものとして双方本気でやってくれたまえ」
老人の言葉を聞いて、少し安心する尹。本気でやると言っても、やはり少々不安はあった。手加減をしたことは今までほとんどないから大けがをさせてしまったらどうしようかと。
だが、老人の宣言でその迷いがなくなる。刀を構え、青年を睨みつける。もう何時でも戦える状態だった。迷いがなくなったことで神経が研ぎ澄まされていく。先程からの戦闘で、疲労が抜けているわけではないから万全の時のように動くことは無理かもしれないが、そんなものは今関係なかった。
自分の持てる力をすべて使って目の前の相手を倒す。今の尹の頭にはそれだけしかなかった。
やがて老人の手がゆっくりと上がっていく。二人の間の緊張感がさらに高まっていき…そしてついに試合開始の合図となる老人の手が振り下ろされた。同時に…いや、尹の方が一瞬早く動き出し瞬く間に間合いへと詰めていく。攻撃態勢に入る二人。先に得物を振り始めたのは青年。真正面から走ってくる尹に対し横薙ぎを繰り出す。が、尹はそれをいとも簡単に避け……そしてがら空きになった青年の胴へと剣戟を叩き込んだ。
「がはぁっ!?」
唾を口からまき散らす青年を余所にそのまま木刀を振り抜く尹。青年の体はそのまま後方へと吹き飛ばされた後に地面に叩き付けられ数回転がったところでようやく止まった。
誰がどう見ても間違いなく尹の圧勝であった。里で一番の剣客と呼ばれた青年を、たった一撃で戦闘不能にまで追い込んだ尹。しかし、その表情は決して勝利の笑みを浮かべてなどおらず、どこか苦虫を噛んだような表情をしていた。
当然である。最初からこうしていればよかったとは言わないが、少なくとも今回自分の良かれと思って起こした行動が結果としてここまで状況を悪化させるきっかけを作ってしまったのだ。勿論全体的に見れば青年に責任が問われることは間違いないだろうが、尹にとってそんなことは重要ではなかった。一歩間違えれば辺りに血が流れるという最悪の結果に終わるかもしれなかったのだ。実際老人が出てこなければ尹の首と体はそのままお別れしていただろうし、尹が一度でも刀を抜いていれば青年が致命傷を負っていたかもしれない。
老人のお蔭で状況は振出しに戻り、結果として丸く収まったから良かったものの尹は苦い思いを隠すことが出来なかった。
「流石…というべきかの。その若さでそれだけの技量…さぞかし良い師に恵まれ、そしてたくさんの修練を積んできたのであろう」
「…………」
「案ずるでない。今回の件でお主が気にすることなど何もありはせんよ。全ては目先の欲に囚われた未熟な倅の愚かさ故に起きたことだ」
「そうかもしれないけど……」
「終わったことだ。いつまでも悩むものではない。もしどうしても納得いかぬと言うなら、次に活かせばいいだけの話だ。ではな」
そう言って老人は使用人らしき人物に地面に伏したままピクリとも動かない青年を運ぶよう指示を出し、その場を去っていった。煮え切らない表情をした尹をその場に残したまま……
「何よりもお前が無事でよかった」
その晩、寺子屋の縁側で盃を交わす慧音と妹紅、そして尹の姿があった。いつもなら二人の問いや投げかけにぶっきらぼうに応じる尹だが、今日はそんな生意気な彼はどこへやら。生返事を繰り返すばかりで普段の普段の嫌味も全くいう気配が無かった。
「それにしても意外ね。もっと自己中心的な考え方する奴だと思っていたけど」
「…俺一人の問題ならなます切りにしてやっても良かったさ。けど一応ここに厄介になってる身だ。迷惑になるようなことは出来ない」
「気持ちは有り難いが…木野、それでお前が傷ついてしまっては元も子もないんだぞ」
「結構ヤバかったんでしょ? そんな状況で反撃しても誰も攻めないと思うけどなあ」
「ほんとにそうなら…気が楽なんだけどな」
そう言って猪口に注がれている酒をちびちびと飲む尹。酒が入って少々ご機嫌の妹紅から気まずそうに眼をそらし、改めて昼間起こった出来事を振り返る尹。冷静になってみれば、何と自分らしくないことを考えていたのだろうと思う。ほんの少し前なら他人のことなどどうでも良いと言って容赦なく青年を痛めつけていただろう。にもかかわらず今回は他人のことを一番に考えて行動して居た。全く持って自分の行動に一貫性が無いことにため息が自然と出る。一体自分は何がしたいのか? 自分さえよければそれでよいと思っていたのではなかったのだろうか。どうせヒトは自分のことが一番なのだから人のことなど気にするだけ無駄だと思っていたはずなのに。
「全く今日は厄日だな……」
そう誰に言うでもなく小さく呟くと尹は猪口に注がれている酒を一気に煽った。昼間の疲れと程よく酔いが回ってきたのか、急速に彼を眠気が襲う。部屋に戻るとか、そういうことを考えることもせず尹はそのまま意識を手放した。