10月の秋、徹夜で仕事を終えたあと、僕は執務室のソファーに毛布一枚に包まって寝ていた。
まだ26歳な若さがあるなら一晩ぐらいなら余裕で過ごせる、と思ったがさすがに秋の朝は寒くて辛かった。軍服に防寒性能を期待するんじゃなかった。
ふと、朝の静かな部屋にドアをノックする音が響く。
その音は寝ている僕の頭の中に聞こえてきた。
こんな朝早くから来るのは誰だろうと思ったが、秘書の由良がいつものようにやってきたのだろうなと考えた。
そのため目をつむったまま、体にかかっていた毛布を引っ張り上げ、すっぽりと頭まで毛布で覆う。
ノックの音を無視すると、鍵をかけていないドアがゆっくりときしむ音をたてながら開くのが聞こえる。
木の床は執務室に入ってきた誰かの足音をはっきりと伝えてきた。
コツ、コツと寝ている僕を気にしながら足音をたてないように、静かに部屋を歩いている。
その足音は僕の前を通り過ぎたり立ち止まったり。部屋の端から端まで歩いたり。
まだぼんやりとした頭に響く音が聞こえるせいで、再びの眠りにつかせてはくれない。
ちょっとずつ意識が覚醒するなか、閉めていたカーテンが勢いよく開かれた音が聞こえて毛布越しに明るい太陽の光が見える。
そして、先ほどまでとは変わって遠慮のない足音をたてて僕のすぐそばにやってくると、毛布にくるまった僕の体を静かに揺らして起こそうとしてくれる。
やわらかな手の感触と揺らされる体。
その動きがなんともいえない気持ちよさを感じる。
さすがは僕の秘書である由良だと思う。
彼女は僕が普段執務室に来てから、1日のはじまりに必ず最初に会う艦娘。
それでだいたい朝8時に執務室にやってきて仕事をはじめる。
だから、執務室で一晩を過ごした僕は朝の8時をとうに過ぎてもまだ寝ていたことになる。
「ああ、すまない由良。今起きるから」
まだ眠い頭で言葉を考えて言うと僕の体を揺らす手の動きは止まり、静かな時が来る。
そのあいだに毛布のなかにくるまっている僕は体のあちこちを伸ばすようにし―――。
「だぁれが由良だってぇ!?」
由良じゃない大きな声と乱暴に毛布を奪う行動。
寒さが体に来て、すぐに頭がクリアになって目を開く。
僕の前にいたのは摩耶だ。いつも来ている由良じゃない。
きっちりといつもの制服を着た彼女は、顔に怒りの笑みを浮かべている。
慌てて壁にかけてある時計を見る。
時間は午前7時。
由良が来る時間には早すぎる。
でも、摩耶が朝に来るのは初めてだから間違えるのも仕方がないと思うんだ。
「あー、悪い。いつも朝に会うのは由良だったから」
言い訳をするかのように小声で言うと、何かに気付いたかのように視線を宙に浮かべ思案を始めた。
が、すぐにそれも終わったのか摩耶は毛布を部屋の隅へと投げ捨て、早足でドアにいってカギを閉めた。
それからソファに倒れている僕の腹にまたがり、胸に強く手を押し付けてきて摩耶は僕へと馬乗りの姿勢になった。
「……摩耶、苦しい」
「おい提督。朝はいつも由良の奴が来てんのか?」
「まぁ秘書だからね。それで用事はなんだい?」
「秘書か、秘書だと早く来れるのか。ふぅーん」
摩耶は僕の問いを無視し、何かに対して怒りを覚えているようだが起きてすぐに怒られる僕の身にもなって欲しいものだ。
「秘書にするなら由良が一番か?」
「もちろん。それに恋人にしたいほど素敵だよ、由良は」
物静かだし長い髪は綺麗。声も聞きとりやすくて会話も楽しく、一緒にいて疲れない。
おまけにちょっとした食事も作ってくれるし、コーヒーを淹れるのもうまい。
由良以上に良い秘書なんて多くはいないだろう。
