寒かった冬を超えて、暖かい春になる。疾風らは二年に進級し、新入生もパワフル大学に入学してきた。ちょうど一年前の彼らと同じく、自身のアピールポイントを監督に対して示すことを欠かさない。
遊撃手として歩み始めた関疾風は、急激な成長をしていた。捕手時代から優れていた彼の強肩は、コンバートを経験することで才能を更に磨きがかかる。
基本的な打球処理は何の苦も無く、送球までの流れは鮮やか。以前と比較してだが、一塁手が難なく捕球のしやすいボールの送球。連係プレーでも積極的に声を出し、スムーズに行う。
更には彼の守備範囲は広くなり、遊撃手に体が順応していた。持ち味としている俊足を存分に活かし、三塁手と左翼手の間に落ちる緩やかなフライ、更にはセンターへ抜けそうな打球にも食らいつく。毎日の居残り練習の成果が、本格的に体現されていた。
これらの成長に指導していた六道、東條は驚きを隠せなかった。疾風に頼まれ、一時的ではあるが、毎日居残って練習を積んでいた。成果を出すのには時間がかかること。その点を差し引いたとしても、素早くかつ正確な動きが出来る疾風に驚いた。
自分もうかうかしていられない、このままだといずれは追い抜かれる。彼に追い抜かれるつもりは毛頭ない。東條は疾風の野球に対する姿勢を冷静に観察し、このように結論付ける。一人のライバル、一人の野球選手、一人の親友として、内に秘めていた闘志が更に燃えていた。
対する六道は、唐突に中学時代を思い出す。かつて、自分とバッテリーを組んでいた投手を彷彿させる成長速度。彼女の中で焦りの感情が生まれ、過去にプレーした選手と疾風が重なって見えた。
だが、今の疾風はそう思っていない。同じチームの選手であり、既にレギュラークラスの実力を持つ自分と同期の橘、六道、東條、猛田。遠い場所へ引き離されてしまったけれど、まだ追いつき追い抜ける場所にいる。疾風はそう考えていた。
野球選手として、誰しもがキツイ練習を行っている。誰よりも多くの練習を重ねて上手くなり、試合に出場したい――それは野球選手である者ならば、望んでいること。
当然のことではあるが、それは彼等だけでは無い。パワフル大学の練習に参加している選手たちが、力を蓄え、レギュラーに選ばれる実力を身に付け、評価されたいという感情がある。緊張感のある雰囲気。四年生にとっては大学野球で、最後の春季大会だったのだから。
「全員集合!」
夕焼けに染まるグラウンド、監督の声が全体に響き渡った。選手がすぐに集まる。
ストレッチなどを終え、集まった選手は緊張の顔だった。もうすぐ大会のレギュラー発表の時期があったのだから。
「ベンチ入りのメンバーを発表する」
張りのある声を出し、監督は選手全員に告げた。選手たちが緊張で固唾を飲みこむ。ベンチに入れる枠は、合わせて二十五人。その中に選ばれるのか、選ばれないのか。
「まずは投手陣」
監督がベンチ入りメンバーが発表される。ベンチ入りが可能な投手は九名。その内の二人は橘みずき、関香澄だった。
橘が選ばれた理由として、変則的なサイドスロー、決め球があったからである。対照的に、香澄は決め球となるボールは無いものの、多彩な変化球を投げては狙いを絞らせないのが得意だった。更に二人の共通点として、捕手の構えた所に狙って投げられる正確無比なコントロール。これが決定打となり、ベンチに入ることが出来た。
「次に捕手陣」
レギュラーに選ばれたのは六道聖。関疾風という捕手が、自分の意思で遊撃手にコンバートし、捕手のレギュラー争いから脱落した。だが、彼女の存在を脅かす選手が現れることはなかった。もっとも、六道は緻密なリード、投手の力を最大限に引き出せ、更に投手陣からも「投げやすい」という印象もあって、彼女が選ばれるのは必然であった。彼女以外には、第二捕手としてもう一人の選手が選出される。
