鎮守府の敷地内にある桜が散り、ちょっとずつ梅雨に近づいていく4月後半。
雲が少し空にあるが、澄んだ青空が綺麗な日のお昼時。
執務室で作戦命令に対する準備を進めているなか、僕は息抜きのために港を目指して歩いている。
僕の後ろに1歩離れて歩いているのは秘書の不知火。
本当なら僕だけでのんびりと優雅に散歩をする予定だったけれど、この仕事真面目な彼女は僕が無駄な息抜きをしないようにと強引に迫っては後ろからついていきている。
不知火がいると緊張するので、緊張をほぐすために軍服を着崩そうとしたけど、不知火はすぐにそれを直してきて怒っているくらいに真面目だ。
不知火自身も支給された服をピッシリと着て自分にも厳しい。
そんな不知火だからこそ安心して秘書にしている。
一緒にゆっくりと海の風景を見ながら歩き、港の岸壁へとやってくる。
ここは船舶はあまり来ず、艦娘たちも使わない静かな場所だ。
けれど、そこには先客がいた。
不知火の妹でもある秋雲だ。
今日が非番の彼女は上下とも緑色のジャージを着て、腰まで届く長いポニーテールを海風に揺らして小さな椅子に座っている。
秋雲の前には新聞紙を一折したほどの大きさなキャンバスがイーゼルに立てかけてある。
周囲には道具箱や木炭、分厚そうな紙があり、海風で飛ばないように石を重しとして整然と置かれている。
絵を描いている秋雲に興味を覚え、歩く足を止めて少し考えたあとに秋雲へと近づいていく。
秋雲は線が書かれているキャンバスを見ながら、筆とパレットを持って低い唸り声をあげて悩んでいる。
そっと秋雲の後ろに近づいた僕は静かに描かれた下書きを眺める。描かれていたのは岸壁から見える景色。岸壁と海と湾内の防波堤、遠くに航行している大型の船が小さく描かれていた。
秋雲の手が絵に色を塗る瞬間を待っていると、不意に首だけこちらを向いた秋雲と目が会う。
僕と秋雲はお互いを見たまま何も言葉を出せずに固まっている。
「楽しんでいますか、秋雲」
沈黙の空気を破ったのは後ろにいた不知火だった。
不知火は秋雲の隣に立ち、絵を見ながら一声をかけた。
「おうぁー!?」
謎の叫び声をあげた秋雲はパレットを放り投げ、けれど筆を持ったまま僕たちが来た方へと全力で逃げ出していった。
あとに残された絵と僕達。
……そこまで逃げられるようなことをしてないはずだけれど。こっそり見られていたのがそんなにも恥ずかしかったのかな。
と、考えたものの、以前から秋雲が絵を描いているところに近づくと、悲鳴をあげるので僕が逃げることが何度もあった。
生理的にダメレベルぐらいに嫌われているかもしれない。
そう思ったら、両膝をついて深いため息を出して落ち込んでいると不知火に声をかけられる。
「司令、落ち込むのはあとにして片付けを手伝ってください」
僕をなぐさめる言葉もない不知火に顔を向けると、パレットについた油絵の具をパレットナイフで削り落としている途中だった。
道具を片付けているということは今日は秋雲が戻ってこない、と予想しているのか。
僕は立ち上がり、出されていた油絵の具のチューブを箱に戻す。
そのときに違和感を感じ、何が変なのか考えて箱に納められているチューブの数と色を確認する。
赤色がない。
絵を描く時に使うことが多い赤がないのは、単に切らしているだけと思ったが、描きかけの絵や鎮守府で飾られている絵には赤色がどれもないのを思い出した。
今までは疑問に思うことはあったものの、描き方のひとつかと思っていたがそうじゃない。
意図的に使ってないんだ。
僕の気にしすぎで、赤を使わないのは単なる好みかもしれない。
でも僕はどうしてか気になった。
「不知火」
「あんでふょうか、ひれい」
不知火に顔を向けると、食パンの切れ端をもごもごと口に入れて食べつつイーゼルを片付けていた。
一瞬、混乱したが落ちついて周囲を見渡すと道具箱の中にちぎり取られた食パン1枚が入っているのが見えた。
不知火のパンを食べている姿を見たら気が抜けて、聞くことを諦めて片付けを再開した。
それからすぐに片付けが終わり、イーゼルなどの重いものを僕が持ち、不知火は軽いものを持って寮の秋雲の部屋に向かう。
途中、後ろからついてくる不知火が『司令』と声をかけてくる。
「気になることがあるのなら、どうしてそうなったかを考えたあとに本人に聞くといいですよ」
「え?」
振り向くと、さきほど考えていたことを言葉に出していないのに不知火は助言をくれた。
「不知火は秋雲が赤色を使わない理由を知っている?」
