Ⅰ
疾風が捕手から遊撃手へコンバートを決意した翌日。疾風が自分なりのケジメを付けるため、自身と付き合いの長く、更に同じ大学に在籍している人間――姉の香澄、猛田、東條の三人だけには、あらかじめコンバートをすることを告げることを決意する。
特に姉と猛田には、それぞれが「それが疾風の答えか」、「捕手を本当に捨てるのか」と質問をされる。東條は「そうなったきっかけ」を質問された。
問われてくる内容。それは、疾風が予想していた範囲内でのことだった。そうなるまでの経緯を思い出す。三人に対して、共通の答えを出した。
「キャッチャーに未練は無い、って言ったら嘘になる。生き残れるために、僕がこの選択肢しかないって判断した」
疾風が納得しつつも、どこか寂しそうに言った。積み上げてきた物が一気に消えてしまったのだから。それと共に自分が決めたことなのに女々しいと、自分で自分自身を嘲笑っていた。
疾風の選択に関して、聞かされた三人は何も言わなかった。それは彼自身の問題であり、関係ない人間が干渉してしまうと、余計に事態を悪化させかねないという理由である。疾風が自力で立ち上がり、戻ってくると信じていた。
当の疾風は熾烈な遊撃手争いを、自分がどうすれば生き残るか考える。
今までの野球人生において、捕手以外のポジションを経験したのは外野のみ。その外野も、チームの事情で守備をしていた程度。捕手として野球人生を歩んできた自分が、いきなり遊撃手にコンバートなど、不安でしか無かった。それでも、前へ進むという答え以外は表れない。泥水をすする覚悟もあった。
姉の香澄はさらに深く考えていた。
自分の弟が、捕手と言うポジションを捨てた所までは良い。彼女を悩ませていたのはその後のことだった。今まで、自分とバッテリーを組むことを目的としていた弟。長く積み重ねたことが、達成できない虚無感に襲われてないか心配だった。
「それにしても、あっさりと決意したわね」
香澄が率直に思った言葉を疾風に投げかける。
「やっぱり試合に出たい。監督からの方針もあったからね」疾風は流すように言う。
「そうだったの」
監督、チームの方針であることは知っていた。だからこそ、前日の練習試合ではアピールすることに拘っていたのも理解している。これ以上、問いかけるのも野暮ったいと香澄は見抜いているようだった。
「捕手の道はもう諦めた。そして、前に進むしか道は残されていない」と疾風が言う。
「そこまで決めたなら、後は後悔しない様にしなさい」
彼女の瞳は少しだけ、悲しそうであった。彼女もまた、バッテリーを組んで野球をすることを望んでいた。しかし、それはもう叶わない。だが、同時に新たな楽しみを彼女なりに見出す。今まで自分の目の前で守っていた弟が、今度は自分の後ろで守る。バッテリーという形でなくとも、姉弟二人でグラウンドに立てることを望んでいた。
Ⅱ
疾風が遊撃手にコンバートしたという事実に対する反応は、実に多種多様なものであった。
外野手登録されている選手からは、コンバートに対する反応は特に無かった。外野との連携で、関係が出てくる中継プレーを心配する者もいたがごく少数。事情を知っていた猛田は「生き残れ」と短くではあるが率直に思う。
内野手登録されている選手からは、否定的な声が多かった。捕手出身である程度の知識があるとはいえ、最も複雑なプレーが多い遊撃手。いきなりそれが務まるのか、不安視する声が多くある。特に二塁手とのプレーでは併殺を狙う機会も多いため、二塁手の選手からはあまり賛成の声が無かった。
捕手登録されている選手からは、ライバルが一人減る。その事実に対して、安堵する者が多くいた。捕手登録の選手枠が一つ減ったことで、レギュラーの座に近づくことが出来たからだ。六道は疾風のコンバートに最も驚き、無念という感情を抱いた。彼と捕手のレギュラー争いをすれば、共に切磋琢磨をして実力を磨けたはずだから。いずれはダブル正捕手体制を築き、自分と彼を併用する采配。これもあり得たはずと考えていた。
だが、悔やんでも仕方ない。
無念と言う気持ちは無くなったわけではない。チームの方針であり、監督の提案を疾風が受け入れた以上は仕方ないと割り切っていた。自分勝手な私情を持ち出し、チームに迷惑をかける行為は論外だ。自分に出来ること――何としても、チームに貢献したい。日本一の捕手になりたい。自分の設定した目標に相応しい選手になるため、彼女はやる気を密かに高めていた。
