12月はじめのある朝のこと。
天気がよく晴れていて気分よく執務室に出勤した俺は、秘書の加賀から今日届いた手紙を受け取って中身を読んだ。次に俺は今艦娘たちの今日1日の休暇を決定した。
それから誰も部屋に来ないように言い、加賀にも出ていってもらってひとりっきりになる。
届いた手紙は、小学校の頃から仲のよかった幼馴染の女の子で俺が片思いをしていた人からのものだ。
俺が男だからだろうか、高校から進路のために一緒にいれなくなり、未練がましいほど彼女のことを考えることが多かった。時折、手紙や電話でのやりとりはあったけどそれは幼馴染としての扱い。男として見てもらえたことは1度もなかった。
その幼馴染の子が、過去の話からはじまって手紙の後半あたりに『結婚式に出席して』なんて書いてあるのを見てしまったから今日は何があっても気分よくなれないだろう。
あいつも俺もお互い29歳。結婚するのも当たり前と世間一般では思われる年齢だ。
でもこっちは海軍の提督だというのに、恋愛のカケラさえもない。……もっとも幼馴染のことしか考えれなくて他の女性の人を見る余裕なんてなかったんだが。
ひたすら過去のことを思い出しながら落ち込んでいたが、2時間ほど経ってから執務机に向かい、手紙の返事を書くことを決意する。
意識を切り替え、机の引き出しから新しい手紙を出したときに変な視線を感じた。
執務机がある位置は、大きな長方形の窓に背を向けるように配置している。そこからは太陽の光がよく入ってくるのがお気に入りだ。
その窓が問題だ。
窓の外から人影のようなものが、俺の後ろから執務机に影を落としている。
5階建ての建物でここは4階。そんな高さに人がいるのだろうか? 今日は掃除があると聞いてもいない。
落ち込んだ気分のまま幽霊か人かわからない怖さで、急速に心が冷えるのを感じながらゆっくりと振り向く。
そこには足首に紐を結んだ翔鶴がいつからそうしていたのか、逆さづりの状態でいた。
彼女は胸当てを外した白の弓道衣を身につけ、袴風の短い赤のスカートをはいていた。そして両手でその短いスカートを押さえてパンツが見えないようにしている。
18歳ぐらいの大人びた綺麗な顔は、恥ずかしさのためか赤くなっていて困惑気味な表情で俺から目をそらしている。
そしてもっとも目についたのが普段つけている紅色のはちまきを外した銀髪だ。
腰あたりまである長い髪は、逆さづりだと視界いっぱいに広がって怖く見える。けれども太陽の光で輝く髪はそよ風にあてられて幻想的に見える。海外小説で出てくる妖精を連想するぐらいに。普通は逆さづりの美少女なんて目にすることがないから、非現実的な光景でも美しく見えた。
そして、窓越しに彼女を見ている俺はどう行動をとればいいか悩んでいると、窓の外から瑞鶴と葛城の声が小さく聞こえてくる。
窓をそっと開けながら、逆さづりになっている翔鶴の肩を優しく掴んでぶつからないようにする。そうしてから窓を全開に開け、身を乗り出して上を見る。
そこには屋上から翔鶴の足首に結んだ紐を力いっぱい持っている瑞鶴と目があった。
危ないことをしていることに怒るか、何をしているのか。どっちを聞くかに悩んでいると逆さになっている翔鶴が俺の首へ手を回し、態勢を立て直してしっかりと抱きついてくる。
そのとき、スカートから手が離れてパンツが見えてしまったことを翔鶴に黙ったまま、抱きつかれる。
すぐ目の前にある翔鶴の髪からはシャンプーのいい香りがし、一瞬頭がくらくらするが気合を入れて意識を取り戻す。身を乗り出していてバランスが悪い俺は手足に必死に力を入れ、抱きついてくる翔鶴の重さに耐えた。
「重い」
「もう、女の子になんてことをいうんですか」
ちょっとだけ怒って言う翔鶴は、俺の頭をぱしぱしと軽く叩いてくる。
無言で叩かれるのに耐えながら、態勢が悪いまま翔鶴を執務室の中へ勢いよく連れ込んだ。その時に俺は倒れてしまい、板張りの床へ強く体を打ちつける。
倒れてから体が軽いことに気付き、慌てて立ち上がって翔鶴を探すと彼女は俺のすぐそばで怪我した様子もなく、座って足首につけている紐を外しているところだった。
「翔鶴?」
「少し待ってくださいね」
そう言うと紐を窓の外に投げ、上にいる瑞鶴に向かって声をかける。すると紐はまたたくまに素早く回収されていく。
紐が回収されたのを確認すると、俺と2人きりで邪魔されずに会話がしたいのか、翔鶴は窓を閉めたあと、早足で歩いては執務室の扉の鍵を閉めた。
そうしてから意気揚々と気分よく俺の前にやってきた。
身長182cmの俺に対して翔鶴は160cmあたり。そのために翔鶴は俺を見上げるが、そのときに微笑みをくれたのが可愛く見える。
翔鶴の可愛さに緊張して、一瞬だけ目をそらして心を整えた。
「あー、聞いていいか?」
「はい、提督のためならスリーサイズから日々の食生活までなんでもお答えします」
「なんで逆さづり?」
翔鶴のウキウキ声な質問を無視し、聞きたかったことを直球で聞く。翔鶴は笑顔のまま、俺からそっと目をそらした。
目をそらされても無言で視線による圧力をかけると、ごまかせないと判断した翔鶴は溜息をつく。
「あのですね、提督が執務室にこもったのが心配ですから。こっそり様子を見ようとして」
「わざわざ危ないことをしなくていいと思うんだが」
「それはですね、加賀さんから聞いたんです。女性から来た手紙で提督が深刻な顔をしてたって。執務室に引きこもったと聞いて、すごく心配したんですよ?