「更に内野陣」
スタメン出場できるのは東條小次郎、ベンチ入り出来るのは関疾風。強打堅守を誇る東條が、三塁手で選ばれるのは道理である。遊撃手にコンバートして、経験の浅い疾風がいきなりレギュラーで実践を行うのは難しい。しかし、広角に打ち分けることの出来るバッティング技術、チャンスや逆境の場面での打力、出塁してしまえば次の塁を積極的に狙える俊足、第三捕手として出場する緊急事態の想定。その柔軟な対応力が買われ、疾風がベンチ入りすることは出来た。
「最後に外野陣」
監督がそう告げると、外野陣に緊張が走った。既に自分たちのポジション以外の選手たちが、結果を出ている。肩をガッカリと落としている人間、安堵している人間。反応は様々だった。レギュラーが発表され、粘り強く勝負強い打撃が売りの猛田が選ばれた。結果的に、二年の中でも有望株の選手が、初めてベンチ入りした形となる。うち、レギュラーは疾風を除いた四名だった。
ベンチ入りに選ばれなかった選手たちは、サポートに回る。それとは逆に、ベンチ入りに選ばれた選手はチームを勝利へと導くため、選ばれなかった選手の無念を背負って強くならなければならなかった。
「流石に即レギュラーって話は、虫が良すぎたかな?」
疾風が不敵に笑いを浮かべながら呟く。
遊撃手にコンバートしたそのときから、もう半年が経過している。是が非でも結果を残してやる、その一心で過ごした時間。
ひたすら試合出場をすることを求め、ただ己を磨き続けてきた。
その目標をめざし、前へひたすら進んでいく。思い通りに進まない、壁は高ければ高いほど燃える。疾風がニヤリと笑う。
不意に後ろから肩を叩かれる。「何だ?」と疾風が反応して振り向く。
「なんで笑っているのよ、関」
一人笑っていた疾風を呆れた顔で見て、呆れた声色で橘は言った。
彼女の右手はグローブをしていて、投球する準備が出来ていた。
「ベンチ入りメンバーの打撃調整をするから、あんたも準備して」
それだけ言って、橘はマウンドへ向かっている。入れ替わりに、監督が練習を見渡せる位置、ネクストバッターズサークルに入ってくる。
「橘、分かった」同意した疾風が頷きながら答えた。
もう既に大会に向けた戦いは始まっている。ともすれば、気を引き締めなければならなかった。彼を戦力の一人として、橘も見てくれている。
「橘」
「何よ」と、橘は言った。
「今後、僕のことは疾風と呼んでくれ」
「香澄さんがいるから?」
「それもあるけど……。信頼している以上、そうしただけだ」
「分かったわ」
その事を了承する橘。さっさと準備しなさい、と疾風に伝える。
バッティング投手として、橘がマウンドへ向かった。打者にとって、打ちやすいボールを投げるために肩を作る。
自分もその期待に応えるか、疾風の心は決意で固めていた。彼の表情が変化しているのは見られないが、バットを強く握りしめている。無意識に気合を入れている最中、猛田が顔を合わせた。
「気合入っているな」と、猛田は言った。「負けられねえもんな」
「そういうこと。まだチャンスはあるからね」
そう言って表情を変えずに、疾風は大きく深呼吸した。
監督から課題を与えられる。右打ちを意識した進塁打の課題だった。ケースバイケースで、この戦術は限られた場面でしか使用できない。しかし、あるのと無いのとでは、戦略の幅に選択肢が持てる。監督はそう考え、この課題を提示した。
「次、猛田!」
次々に、レギュラー陣が右打ちを放っている。本来であれば、彼もその打球を放つはずだった。絶好球と判断し、フルスイングをしたが結果は空振り。ボールは捕手のミットの中に納まった。
