秋の早朝、朝の5時過ぎにまだ日が出てもいない鎮守府の片隅にある砂浜。
そんな海の風が吹いて寒いところに俺と時雨はやってきている。
提督である俺は冬用の紺色軍服ひとつを着て、寒さに震えながら膝を抱えて砂浜に座っては暗い海を眺めている。
海はおだやかだが、日も出ていないために結構寒い。
聞こえてくる音は、近くの工場から聞こえる溶接音や作業音。けれど、それは日中よりも静かだ。
空には雲が多く、星空もよく見えないなか、隣には時雨が支給されている制服だけを着て、俺の隣に座っては楽しげに鼻歌を歌いながら太陽が出るのを待っている。
時雨は俺の体が寒さで震えているのを見て、砂浜に来てからすぐに左腕に抱きついてきているがやはり寒い。
……わざわざこんな時間に来ているのには理由がある。
昨日の戦闘で時雨が優秀な戦闘と指揮をやっててくれたおかげで味方に大きな損害もなく、敵も撃破できた。
あまりの戦果にはしゃいだ俺は、時雨になんでもご褒美をあげると言ってしまったのが問題だった。
あの時の時雨は、頬に人差し指を当てて少し悩んだあと、謎の微笑みを見せてくれてからいなくなった。
ああ、まったく。いくらなんでもなんであんなおかしなことを言ったんだ。おかげで男の一人暮らしの部屋にまで時雨が押し掛けてきて、ここまで連れてこられた。30にも近くなると朝が辛いってのに。
『海を見にいこうよ』
そんなことをおさげの髪を揺らし、明るい声と笑顔でそう言われては行くしかない。可愛い時雨のためだ。
そして連れてこられて十数分。
俺は暗い世界と冷たい海風に耐えながら時間が過ぎて行くのを待っている。
時雨がこんな朝早く海を見たいというからには朝焼けが見たいんだろう。だから、あともうちょっとの辛抱だ。
膝に顔を埋めて太陽が出るのを待っていると時雨にツンツンと不意に頬をつつかれる。
寒さにちょっとだけ震えながら時雨へと顔を向けると、時雨は海に指を差している。
その方向を見ると、ちょうど海からは太陽の光が見えて太陽が昇ってくるところだ。
暗い海の水平線から、ゆっくりと出てくる太陽。
空にあった多くの暗い雲が段々と、オレンジ色の光に照らされていく。
そうして世界は明るくなった。
目に入る何もかもがオレンジ色の光に照らされる。普段見ることのないその景色。
太陽、雲、空の輝き、まばゆい光を反射する海。
それらすべてでひとつの世界ができあがっていく。
朝焼けという美しくあり儚い世界が。
俺と時雨は一緒に言葉が声にならない、静かな驚きの声をあげていた。
お互いまったく動きもせず、ただただ空と海の鮮やかな色に吸い込まれていた。
けれど、それも短い時間。
10分も過ぎるとその空は鮮やかな青となっていき、海は深い青の色へ。
幻想的だった世界は見慣れた光景へと変わっていた。
「……綺麗だったな」
「そうだね」
余韻を楽しみながら時雨に感想を言うと、満足したような表情で返事を返してくれる。
感動の余韻も少しずつ終わり、体が痛いほどの寒さを思い出させてくる。
眠いままで朝早くから連れられてきたときは恨んだものだが、こう綺麗なものを見ると今なら何でも許せそうになる。
立ち上がって帰ろうとすると、左腕に抱きついていた時雨が体重をかけて立ち上がらせないようにしてくる。
疑問に思って時雨を見ると彼女はまだ海を見たままだ。
どうやら時雨のお願いはまだ終わってない。俺は朝焼けを見ることだと思ったんだが。
溜息をつき、座りなおしては太陽の光を浴びることに意識を集中する。
「せっかくのご褒美なんだから、うまいものが食いたいとか休暇が欲しいっていうのでも良かったのに」
「食堂の食事は充分おいしいから満足してるよ。それと休暇を取っても提督がそばにいないのはさびしいことだと僕は思うんだ」
寒いなか小さく口を動かしてつぶやくように言うと、はっきりとした返事を返してくれる。
愚痴のような言葉に、時雨の返事がこっちが恥ずかしくなることを言われて考える。
だったら時雨が欲しいものとはなんなのか。
ちらりと時雨を見ると、太陽が出始めた海をまっすぐに見続けている。
「それじゃ教えてくれよ。時雨の幸せを満たすものは何をあげればよかったんだ?
「提督。誰かにもらった物では幸せは満たされないよ。自分で手に入れてこそ満たすものなんだ」
俺へと振り向き、にやりと意地悪な笑みを浮かべてくる。
その表情を見てから、妙に大人ぶっている時雨に対して、空いている右手を伸ばして髪をガシガシと力強く撫まわする。
乱暴な触り方に、時雨は苦笑してされるがままになっている。
そのまま、10秒ほど撫でてから時雨が飽きるまで付き合う決心を固め、砂浜に倒れる。すると、腕に抱きついてきた時雨も一緒に倒れてきた。
強引に倒された時雨は俺の脇腹を軽く肘でつついただけで、それからは一緒に雲の隙間から見えている、青くなっていく空を眺めていた。
服が汚れるのも構わず、何も考えずにぼぅっと潮風とさざ波の静かな音を聞いていた。
―――それからどれくらいの時間が経った頃だろうか。数分、もしくは数十分?