疾風もやる気はあった。しかし、思い通りにプレーすること出来ない。頭では理解していたが、体が付いて行かなかった。けん制及び盗塁時の二塁ベースカバーの入り方。塁間にランナーを挟んで、ランナーをアウトにするランダウンプレー(挟殺プレー)。それらは当然の如く、全てが捕手とは異なっている。捕手としての身に付いていたプレーが、自然と出てしまっていた。
それだけでは無い。
捕手や外野だと、ほとんど経験をすることが無かったイレギュラーバウンドの処理。疾風の予想していたコースとは、異なる方向へ打球が飛んでしまう。グラブで止めることは出来ず、彼の小さな身体全体でボールを止めていた。更にスムーズな連携プレーも体が付いていかない影響で、ぎこちないプレーが続く。
不甲斐無いプレーの連続に「こいつがショートじゃ取れる併殺も取れない」、「投手に同情する」、「不向きな選手に何故やらせる」と、などと言った陰口を言われる様になった。
そう言われてしまう覚悟は疾風自身も出来ていた。しかし、遊撃手にコンバートした以上、自分もレギュラー争いをしている身。チームでたった一つしかない、レギュラー。絶対に掴み取るためであれば、なりふり構ってなどいられない。練習をやる以上は結果が欲しい、試合に出場したいと誰しも願っていたから。
このままでは約束を果たせない。約束どころか、レギュラーにすらなれない。それならば、普段の練習の時以外にも参加して、実力差を埋めよう。試合に出るためには泥臭くても良い、汚くもなり、無様にもなる。人から何を言われても構わない。
――疾風の遊撃手としての再スタートは、幕を開けた。
遊撃手にコンバートした初日、全ての練習が終わった。今の季節は秋の終わり間際であり、もうすぐ冬となる。その前兆なのか、太陽が沈むのははやくなっていた。
「東條、頼みが終わる」
夕暮れで染まる練習場、疾風が東條へ声をかけた。
東條が振り返った。彼が練習に疲れている様子が感じられない。大学の練習に体がなれたのだろう。
「どうした?」と、東條が淡々と疾風に返した。
「室内練習場に来て。聞きたいことがある」
室内練習場に来ることを指示する。最後に一言――内野用のグローブを忘れずに持って来て、と疾風がそう付け加えた。
東條には疾風の意図に分からなかった。彼に頼まれたように、内野用のグローブを持って来ることは忘れない。自分のグローブをほんの少しだけ手入れしてから、疾風が待つ室内練習場へ向かう。
疾風がボールを左手にグローブを身に付け、右手でボールを持っている。右手に持っていたボールを、左手に付けているグローブに叩きつける。乾いた音が二人しかいない室内練習場に大きく響いた。
疾風ほどの選手が、意味もなくこんなことをするはずがない。練習にストイックなのは事実だし、効率の悪い練習はしない。ただキャッチボールを誘うだけならば、グラウンドでも良かったはず。
「何をするつもりだ?」単刀直入に東條が聞いた。
時間をこんなことで、無駄にしたくはない。自分もやりたい自主練習があるからだ。しかし、彼がいくらストイックであったとしても、冷酷に切り捨てることはしない。事情を聞いた上で、吟味して判断してやりたいと考えていた。
「内野に共通すること、ゴロの捌き方を見てほしい」
疾風がそう言って、壁にボールを投げ込んだ。壁に衝突したボールがバウンドし、疾風がそれを捕球する。この動作を二回繰り返し、東條にゴロの捌いている自身の姿を見せた。
疾風を観察したところ、彼に呼ばれた理由が東條は少しだけ理解出来る。彼は今日の練習で同じ内野手になった。東條は三塁手、疾風は遊撃手。ポジションこそ自分とは異なっているが、三遊間の連係プレー関係してくる。ましてや、疾風はてんで素人レベルに誓い内野守備。少しでも慣れるため、技術を知っている自分が呼ばれた。
「っと。見て分かるように、内野の守備を教えてほしい」
「そういうことか。容赦しないつもりだが、覚悟はあるか?」
「ハナッから覚悟あるよ。でなきゃ、頼まない」
疾風が真剣に言う。自分が知っている人間で、内野をもっとも経験しているのが東條小次郎だった。彼の指導を受ければ、基本的なことはすぐに身に付くと判断する。練習を独学で考え、それを行ったとしても、悪い方向に進む可能性がある。そんなリスクを背負うぐらいであれば、頭を下げてでも東條に頼むのが一番手っ取り早い。