今に限らず、フルスイングする傾向にある。先程のスイングで確証が取れた監督は指摘した。だが、猛田はそれに対して反発する。フルスイングをして長打やホームランを量産することが自分の信念であり、今後もこのスタイルを貫き通すことを告げる。当然、監督はそんなことを認めるはずが無く、「やりたければ、バッティングセンターに行け」と突っぱねた。ロッカールームで頭を冷やせ、と一言告げて次の選手に順番を回す。
「アイツは何をやっているんだ」既に打ち終えた東條が呆れて言う。
「同じ考えだね。でも、慶次の気持ちも分かるけど」
東條に同意しつつも、猛田に対する心境に理解を示しながら疾風が言う。
「だからと言って、練習を破るのはならない」
二人が振り返った先に六道がいる。彼女も至って冷静な判断を下していた。
「僕がアイツを説得して来る」
競争相手に拘りすぎて周囲が見えなくなる。今の猛田は、捕手時代の自身と似たような心境だから、説得できる適任は自分だと判断していた。監督に許可を貰った後、疾風は一目散にロッカールームへ向かう。
自分がこんなことをするなんてね。疾風は自分自身に対して考える。昔だったら、アイツが自力で立ち上がるのを待っている。そう確信していた。
昔の自分――特に捕手時代だった自分を思い出しながら向かっていた。練習場からロッカールームまで、かかる時間はさほど必要とはしない。しかし、道中の自動販売機に立ち寄って、時間を調整していた。
ロッカールームに到着した疾風が一番初めに見た光景は、タオルで目を隠しながら天を仰いでいる猛田。彼の目は涙こそ流れていないが、情けない自分を攻めていた。
「慶次、お疲れ」
疾風が自動販売機買った、お茶を彼の隣に置いた。「疾風か」と一言言いながら猛田はタオルを取り、疾風と目を合わせた。
「カッコ悪いとこ、見せちまったな。我ながら情けねえ」
乾いた笑いを浮かべる猛田。最初に与えられた練習を行わず、それを無視して独断専行した結果、一人ロッカールームへ行った。
気にするな、と疾風が冷静に言う。自分が目標とするスタイルを持つのは良いことであり、更なる高みを目指すのは問題では無い。しかし、チームの方針を無視してまで、それを貫き通そうとする姿勢はどこから来ているのか。疑問に思っていたので、疾風がちょうどいい機会と判断してぶつけた。
猛田が超えたいといつも思っている選手。その選手は、ボールを見極める選球眼は勿論のこと、しっかりと狙い球を絞ってスタンドまで運べるパワーが一流。彼と同じスタイルで、正々堂々と戦って勝ちたいと言う一心だった。
「重々分かっているつもりだけど、それは東條のことだよね?」
疾風が確認するように問うと、猛田が肯定するように頷いた。
かつての自分と同じだな。猛田が抱く東條へのコンプレックス。それは自分が六道に抱いていた、コンプレックスそのものと同じだと。コンバートする前の捕手時代、自分も六道聖に対して、何をするにしてもライバル心や対抗心を抱いていた。その結果、自分の未熟さは勿論のこと、チームに迷惑をかけていた独りよがりだったことを唐突に思い出してしまう。苦い経験であるので、本人にとっては思い出したくない出来事。
「きついこと言うけど、今のお前を起用したくないよ。僕が監督なら、ね」
「疾風。お前の挫折した分まで、親友として何とかしてやりたかったのによ……」
「親友として、何とかしたいならば。別のスタイルで、アイツと勝負してよ。どっちがよりチームに貢献できるか、ね」
疾風が提案し、彼の意図が読めない猛田は目を丸くした。
もしも東條と同じスタイルで戦い、それに勝ったとしても、それはお前の自己満足に過ぎないと疾風は親身に伝える。それに、野球はチームという単位で行うスポーツ。一人のために戦うんじゃない。壁を乗り越えても、チームが勝たないとただの飾りにすぎない。