「はい。ですが教えることはできません。それは秋雲から聞いてください」
「そうするよ。でも、不知火に言われたから渋々するんじゃなくて―――」
「わかっています。不知火自慢の司令は優しいということが」
言葉を遮られ、優しく微笑んで言う不知火の言葉を聞いて僕は不思議と満ち足りた気持ちを感じた。
信頼されているとわかると自然に頬がゆるむ。
秋雲が赤色を使わない理由、それがわかれば僕を避けていることもわかるんじゃないかと楽観してしまいそうだ。
思えば、秋雲は支給されている赤を基調とした制服はあまり好んでいないようで、私服や私物には赤色を一度も見たこともない。
小物の赤色も敬遠していることから、赤に対して強い想いで避けていることがわかる。
赤色をひどく嫌っていたとしても、遠征、演習などの艦娘の仕事は今のところ支障がない。
1年ほど経つけど実戦には参加したこともあるし、戦闘ができないわけではない。
食事で赤いものを避けるぐらいが小さな問題だろうか。
秋雲のことは頭の片隅で考えておくことにし、過剰に考え、接するのは控えるようにする。
けれど、いつか秋雲の絵に赤色が入れば素敵な絵になるだろうな、と僕は考える。
◇
秋雲に逃げられてから5日後の雲ひとつない鮮やかな空の夕方。
僕はまた岸壁に来ていた。
遠征から帰ってきて、ジャージを着て画材道具を持って秋雲を執務室の窓から見かけて。
前回と同じ場所にいた彼女に対して、道具を広げて椅子に座って絵を描いている秋雲を、僕はすぐに近づかず遠くから見ていた。
1人で来ている今は、好きなだけ秋雲のことを考えることができる。
そのかわりにまずいことになってもフォローも助言もないけれど。
夕日がだんだんと海に沈んでいこうとするなか、僕は描かれていく絵を遠くから眺めている。
先日に見た絵の続きで、絵には青の色が広がっていて、同じ青でも岸壁そばや沖合でも色が違っている。
その微妙に違う色合いを見たくて、足音をたてないように慎重に近づいていく。
秋雲まであと2mと距離が縮んだ時、振り返った秋雲と目があった。
前回と同じく、僕と秋雲はお互いに固まってしまう。
「て、提督……?」
「そのまま、そのままで」
椅子から腰が浮きかけている秋雲に向けて両手を突き出し、そのまま座るようにジェスチャーで伝える。
緊張している顔の秋雲はゆっくりと椅子に座り、僕は近づいていいかの了解を取ってから秋雲の後ろに立って絵を見る。
近づくと油絵で塗られている絵は、海の色がちょっとずつ違う青の色。重ね塗りされている海は光の陰影で立体感が出ていて、じっと見てしまう。
「逃げるほど秋雲は絵が下手じゃないのに」
「あー、絵を描いている姿を見られるのが恥ずかしくてね~」
「僕は絵を描いているのを見るのが好きだよ」
「す、好き?」
「ああ。絵のモチーフを見ているとき、絵を描いているとき、スケッチブックやイーゼルの前で悩んでいるとき。いつも遠くからしか見てないけど、表情や体のちょっとした動きが僕には楽しいよ。あ、バカにしてるわけじゃないからね。秋雲を見ていると僕は―――」
「ちょ、待って待って!」
慌てた秋雲に言葉を止められた僕はそのまま黙り、秋雲からの言葉を待つ。
秋雲は視線をきょろきょろと動かして遠くやあたりを見回している。それからイーゼルにたてかけられたキャンバスを手に持って僕の目の前へ持ってくる。
「この秋雲さんの絵、物足りないよね?」
不安げな目で訴えてくる彼女は、『自分の絵が好かれるわけがない』というふうに感じられる。
絵のことは詳しくないが風景画としては良く見える。だけど、ここから見える実際の風景とは違う。太陽の光や船の艦底色の赤。それらがない。
でも、僕はあえて言わない。秋雲自身でもわかっている。
それでも僕に言わせたいのは後ろめたいことがあるからだと思う。
「僕からすれば、人物画を見たことないから人がいないのが物足りないかもね。スケッチでは見たことあるんだけれど」
「それもそうかもしれないけどさ、色が」
「絵は楽しんで描かなきゃ。絵は秋雲の趣味なんだから。なにかが物足りないのかもしれないけど嫌な色を使ってまで描かなきゃいけないの、秋雲の絵は?」
僕の言葉になにかに気付いたかのように目を見開き、すぐにうつむいては僕に背を向けた。
その寂しげな後ろ姿を見て、僕はどうしようもなく抱きしめたくなる感情を覚えた。
でも、同意のない抱きつきなんてただのセクハラだ。
頭を撫でるぐらいならいいだろうと妥協し、秋雲の頭を優しくゆっくりと撫でる。