東條が内野守備でも一流のレベルであるのを、疾風も良く知っている。根拠として、中学や高校時代に同じチームでプレーしていて、マスクを被っていた時からの積み重ねがあるからだった。
東條の守備は一流。難しい打球も軽快な守備で捌く。そんな選手から学び、キチンとした守備を行う。将来、大学野球で自分と彼が三遊間を組む可能性もある。今のうちに、信頼関係を築いて問題は無い。来ると思われる未来を見据えた判断であった。
「僕の親しい人で頼めるのは、お前しかいない」
だから頼む。そう訴えかける様に、疾風が東條へ頭を下げた。
プライド、面子などに拘っている場合ではない。遊撃手のレギュラー争いは、もう水面下で始まっている。徹底的に追い込まなければ、他の選手達の背中を自分が追いつけないという状態。捕手というポジションを自分から捨てた時から、彼には失うものが無い。
徹底した向上心と、プライドを捨てたという決意。東條はその疾風の取った行動で理解し、心の底から驚いていた。捕手をしていた時のままであれば、絶対に他人には頼まなかっただろう。
「分かった。そこまでやったんだ、俺も全力で応えるとしよう」
あれだけプライドの高かった人間が、簡単に頭を下げられない。ただ目の前の所に全力でいる姿。並大抵の覚悟を背負い、疾風は自分をここに呼んでいる。その事実は、ひしひしと伝わった。互いを互いで刺激し合い、より向上するために、そしてチーム全体が強くなるために。それが東條の出した答えだった。
東條は早速、疾風に「今一度、打球処理の動きを見たい」と言う。それに了承という意味での頷きをして、疾風はボールに壁を当てて捕球する。この練習を再開した。
「待った」
何度かそれを繰り返している内に、東條が疾風を止める。無駄な動作があるのか、基本的な動きが出来ていないのか――疾風は不安になった。
「お前、どの様な打球を想定してやっている?」
東條が呆れながら、疾風に疑問をなげかける。
「何も考えていない、ただ必死にボールに食らいついている」
何も迷わず、額の汗を拭いながら疾風がそう言った。
精神的余裕も無いのか。中学時代からの付き合いが長いとはいえ、東條は彼の姿に戸惑いを隠せなかった。猛田ならともかく、彼がこれほど考えてプレーをしていないのは、初めて見た光景。試合では緻密な戦略を組み、最高のリードで相手打者を翻弄する。それを行っていた関疾風とは全く異なる姿。
「やっぱ、望みどおりの答えじゃなかったか」自嘲気味に疾風が言う。
「確かに希望通りでは無かった」
東條がそう言うと、グラブを疾風に向けた。自分にボールを寄越せという合図に、疾風はすぐに理解した。彼のグローブにボールを収め、東條がグラブ捌きを行う。一連の動きには美しささえ、感じられるものだった。
膝関節を柔軟に動かし、ボールを確実に捕球する。その時、体は捻じれてはおらず、捕球位置は上半身の中心。大切にボールを処理していた。
次に球際での打球処理を軽く見せつける。両足の中央にグラブを置いて構え、警戒に捌いた。その時、彼の肩及び腰のラインは水平であり、上半身は捕球方向に向いている。さらに、膝を真っ直ぐ利用して、手のひらを捕球方向に向けていた。
「膝とグラブの位置を、上手く使っているのか」
東條を観察していた疾風がそう呟く。
難しいバウンドでも、冷静に打球を処理していた。グラブの向きが重要であること、それがすぐに分かった。
「そうだ。それだけではない」
「どういうこと?」
球際に強くなる打球処理、それは練習の積み重ねだけではない。グラブの向きを普段から意識し、肩や肘の関節を普段から鍛え、柔軟性を高めること。東條はそれを、疾風に教えた。彼の指導と解説は、とても分かりやすい。彼の指導を通じて、実に効率的な練習を行っているのが、疾風は理解できた。練習する量は勿論のこと、短い時間でも完全にその技術を習得する。東條小次郎と言う存在がどうなのか――それを改めて思い知った。
「東條、もう一つ頼みがある。僕の守備、一時間……いや、三十分だけで良い。当面見て貰えないだろうか?」
「そんな短くて良いのか?」東條が試すように問う。
「ああ、時間は貴重だからね。お前の自主練時間を割くわけにはいかない。自分の不甲斐無さで相手に負担を増やす。これは死んでもごめんだ」
「分かった。だがな、俺が納得するまでは嫌とは言わせないぞ」
東條がすぐに返答する。