猛田はハッとなり、自分自身が抱いてコンプレックスに対して鼻で笑う様になった。
自分の抱いていた考えがいかに浅はかであり、チームの皆に迷惑をかけていたのか。自分には自分しか無い武器が、必ず存在しているはずだ。その見つけた武器で、チームで戦うのが本当にやるべきことである。
「疾風……。気が楽になったぜ、サンキュー」
「迷った時は互い様。それに迷った姿を見せるなんて、慶次らしくないよ」
そう言うと、猛田の顔色に覇気が戻ってきた。グラウンドへ戻り、先程と同じ練習を再開する。彼の打撃センスを一目見て、ごく一部の選手と監督が驚いた。もしかすると、自分で気付いていないだけで、天性のセンスさえ感じさせる、そんな内容だった。
Ⅱ
猛田に意識の変化が起きて、数日が経過する。大会に向けた練習は、更に激しさを増していた。しかし、そんな激しい練習があっても無くても疾風には関係ない。自分の課した自主練習だけは欠かさずに行っていた。大学の講義が午後のみだった日、練習やアルバイトが無い日など、時間が許す範囲でただひたすら野球の練習をして、己を磨き続けた。
納得のいく動きが出来ない。そう判断した疾風が珍しく早めに練習を切り上げる。調子が悪いのに続け、更に調子を崩すことを嫌っていたから。
「うむ……うむ!」
疾風がロッカールームに戻ると、六道が一人で笑っていた。
「どうしたの、六道?」
そんな彼女に、真顔で聞く疾風。内心では彼女に対する行動を不思議に思っていた。
「関! これを見るのだ」
嬉しそうな顔――満面な表情で六道が免許証を見せつけた。彼女が大学の講義、野球部の練習、アルバイトなど、時間の合間を見つけて取った運転免許証。彼女の努力の結晶が表れていた。
「免許証か、おめでとう。教習所の講義と実習、お疲れ」
疾風がユニフォームを脱ぎながら、淡々と言う。労わりの言葉を六道にかける。
彼女は免許を取る費用、部費、講義のための教材費など、金銭的に厳しい中でやりとりをしているため、車は所持していない。しかし、早く運転したくてウズウズしていた。
「僕たちは学生だから、車までは難しいよね」苦笑いを浮かべながら、疾風が言う。
すると、六道は何かを閃いた顔をするや否や「レンタカーと言う手段があるのではないか?」という提案をしてきた。六道の提案に疾風は目を閉じ、腕を組みながら考える。何かとアナログな発想をしている六道。そんな彼女が、安全に車を運転できるのか心配であった。
しばらく考えた疾風が一言。良いよ、と六道に伝える。嬉しそうな表情を浮かべ、早速レンタカー店に行って、予約しようと意気込んでいた。六道の興奮を抑える様に、疾風が冷静に「夜中と言う遅い時間帯で、営業時間はとっくに過ぎている。レンタカー店はやってない」と言った。
それにハッとした表情になり、目を丸くしながら、恥ずかしさで頬を赤らめる六道。ちょうど、自分自身も買いたい道具があったため、利害が一致。軽い気持ちで、疾風は六道の誘いに乗る。講義と練習の合間に開いた時間を使い、疾風と六道は共にレンタカー店に出向く計画を立てる。その時の彼女の嬉しそうな顔を見て、少しだけ胸が疼き、二つの疑問を感じる。
何故、自分を誘ったのか? 何故、この感情を抱くのか? その答えは絶対に見つける。どんな結果が待っていようとも。
レンタカーを予約し、出かける当日を迎える。パワフル大学の近くにある公園で、疾風は六道と待ち合わせしていた。六道を待っている間に、これまでのことを思い出す。
始めて対戦した時は高校三年の夏、高校球児であれば誰しもが志す甲子園。
もしも、野球をプレーしていなければ、自分たちは出会わず、大学でも付き合いは無かったはず。今となっては、自分が遊撃手にコンバートして、グラウンドに立っている。人生は何があるか分かったものではない、と結論付けた。