ふと気がつくと雲の切れ目から見えていた青空はなくなり、視界に映る空は密集した雲しか見えなくなった。
「……雨か」
「うん、通り雨だね」
さぁーと雲から水のしずくが急に降ってくる。
顔にあたるそれは冷たく、とぼぅっとしていた意識がはっきりしてくる。
体を起こし、今度こそ帰ろうと時雨に声をかけるために振り向くと、時雨はどこにしまっていたのか、青と白のドット模様の折りたたみ傘を広げては俺へさらに寄りそって傘を差してくれる。
俺の肩にコツンと時雨の頭がくっついてくる
すっかり体を預けてた時雨の暖かさを感じ、その体重を支えるために時雨とは反対側の手を砂浜に突き出し体を支える。
傘から出た腕は雨にあたって冷たさを感じるがそれよりも重要な問題が起きた。
時雨のぬくもりと髪の香り、すぐ隣から聞こえる声。
これらのせいで心臓の動悸が上がり始めた。
今まではただの妹のような存在にしか感じなかったのに、不意打ち同然なこの状態に俺は顔が赤くなりはじめてきた。
「雨が降ってきたし、帰るか?」
「いいや、提督。雨が降ってきたからこそだ。もう少しここにいようじゃないか」
「なんでだ?」
「だって雨は素敵じゃないか。ほら、耳をすましてごらんよ。さっきまで聞こえていた音が今ではすっかりと雨の音に包まれたじゃないか。それに雨の時にならではの景色だってあるんだよ」
そう言うと時雨は真上へ向けて人差し指をたてる。
人差し指が差す方向は傘だ。
じっと傘を眺めていると傘にぶつかる雨音が聞こえ、雨が傘を滑り落ちるように流れていって地面へ吸収されていく光景が目にうつる。
「雨の時にしか聞けない音、見れない光景。素敵とは思わないかい?」
「言われてみればそうだな。普段は雨なんて気にはしなくくてな」
時雨はそこで小さく笑うと、傘に向けていた人差し指を雲へと向けた。
「この季節の通り雨のことを『時雨』って言うんだって。素敵な呼び方だよね」
「それは素敵だ。お前と同じ名前が雨にもあるんだな。……あぁ、そう言われると『時雨』が好きになってくるな」
「それはよかった。雨にも良いとこがあると知ってもらえて嬉しいよ」
「ああ、『時雨』は好きだな」
「……え、ああ、うん、そっか」
「どうした?」
熱でも引き始めたのか、急に赤くなった顔をそむけてする返事の声は小さい。
体を傾けて時雨の顔を覗き込もうとすると、時雨は体ごと傾けて顔を見られまいとする。
いったい何がどうしたと不思議に思っていると時雨は俺へと傘を突き出し、受け取った瞬間には勢いよく立ちあがって両手を空に向けていっぱいに広げた。
時雨が目をつむり、雨に打たれる姿を俺はただ眺めていた。
風邪を引くから戻れ、と言おうとしたセリフを引っ込めることになったのは、時雨にみとれてしまったからだ。
雨に打たれて、美しい黒髪がしっとりと濡れる様はなんとも言えない色気をだし、服がだんだんと水を吸って体に張り付くのは艶やかさを感じる。
それはいつも見ている時雨ではない。初めて見る時雨の姿だ。
雨に打たれる姿は通り雨だったからすぐに降り終わる。
俺は傘を持ったまま立ち上がり、風邪を引く前に熱い風呂に時雨を入れてやる、という使命感を強く感じて時雨のひんやりとする手を掴む。
「帰るか」
「うん」
そう返事をしても時雨は雨が上がった空と海を眺めている。それにちょっとのあいだ付き合ったあと、まだ心残りがある時雨を連れて砂浜を後にする。
けど、もうちょっとで砂浜から鎮守府のコンクリの上へ移動できるというときに時雨を引っ張る手に力を感じて足を止める。
空はさっきまで降っていた通り雨の雲がなくなっていて、雲の隙間から日の光が差し込んでいた。
けれど時雨が目を向けている空は何もない。が、じっと見ているとうっすらと虹が見える。
宙に浮いている虹で、虹の足はどこにも見当たらないほどの弱い光の虹。それでも色が綺麗なのはやはり虹ということか。
俺と時雨は足を止めて、静かに虹を眺めていたが虹はごく短い時間で消えた。
「……夢焼けって言葉を思い出すよ」
手をつないだまま歩き出した時雨が唐突にそんなことを言う。
夢焼け?
聞いたことのない言葉だ。
少しだけその言葉の意味を考えていると、時雨は俺の前に出て手を引きながら振り返る。
「提督、今日はありがとね」
「時雨の頼みだし、ご褒美だからな」
屈託のない時雨の笑顔に照れて、顔を背けて早口で言う。
朝早く起きたのは辛かったが、時雨の綺麗な笑顔が見られたのは実によかった。
砂浜で綺麗な朝焼けも見れたし、『時雨』という雨も好きに―――。
……待て。もしかして、俺はさっき愛の告白をしてしまったのか?
雨の『時雨』のつもりが、聞き方によっては目の前にいる時雨を好きと言ったことになる?
いやいやいや。これは早合点だ。念のために時雨に聞いておこう。
「時雨。さっきの雨の『時雨』のことなんだけど」
声をかけ、そのことを聞くと時雨はまた顔を赤くしては微笑んで、声をださずに唇で形を作って俺に言ってくる。
『好きだよ』って言葉を。