また視線を宙にやると摩耶はすぐに顔を赤らめ、僕の顔と窓や部屋をぐるりと見渡す。
視線が宙から戻ったと思ったら、すぐに僕から離れ、先ほど投げた毛布を持ってきては雑に僕へとかぶせてくる。
「なにしてるの、摩耶」
ぐいぐいと顔に押し付けてくるので、窒息死にならないように両手で空間を確保する。
視界が毛布の暗闇になった僕に再び、腹から足へとまたがってくる重さが来た。
その重さに耐え、怒りを静めてもらうために多少されるがままになる。
すると何を思ったのか、僕のズボンに手をかけてはベルトをはずし、慎重にズボンを脱がせはじめてくる。
心がおおらかな僕でもそれ以上のいたずらを許す気持ちにはなれず、顔に押しつけられた毛布を手に取り、摩耶の顔めがけて全力で投げつける。
顔に毛布の塊をぶつけられた摩耶は体のバランスを崩し、床に頭から落ちた。
「この摩耶さまに任せていれば気持ちよくなったものを……」
「朝からいたずらは感心しないね」
内心は恥ずかしかったものの、摩耶にからかわれないように表情を抑えながら呆れた溜息をついて床に倒れた摩耶を見下ろす。
うつ伏せになった摩耶はぶつけた頭を両手で押さえ、顔を床にくっつけたまま、結構痛かったらしくうめき声をあげてうずくまっている。
すぐには返事をもらえそうにないので、摩耶に下げられたズボンを戻してベルトを閉める。
「何がしたかったんだ。話があるなら聞くけど。由良が来るまでまだ余裕あるからね」
時計を見ると午前7時12分。
由良が来る8時あたりまでは摩耶の話を聞くとしよう。
こんな朝早くに来たんだから、何か深いワケがあるはずだ。
僕は体を起こし、ソファーに座って摩耶が起き上がるのを待つ。
―――それから5分が経過した。
いまだ摩耶はうずくまったまま起き上がる気配を見せない
ここまで動きがないと逆に心配になる。
ソファーから立ち上がり、うつ伏せになっている摩耶をひっくり返して仰向けにし、無事なのを確認すると背中と膝に手を入れる。
「おい、なにすんだよ」
摩耶の言葉を無視し、お姫さま抱っこで体を持ち上げてはソファーへとそっと降ろす。
それから床にぶつけた頭を見るために、摩耶の顔に近づいて打った場所と思われるところを優しく触る。
「まだ痛みは続くかい?」
「……大丈夫。大丈夫だからさっさと手をどけてくれ、提督」
僕から真っ赤になった顔をそむけ、触っていた手を強く払われた。
勝気な摩耶のことだ。僕に恥ずかしいところを見られたうえに、優しくされたのが気持ち悪かったんだろう。普段はこんな女の子扱いをしたことがないからな。怒りで顔が赤くなるもの当然か。
女心に気付き、摩耶に背を向ける。
「それで朝早く来る用事っていったい?」
「提督が秘書の由良と、毎朝いやらしいことをしてるって聞いて。んで、その現場を押さえて提督を艦娘だけでやる裁判にかけようと」
すぐに返ってきたその言葉に思わずむせてしまう。
どこからそんな危ない噂が出てきたんだ。事実無根だ。だが、火のないところに煙はたたないとよく聞く。
考えてみよう。
由良を秘書にして毎朝同じような時間に来させているが、それは由良が自発的にやっていること。
秘書を変えないのも、変えたら引き継ぎや夜食やコーヒーの味を最初から教えるのが面倒だからだ。
そもそも僕は艦娘にボディータッチはするがセクハラ目的ではなく、スキンシップだ。嫌がる子がいたらすぐに謝罪し、もう同じことをやらないようにしている。
……いや、逆にこんな女所帯の職場で誰にも手を出してないのが問題か?
誰か一人を提督専用的扱いで、艦娘の誰かを手籠めにするのが当然なのか?