でも部屋に入れないので外からこっそり見ようと思いまして」
それで逆さづりという危ないことをするとは。自然と深いため息が出てしまう。
翔鶴はおしとやかで大和撫子のような穏やかな雰囲気を持っているが、嫉妬深いのを俺は知っている。
どういうわけか俺に惚れていて、ことあるごとに弁当を作ってきたりいちゃいちゃしてこようとする。
今回のも女性からの手紙が来て、俺が人払いをして2時間も執務室にこもってかなり不満だったと考える。
翔鶴を怒鳴って文句を言うだけなら簡単だが、それで終わらすと後々翔鶴に長いあいだ恨みごとを言われるはめになる。それは遠慮したいので考える時間を得るために、まず翔鶴の手を引っ張って強引に椅子へ座らせる。そうしてから執務机から翔鶴専用に買った高級品のクシで、翔鶴の後ろから乱れた銀髪を整える。
12月という寒い時期の今、外にいた翔鶴の銀髪は冷えていて、部屋で暖まっていた俺の手にはそれがとても気持ちいい。
無心で髪にクシを通していると、翔鶴が執務机の上に広げていた手紙を手に取っていた。
それに気付くと俺はすぐに翔鶴の肩越しに手を伸ばして手紙を奪おうとするが、手紙を遠ざけてしまう。
俺に対して従順な翔鶴が積極的に抵抗をしている。いつもは素直すぎるのが問題だったが、この瞬間だけは素直でいて欲しかった。
ブラシを置き、翔鶴の横に回り込んで取ろうとするも、立ち上がった翔鶴は手紙を読みながら俺から離れる。
手紙と俺の顔を交互に見ては難しい顔になったり笑顔になったりと忙しい翔鶴に飛びかかるも、優雅に髪をなびかせながら華麗にかわされた。
それから1分ほど狭い執務室のなかで追いかけっこがはじまったが、鍛えている翔鶴と運動不足気味な俺とでは勝負は明らかだった。
結局、最後まで手紙を読んでから翔鶴は手紙を返してくれた。
「幼馴染さんのご結婚、よいことですね」
明るく言うその言葉に俺の心は落ち込む。
普通ならそれが正しいが、昔好きだった人が結婚となると落ち込む。
そんなに好きならデートに誘うとか積極的に会えばいいと言う人がいるが、大人になってくると若い頃のような付き合いはできない。失敗してもいいやという前向きな行動ができなくなる。
手紙の返事を素直におめでとうって書こうと後ろ向きな決心をしたとき、鍵がかかった扉越しに瑞鶴の声と扉を乱暴に叩く音が聞こえる。
「提督さん、入るわよ……ってあれ? ちょ、鍵かかってるんだけど! 翔鶴姉、翔鶴姉は無事!?」
鍵がかかった扉のドアノブをガチャガチャと激しく回す瑞鶴に、俺は元気だなと苦笑しながら扉を開けようと近づく。
「こうなったら仕方ない。葛城、艤装取りに行くわよ!」
俺が扉を開ける前に物騒なことを言い、2人分の走る足音が遠ざかっていく。
すぐに鍵を外してドアを開けたときには、階段を降りていく後ろ姿がちらりと見えただけだった。
これから面倒なことが起きる予感がし、潔白を証明するためにドアを全開にしておく。こうしておけば、誤解もすぐにとけるだろう。冬の空気が寒いのは我慢する。
廊下から執務室へ戻ると、執務机に向かってボールペンを持った翔鶴が手紙を書いていた。
今日はやたらと行動的すぎる翔鶴に頭が痛くなり、ゆっくりと近づいて驚かさないように後ろから覗き込む。
書き終わるまで待った手紙の文章は、可愛らしい丸文字で『あなたの幼馴染も部下である艦娘ともうすぐ結婚します』という内容で最後に『翔鶴』という名前がしっかりと入っていた。
いつのまにか俺の結婚予定が決まってしまっていることに頭が痛くなる。結婚はまだする気はないっていうのに。
「なぁ翔鶴、そんなに俺が好き?」
「はい、結婚して墓場まで一緒に行きたいほどに」
俺の問いを元気よく返答したのを聞き、言葉が大胆だけど好かれるのも悪くはないと思う。