いきなり一人で練習しろというのは、あまりにも酷な話である。慣れないポジションにコンバートし、技術を少しでも身に着けたいと言う意思があったから、東條は切り捨てることをしなかった。
その日から、東條の厳しい指導が始まった。限られた時間での指導だったので、彼のまとめ上げた練習メニューをこなすが、練習量はキツイものだった。すぐにでも、実践を想定してのメニュー。普段の練習に加え、東條の厳しい指導。疾風の体が慣れるのに時間はかかった。しかし、彼は諦めることはない。
――逃げない、迷わない。
ここで蹴躓いてしまっては何もかもが遠のいてしまう。いや、全てを失ってしまう。
捕手だけでなく、野球人生そのものをドブに捨ててしまう。もっと野球がやりたい。何にでも縋る一心で、東條の提示した練習を消化していった。
成果は徐々に形として現れる。総合練習では難しいイレギュラーバウンドも戸惑うことなく、体が自然に反応して打球を難なく捌く。ノッカーの打球が飛ぶ前に、予想して打球のポイントに着く。三カ月という僅かな期間、徹底して居残り練習を行い、守備を鍛えて身に付けた技術。これが日頃の練習や東條との指導を通じて、築き上げてきた疾風の練習成果だった。
しかし、アピールするだけではなく、新たな弱点も浮き彫りになる。堅実に打球を捌く技術こそ身に付けていたが、捕球した後から送球に入るまでの動作が遅く、コントロールも安定はしていなかった。これでは彼の肩がいくら強くても意味が無い。彼が捕手だった時も致命的というレベルではないが、普通の選手と比較して送球がぶれやすい弱点はあった。遊撃手にコンバートしてから、更にひどく露呈してしまう結果となってしまった。
――課題はすぐに解決する、こうでもしなければ追いつけない。
その弱点が発覚してから、疾風は早速練習することを決めた。
Ⅲ
いつでも足踏みをしていないこと、遊撃手として着実に実力を深めていることを、チーム全体に証明できた。
自分自身が成長していることの実感し、内野手として、遊撃手として前進できた。その大きなきっかけを東條が与えてくれたこと。疾風には彼に対し、感謝の気持ちで絶えなかった。
「東條」疾風が後ろから、声をかける。
「どうした?」東條が疾風に聞き返す。
「今まで、練習見て貰ってありがとう。ここから先、僕一人でいく」
「お前は基礎的な動きは出来ているようだ。」
今日一日の総合練習を通じ、自分の特訓の成果をから感じ取れた疾風に東條が言う。
彼の厚意に甘え、いつまでもおんぶに抱っこの状態で頼りっぱなしではいけない。疾風は東條に苦労はかけたくはない一心だった。これ以上の自分のせいで、彼がやりたい練習を出来ない。そのことだけは疾風自身も嫌っていた。
基礎の部分しか教わっていない。だが、もう同じ年の選手の中にはプロに進んでいった選手もいる。その選手たちは自分で考え、練習を実行している。いずれは自分もその舞台に立ちたいという意思があり、叶えたいと心の底から思っている。そのために自分で考えて練習しなければならなかった。
「ここで天狗にならずに化けるか否か。見させて貰うぞ」
観念したように東條が言う。疾風の決意が固いのをすぐに悟った。
「当然化けるつもりだ……ありがとう、東條」
疾風は理解をしてくれた東條に感謝する。その礼として、食事を誘おうとしたが東條に断られた。その様な礼を受けるつもりは無く、単純にチームの地力を上げるために行った行為だったから。しかし、疾風が食い下がることは無かった。必死に食らいつき、説得する。結局、東條が折れる形で承諾した。疾風が「遊撃手のレギュラーとして、チームの主力になった時」という条件付きで。
このままではいけない、早速練習をしなくてはならない。
東條を説得した後、そう言わんばかりに自分の弱点として浮き彫りになった送球、捕球後の動作の遅さを改善するため、室内練習場へと向かった。
使用していないピッチングマシーン(あらかじめ監督からの許可は貰い済)とネットを利用して、実戦を想定した形式で自分の弱点を克服しようとする。ネットを一塁、マシーンをホームに配置して練習を始める。ショートバウンドでボールを捌き、一塁に送球をする。これを繰り返して、捕球から送球までの一連の動作を確認した。
ボールが出なくなり、一週目が終了する。大きく息を整えつつ、ネットに掛かったボールを拾い集めた。スピードを以前よりも一段階高くして始めよう。もっと技術向上をするために。