悪い想像がどんどんと出て来て、頭が混乱してくる。
頭が痛くなって気がつくと、ソファーから起き上がった摩耶が自分の上着に手をかけて脱ごうとしてたのを慌てて止める。
「なに、突然なにやってんの!?」
「放せ! あたしに脱がさせろ!」
「なんでさ!?」
僕は摩耶の手首を押さえて、服をそれ以上に脱がさないようにする。
脱ごうとする摩耶と止めようとする僕。
二人の間で力の攻防がはじまる。
お互いに脱がすのと脱がさないのに力を入れ続ける。
話がまったく見えない。摩耶はいったい何をしたいんだ。
このままじゃ話が進まないということで摩耶の手首からちょっとずつ力を抜きはじめると、摩耶もそれに合わせて脱ごうとするのをやめてくれた。
「摩耶、言いたいことがあるなら言ってくれ。でないとお互いにもやもやした気分で今日を過ごすことになるから」
溜息をついた僕に、摩耶は顔を赤くし荒い息をつきながらもうなずいて同意してくれる。
朝から摩耶ともめたせいか、僕も頬が熱くなっているのを自覚し、頭がふらついてきて呼吸も辛い。
息を整えながら摩耶を待っていると、僕に座るようにといい言われたとおり摩耶の隣に座る。
摩耶は僕を見上げ、うるんだ目でぽつぽつと言い始める。
「あの、な。あたしはな……その、さっき言った朝早く来た理由は半分ウソなんだ。それで残り……あたしが提督と会いたかっただけなんだ。提督のHな噂を聞いたもんだから、今日は一日のはじまりで由良よりも早く会いたくてよ。それで、その、服を脱いで裸になればあたしなんかに手を出してくれるんじゃないかって。既成事実を作ればあとはどうとでもなるって鳥海が。ああもう、クソったれめ! これでいいか、満足したか、ちくしょう……」
恥ずかしげに言っては顔を赤くして目をそらし僕の手を振り払った摩耶は、僕の胸に手をあて近づいてくる。
おかしい。
いつもなら摩耶には女の色気を感じないのに緊張してきた。心臓の動悸も強くなってきたし、摩耶の汗の香りもよく感じ始めた。顔が熱くなっているのが自分でも感じる。
摩耶は僕に恋心があるのはわかる。それにつられて僕も恋をしているってことか?
自分の感情に気を取られているあいだ、摩耶の顔がだんだんと近づいてきて、キスでもしそうなほどの距離に顔が近付いてくる。
頭の片隅で『今すぐ摩耶から離れろ、どうなってもしらんぞ!』と言ってくれる理性があるがどうにも体が動かない。
目がうるみ、頬が赤く、息遣いを聞いた僕はもうどうにもできない。
目を閉じた摩耶の顔が近付き、キスされてしまう寸前。コンコン、とドアを叩く音が聞こえた。
これぞ天の助けだ!
「摩耶、由良が来たから離れてほしいんだけど」
由良に変な誤解をされそうだから真面目な声をあげる。
唇が触れるほどに近づいていた摩耶は目をあげ、僕の言葉を聞いては嬉しそうに笑みを浮かべる。
「提督。あたしが鍵を閉めたの、忘れてたか?」
その事実に気付き、心が焦って呆然としていると摩耶に軽く胸を押されソファーに押し倒される。
続いて摩耶は、僕に覆いかぶさるように抱きついてきた。
これではもう逃げることも気をそらすことも難しい。
さらば、僕の純情……。
覚悟し、諦めの心境となる。
「提督さん、おは―――、ええと……」
そんなとき、摩耶が鍵を閉めていたはずのドアが開き、そこに制服を着て、書類の束と鍵を持った由良がいた。
彼女は鈴の音のような透き通る美しい声を出したが、いつもの挨拶を途中で止め、僕と摩耶を交互に見ては頬を赤らめて顔をそむけた。
このときになって僕は冷静さを取り戻し、今の状況を把握する。
ソファーの上で僕は摩耶に押し倒されていて、顔が近くキスする寸前。さらにお互いに服装が乱れている。
僕と摩耶は由良を見て驚きながら声も出さずに固まっていると、書類と鍵束を床に落とした由良が慌てて出て行った。
「す、すみませんでした!」
半開きのドアに、廊下からの大声がよく聞こえた。
無意識に僕は由良がいなくなったドアに手を伸ばしていた。
「終わった。僕の恋が」
「あ? なんだ、由良に片思いしてて秘書にしたのか。職権乱用だな、おい!」
僕が落ち込んでいるのとは逆に摩耶は気分良く笑い声をあげていた。
人の不幸を喜ぶなんて。
その声を聞きながら、めまいと精神的ショックと寒さによる震えを感じながら、ソファーから落ちた僕の意識はどんどん閉じていって眠りの世界に落ちていった。
◇
あのあと、高熱を出しているのに気付いた摩耶が僕を医者のとこまで連れていってくれて自宅療養となった。
摩耶と一緒に見舞いにきた由良は、最初に深く謝って僕と摩耶が相思相愛で朝から『いやらしい』ことをしていると思って逃げたらしい。
そのあたりの説明と誤解は、なんと摩耶が解いてくれたと由良が言う。
気を失う前に怒っていたことは一瞬にして帳消しになった。
ぼんやりする意識のなか、優秀な仕事をした摩耶に秘書を時々はやらせてもよいかと思う。
心配そうな顔の由良から摩耶に視線をうつすと、由良の後ろにいる摩耶は、声を出さないようにゆっくりと口を動かして、『大好き』という聞こえない言葉と共に素敵な笑顔を浮かべていた。