「関」
約束よりも十分速いころ。六道の声が聞こえ、疾風が振り返る。六道の姿に、疾風は惹かれていった。派手さを感じられない格好、か弱く見えつつも慎ましく、清らかな凛とした雰囲気。野球の時の姿――捕手として要となり、チームを引っ張っていく力強さと勇ましい姿を思い出す。その二つの姿を見て、彼女は「大和撫子」という一言に尽きた。
「どうしたのだ?」
疑問に思った六道が、疾風に率直に聞く。
「いや、何でもない。早く用事を済ませよう」
普段の疾風は、そこまで服装にはこだわってはいない。強いて言えば、動きやすいラフな格好を好んでいると言える。今日だって、ワインレッドのタンクトップ、ショート丈の青のジャケット、黒のスラックス。お洒落とは、ほど遠く感じられる格好。そんな自分が六道と並んで歩くことに違和感を少なからず覚えた。
レンタカー店に行くと、六道は車に関しては疎いことが判明する。ペーパードライバーにも優しい車を理解せず、外見だけで選ぼうとしたことに不安を覚えた。疾風がすかさず六道を止める。店員に頼み、ペーパードライバーでも運転しやすい車を選ぶ。彼女と同様にペーパードライバーだが、疾風も免許を持っている。最悪、自分が運転すれば良いと考えていた。
車のレンタルを終え、六道が運転席、疾風が助手席に座った。店員も彼女が運転したいという意向を、本人の口から聞いていたので、とりわけ変な顔をすることは無かった。
「捕手の練習、どうなっている?」
しばらく沈黙を極めていたが、先に破ったのは疾風からだった。日常的な質問、野球部の練習、アルバイトなどの話題を考えたが、真っ先に思いついた野球の話を、六道に振ったのだ。
疾風に気を使って、六道が触れなかった話題に戸惑った。傷つけないように、解答しようと言葉を選ぶために思考を張り巡らせる。しかし、元捕手であった疾風にはすぐに見抜かれた。
「僕に気を使わなくて良い」と、疾風が言った。「ただ内野手の目で、純粋にそれが知りたいだけ」
捕手としての観点では無く、遊撃手としての観点。遠い場所から見つめ、新しい発見を求めている。六道の口から聞きたい疑問、自分も解決したい問題。隣にいる六道は、黙って頷いた。彼が聞き出した理由が分かったから。
「みずきは相変わらずだ。お前の姉――香澄さんも練習とはいえ、マウンドを譲らない意思を示してくる」
――投手がワガママになる、決め球に絶対の自信を持つ。これらも大事なことだが、絶対にマウンドを譲らない意思の強さ、これがもっとも重要なことだった。強い意志があるほど、度胸があるほど投手は良い。投手二人には、それが備わっていた。自分が捕手を辞めてから、全く知らなかった投手事情や姉の事情を知り、大げさに「なるほどな」と疾風が頷いた。
「遊撃手としての練習はどうだ?」
今度は六道が疾風に質問する。自分の意思でコンバートを決め、全体練習ではボロボロだった姿を彼女もよく知っている。時々、疾風のレベルアップのために共に練習を行っていた。長い時間が経過しているが、それでも彼の性格からして、捕手に拘りを捨てきれてない懸念が六道からは消えていない。
疾風が大きく深呼吸し、気持ちを整える。
「その時その時で全力を尽くす。このことだけ考えている」と、短く答えた。
いつも思っていることだった。初めての経験であり、分からないことだらけ。学ぶことばかりではあるが、選手としての力量を高めることだけに専念している。正直、それだけで一杯一杯だった。
だからこそ、この様な短い回答だった。一度でも前へ歩み出した人間が、無傷ではいられない。他人を傷つけ、自分自身も傷ついて、それでも前へ進んで進化していく。
「そうか、野暮なことを聞いてしまったかもしれない」