「こんな遅くまで練習か、体に無茶をかけるな」
室内練習場の明かりがついていて、気になった六道が顔を出してきた。
「何って、見れば分かるでしょ? 遊撃手の練習だよ。コンバートしたが、やっぱり試合に出たい、勝ちたい、結果が欲しいから」
肩で息をしながら、疾風がありのままの本音を六道に話す。それと同時にボールをかごの中へ入れていた。疾風自身でも不思議な感覚である。あれほど敵対視していたのにも関わらず、彼女にスムーズに話せたのか――そこが引っかかった。
「そうか、ならば聞くぞ。試合に勝つことって何だと思う?」
「チームを刺激し、助け合いをするに値する力。そして、チームを引っ張る力。これが一番必要じゃない?」
チームを住宅に例え、疾風は六道に説明した。
柱や基礎の部分がしっかりしている住宅は中々崩れない。それと同じように、強豪と呼ばれるチームには、必ず中心となる人物がいる。強いチームにはならない。パワフル大学も、良い選手が集まっていて、チームとしての地力もある。しかし、中心となる選手が欠如していたこと。これが原因で、パワフル大学が中堅と呼ばれる地位に甘んじていることを説明した。
「だから、僕がそうなる。……本当は捕手としてなりたかった。悔しいが、逆立ちしても敵わないんだから。それはお前に譲るよ」
ボールをかごに入れ終え、疾風が練習に戻ろうとした。
「練習の前に一つ、関。お前の送球で、気になる所があった。私とキャッチボールをしてくれないか?」
グローブをはめながら、六道が彼に言う。
「分かった」
六道の頼みを素直に承諾し、彼女にボールを投げた。肩を温めるため、最初はマウンドからバッターボックスの距離より遠くない場所から始める。温まったのを確認でき、徐々に距離を開いてキャッチボールをした。四、五回ほど、ボールを受けた後だろうか。疾風が唐突に呟いた。
「受けやすい球だね」感心するように、疾風が言う。
「意識の問題だ」
六道が淡々と返した。キャッチボールとは、言葉のやり取りに似ている。相手のグローブを観察して、その相手が受けやすい球を投げること。たったそれだけで、自然と受けやすい球が返球される。
「意識ね。確かに観察はしているが……」段々と話し声が小さくなってしまう疾風。
「だったら、そこの所を重点に鍛えるぞ」
彼女の送球矯正が始まった。その指導で見えたのは、送球では速い返球を意識するあまり、肩と腰のラインが不安定で、更にスローイングのポイントが一定でない。
初めに、肩と腰のラインを重点的に鍛えることになる。送球の練習中、自分がいかに不安定な送球をしていたか分かった。捕手時代に盗塁を仕掛けてきた走者に対して、刺殺出来たのも彼らのおかげであることを、練習をすることで身に染みて理解出来る。自分がいかに我の強い捕手であったのか、それを痛感した。
「今日はこのぐらいにしておくぞ」時計を見た六道が呟く。
「分かった。その……指導してくれて、ありがとう。礼に何か奢らせてくれ」
過去のこと――六道に食って掛かってばかりいた頃の自分を思い出す。一縷の恥ずかしさを覚えつつも、疾風は六道に感謝を言った。井の中の蛙、大海を知らず。これが今の自分に当てはまる言葉だった。ものは無かった。
「それなら、きんつばが良い」六道が何の迷いも無く即答する。
「ファミレスにきんつば? 無いだろ」あっさりと疾風が返答した。
「
「餡蜜とかパフェぐらいなら、普通にあると思うよ」
それなら急ごう。六道がそう言って、室内練習場へ出た。切り替えが速い、そう感じながら疾風も後から続いた。
ファミレスに寄り(当然、シャワーを浴びたり着替えも行った)、大きいパフェ、餡蜜を注文した六道。和菓子との違いをつらつらと語りながら、物凄いペースでパフェ、餡蜜を平らげた。甘いものは別腹とは言ったものだな。疾風は苦笑いを浮かべながら、淡々と甘いものを食べ続ける彼女を眺めていた。
それから六道と疾風が話すうちに、妙に打ち解けた雰囲気になった。野球での話は勿論のこと、普段の私生活のことや、橘や東條、猛田らの話に盛り上がる。予想外な展開である、疾風はそう驚愕した。野球を離れれば、かなり砕けた物腰になる六道。どこにでも普通にいる女の子だった。彼女と話をしてみれば、話しやすく気が楽だなと思うようになっている疾風。彼の印象が一流の女性野球選手から普通の女の子である、と大きく印象が変わった瞬間。
意外な一面を知れたな――疾風は心の中で笑っていた。