そのときに、ビクリ、と秋雲が揺れたが構わず満足するまで撫でつづける。
数分したあと、秋雲の様子が落ち着いたのを見て僕は何も言わず執務室へと戻った。
戻る途中、秋雲へと振り返ると彼女と目が会い、ゆったりと優しい笑顔で手を振ってくれた。
僕も笑顔で手を振り返し、秋雲の様子に安心した。
結局、僕は色について聞くことがなく秋雲との会話が終わった。
でも、これで正解だったかもしれない。秋雲に変な罪悪感を感じて欲しくなかったから。
◇
一人で秋雲と海で会った日から3週間がたった。
不知火と一緒に海で絵を描いていた秋雲と会った日から時間が立ち、今は5月後半で。
6月に近づきつつある近頃は時々暑い日が出てきて、僕は夏用の白い軍服に衣替えをした。
窓を開け放っている執務室では、そよ風が入ってきて気分が良くなる。
執務机で補給、遠征、装備開発計画といった書類を不知火と一緒に片付けているのだけど、今日は不知火の機嫌がなぜか悪い。
ピリピリとした空気で、疑問に思うことを気軽に聞けない雰囲気だ。
たとえば不知火が今日の朝に執務室に持ってきた、袋に入った一斤のパン。
これをなんの説明もなしに執務机に置いてきた。
それから無言で今日の予定分の書類を棚から出してきて、仕事を始めようとすると僕を何の感情も感じられない表情で見てくる。
ちょっとした怖さを隣に感じながら、不知火とそれぞれ椅子に座って黙々と仕事を片付けていった。
ふと、ノックの音が聞こえて壁にかけてある時計を見ると昼の12時。
訪問客の予定はなかったはず、と頭のメモ帳で確認したあとで不知火に扉を開かせに行かせる。
不知火が開けた扉の向こうには、制服を着て裏返しのキャンバスを持った秋雲がいた。
「これあげる!」
僕と目があうと楽しそうに言って、キャンバスの表を見せてくる。
真っ白いキャンバスの上には、夏軍服の僕と制服の秋雲が寄りそうように腕を組んでいる油絵が描かれていた。
秋雲が着ている制服の赤色部分が塗られていて、他の色と比べるとそこはあまり丁寧ではなかったが初めて見る秋雲の赤色に僕は嬉しくなる。
秋雲はその絵を不知火にやや強引に持たせたあと、僕へ真剣な顔を向けてくる。
「提督、愛してる! だーいすき!」
そう大声で言ってから赤い顔で投げキッスをし、部屋から走って出ていった。
そして静かになった部屋に、僕はその告白に驚いて自分の鼓動が大きく自分に響いて聞こえてくるようだった。
秋雲の言葉で顔が赤くなって体全体が熱く感じていると、不意に不知火からの僕を批判する冷たい視線にさらされる。
視線のおかげですぐに冷静な思考になった僕を見て、不知火は深いため息をつき、扉を閉めてから渋々といった様子で僕の前まで絵を持ってきてくれる。
「ありがとう」
機嫌が悪くなっている不知火の理由がわからないけど、受け取った絵はよいものだった。
見ていると笑みがこぼれてくる。描かれている僕も秋雲も魅力的な笑顔をしてた。
この絵は額縁を買って自室に飾ろうと決めて、顔を上げると不機嫌なままの不知火が。
「秋雲から説明するように頼まれたのですが、赤色が嫌いな理由は大規模戦闘でかばわれ――」
「血が原因ってこと? そこから先は言わなくていいよ。僕があとできちんと聞くさ」
「そうですか。……これで秋雲に頼まれた私の仕事は全て終わりました」
「不知火に相談してたの?」
「はい。ここ一週間ほど大変でした。他の方々にばれないように、司令のことを聞かれる毎日を過ごしました」
僕から目をそらし、疲れた表情を見せてくる不知火に僕はひとつ納得がいったことがある。
絵に描かれている僕は相当に美化されていて、今まで見てきた秋雲の絵とはどことなく違う感じがした。これは不知火から僕のことを聞きながら描いたからかもしれない。
その予想をもとにひとつ、不知火に聞いてみるかもしれない。
「この絵に描かれている僕、現実よりかっこよすぎだよね」
「いえ、司令は外見も人格も素晴らしい人です!」
苦笑していうと、不知火は勢いよく僕へと近づいて力強く言ってくれた。
勢いに圧倒されて言葉を失っていると、不知火は背を向けてしゃがみこんで顔を押さえこんでいる。
「クールな不知火にそこまで言ってもらえると嬉しいよ、ありがとう」
少しのあいだ固まっていた不知火は急に勢いよく立ち上がり、机に置いてあった食パンの袋を僕に投げつけてくる。
顔を真っ赤にした滅多に見ることがないその姿は可愛いくて、ぶつけられる一瞬のあいだに僕の記憶へ深く刻まれた。