「気にしないで良いよ」と、疾風は言った。「僕の話よりも、気になるんだけどさ。今はどこに向かっているの? 走っている場所って、明らかに国道じゃないよね?」
走っている景色を見ながら、乾いた笑いを浮かべた疾風。最悪の事態が脳裏に過ぎりつつも、六道に恐る恐る質問をぶつけた。
「聞こえる声にしたがって、運転しているだけだぞ」
真顔で返答する六道。そのようなことを聞く理由があるのか。彼女の態度は、そう訴えんばかりだった。それを聞いた疾風が絶句し、長く沈黙する。ここまで機械に疎いアナログなのか、と。場所を見てみると、当初いた場所よりも遠くにいた。帰る時間帯には、夕方になっているに違いない。
周囲を見渡し、目に入ったスポーツ店に指差した。
「六道、あそこに停まろう」
それに六道が「分かった」と頷く。
彼女もまた買いたい道具があったので、止まることにした。この隙に、カーナビの設定をし直す。奇跡的にタイミングが合致した。
店に入ると、六道の愛用している道具――ハンドグラブが格安の価格で売られ、彼女が目を輝かせる。遠くから見た光景は、欲しいおもちゃを見て目を輝かせる子供の様な姿だった。何も迷いなく、商品に手をかける。
肩を竦めつつ、ふざけたような口調で疾風が言った。
「ハハ、そこまで喜ぶものか」
疾風の独り言を聞いて、六道が更にハンドグラブについて説明をした。
ハンドグラブは、素手で捕球する感覚を養うための道具。グラブとしての役割を果たしつつも、素手の芯の部分で捕球するに適している。六道の口からは、使い方まで事細かく説明されてしまった。
「つまり、グラブでありながら、素手の練習にも使えると」
そういうことだな、と六道は微笑んだ。
「お前は何を買うのだ?」と、そのまま聞いてきた。
「快速アンクルだ」と疾風は手に取った物を示しながら、六道に言った。
「走力を鍛えるのだな」
自分の長所をさらに伸ばそうとする疾風に感心しながら、六道は言った。
「ああ、そういうこと」と、疾風が淡々と六道に返答した。「じゃあ、会計に行こうか」
六道は、「うむ」と短く応える。
傍から見れば、野球好きの二人が買い物デートしている構図。そのことに、疾風は感づいている。一緒にいて、楽しいとも思える時間。このまま過ぎてしまうのは、惜しいと思えた。誰にも干渉はされない上に、誰にも情報が洩れていない。理由は彼自身でも分からんかったが、優越感が支配していた。
なにげないやり取りで分かって来たこと。自分は少なくとも、六道聖を嫌な女とは見ていない。もしかしたら――好意さえ向けているんじゃないか。何度考えても、そう結論付けられてしまう。これが恋愛ってものなのか? 初めて経験することに、自分自身が戸惑っていた。
「関、何している? 戻るぞ」
六道に声をかけられ、ハッとなる疾風が一言。「悪い、すぐに戻る」
この後、ドライブを満喫しながら、車内で会話が続いた。くだらない日常の話、野球トークで盛り上がる。嬉しそうに語る六道の顔、呆れた様な顔で喋る六道。色々と焼きついていた。途中で夜景を見たり、共に食事を取ったりもする。彼女と一日を共にしたが、疾風の心は満足していた。レンタカーを店に返し、別れの時間がやってきた。
「関、今日は世話になったぞ」
「ん、それは僕も同じだよ。それよりも」疾風が一呼吸置く。
「それよりも、今後は疾風と呼んでくれないか?」
「分かったぞ」六道は、黙って頷いた。
「じゃあね、六道」背を向けながら、疾風が言う。
「お休みなさいだぞ、疾風」
頬が熱くなる感覚を、疾風は覚えた。今の状態を真正面から見られてしまえば、六道に悟られてしまう。後ろを向きながらではあるが、手を挙げて反応を示した。
今日一日でハッキリと分かった。自分は六道聖には異性として、確実に意識をしているのだと。