でも俺は、恋愛という意味では翔鶴は好きじゃない。
そもそも翔鶴が結婚したいほどに好きな理由は不明だ。
俺は愛想はよくないし、私生活では翔鶴と関わりは全くない。演習や戦闘については優しく声をかけたり叱ったりもする。
でもそれだけだ。
仕事上の付き合いで声をかけること以上はしていない。
一緒に食堂で飯を食ったこともなく、2人でのんびりとする会話もなかった。
「そんなに自分自身に疑問をお持ちですか?」
「俺はお前に好かれるようなことをしたことなんて―――」
そう言いかけていると翔鶴はボールペンを置いて立ち上がり、自分が入ってきた窓を思い切り開ける。
冷たい冬の風と共に入ってくる風は、翔鶴の銀髪をなびかせた。
「覚えていませんか?」
俺は窓の外を穏やかな顔で見続ける翔鶴の横に並び、小さい唸り声をあげながら昔の事を思い出そうとする。けれどやっぱり好かれるようなことをした記憶がない。
答えが出ないまま、翔鶴の横顔を見る。
その表情は俺が答えを出すのを信頼して待っているかのように微笑んでいた。
じっと見ていると、風でなびく美しい銀髪を見ていて思い出す。
初めて会った時にたった1度だけ翔鶴のさらさらとした銀髪にさわったことがある。その時に言った言葉が『宝石のようにキラキラ輝いているな』という恥ずかしいことを言った覚えが。
でもそんな言葉だけで好きになるのだろうか?
俺が戸惑う空気に気付いたのか翔鶴が口を開く。
「さきほど、提督が髪を梳いてくださったときのことです。初めて会ったあの時も、優しくて暖かみのある笑顔で髪を褒めてくださいました。私はその表情に恋をしました。次に提督を目で追い、声を聞きました。好きになりました」
風で流される髪をかきあげた翔鶴は一度俺に目を合わせてくれたあと、顔を少し赤くしてうつむく。
それを見た俺は今まで感じたことがないときめきを覚える。その途端、急に翔鶴の良い香り、すべすべとした肌、太陽の光にあたって輝く銀髪がとても愛おしく思えてしまう。
「私を褒めてくださったのはその1度しかありません。普通に考えるとそれだけで恋をするなんておかしいと思うかもしれませんが、恋とは頭ではなく心でするものですから」
嬉しそうにはにかむ翔鶴の顔を見るには、今の俺にとってかなり恥ずかしくて顔をそらしてしまう。
今日までの俺は、過去の恋愛を頭でずっと考えていた。
今日、恋をしていた幼馴染の結婚報告を受けて変わるべきかもしれない。いつまでも思い出に引きずられていくのは精神の成長も抑えてしまう。
今ままで意図的に抑えていた艦娘たちとの交流を深めてもいいと思ってくる。
過去の女性を想うあまりに今を生きている女性を遠ざけるのはやっぱり少しはおかしいと気付く。
少しのあいだ翔鶴と静かに見つめあっていると、走ってくる足音が聞こえて瑞鶴がやってくる。
今までの考え方を改め、艦娘と積極的に触れ合おうという考えのもとに艤装装備の瑞鶴に腕を広げて抱きつこうとするが、嫉妬した翔鶴に後ろから押し倒されて床に頭を強くぶつけてしまった。
こうして今日の出来事がきっかけで、より一層艦娘たちと友好関係を結び始めた俺。翔鶴とも以前よりだいぶ仲良く話したり一緒にいるようになった。
時々本物の結婚書類を持ってきたりして怖いときもあるけど、頭で考えすぎないことを翔鶴に教えてもらったことで、より楽しい生活を送れるようになったのは感謝している。
ただ、翔鶴は心で動きすぎているのを控えて欲しい。近い将来、気付いたら結婚していそうで危ないから。
それとだ。もしものことだが結婚したときのことに備えて、いままでうまく書けたことがなかった『翔鶴』の文字を達筆と言われるぐらいに書けるようにしたい。
だって妻の名前が書けないのは恥ずかしいだろう?
優しくおしとやかな子が、すごい元気に。