12月になった、ある寒い日のこと。
俺は重要な相談があると言って信頼できる五十鈴を執務室へと呼び出した。
部屋には暖炉の火がパチパチと薪を燃やす音だけが響くなか、私が座っている机の向こう側には椅子に座っている五十鈴がいて、正面でお互い見つめあったまま十数分ほど経っていた。
五十鈴は腰まである長いツインテールの髪を手の中でいじりながら、優しい目で私を見つめてくれている。
中学生のような若い外見ながらも、大人みたいな包容力を持つこの子に、私は強く信頼している。大事なことを相談するときは1番か、2番にするほどに。
その五十鈴に大事な話の内容に私はなんと言ってからいいか、呼び出した勢いだけで、考えていることが頭の中をぐるぐると回り続けたまま言葉を出すことができない。
夜11時という呼び出しにも関わらず、五十鈴は穏やかな顔で私の言葉を待っている。
何も言えないまま、何度目かの薪が爆ぜる音が聞こえたときに五十鈴は優しげな声で言ってきた。
「提督、そろそろ言えるような精神状態になったかしら?」
私が何も言わないのにいらつきもせず、彼女が私を見る目は"提督"という役職の私を見る目ではなく、一人の男を見るような深く慈愛に満ちていた。
「五十鈴、艦娘たちを指揮する提督が艦娘に惚れて結婚をしようとするについてどう思う?」
「そんなことを考えていたの? バカね、そこまでできる状況なら艦娘のほうも提督に惚れてるから……あぁ、その封筒は提督が用意したの?」
「渡されたんだ。中には結婚の書類が入っててね」
「じゃあ問題ないでしょ。重く考えすぎるよりは行動したほうが良いと思うけれど。そう、ふたりで話し合うとか。何もしないで悩み続けるよりはすっきりしたいでしょ?」
五十鈴は、私の机に置いてある大きめな茶封筒へと視線を向け、それをなでるようにさわる。
この封筒の中身には好きな子から渡された、結婚についての書類一式が入っている。
必要な記入事項も大体は書き終わっている。あとは好きな子へと渡すだけだ。
けれど私は悩んでいる。この書類の意味を。
軍は、提督と艦娘の正式な結婚を認めておらず、仮の扱いな結婚だ。
そんな結婚をされるほうは嬉しいのだろうか。不満に思うのだろうか。
……本当にいいんだろうか。一緒に人生を過ごしていくのが私で。
幸福も不幸も受け入れて毎日を過ごす覚悟はできている。だが、私はどうなってもいいが相手が本当に幸せなんだろうか。
ただただ、そこだけが気になる。
「まったく、あなたは優しすぎるのよ。まず自分の幸せを考えればいいのに」
「幸せか」
幸せとは楽しく過ごせることをいうのだろうか。
もしくは自分が生活に満足すること? それとも相手に情けをかけて自分は立派な人だと思うことが?
悩む私を見た五十鈴は立ち上ると、私のすぐ隣へとやってきて頭を優しくなでてくれる。
それで焦って考えすぎている心が少し落ち着く。
私は五十鈴になでられながら、書類が入った封筒を手に持って考えていることをまとめる。
自分の幸せ、好きな人のそばにいて、一緒に同じ道を歩いていきたいということを、
「提督さん、由良特製ココアを持ってき―――」
そんなときに突然、私が好きな由良がやってきた。
由良は薄いピンク色の髪で、腰へと届くほどの長いポニーテールだ。その髪は黒色のリボンで髪の根本から先までクロスするように交互に縛っている。
すらりとした体に、かわいらしくもあり美しく整った顔立ち。
言葉遣いや雰囲気も優しく、見ているだけで心が癒されるような。
そんな由良は普段はノックをするのに、今は唐突に扉を開けてやってきた
湯気が立つマグカップをお盆を手に持っていて、私と五十鈴が仲良さそうな雰囲気なのを見て体が固まった。
その表情はとても辛く苦しげでいて、見ているこちらが悲しくなりそうなほどに。
開けられたまま扉から入ってくる寒風は由良の心を表現しているかのように感じる。
私は何を言っても言い訳に聞こえるだろうと言葉を理性で抑え、五十鈴は何かを言おうとしているが口を開いたり閉じたりして言葉にならない言葉へとなってしまっている。
由良は私、五十鈴へと視線を動かし、最後に床を見る。
そんな動作の数秒の時間が数分にも感じられる。
由良は力なく腕をたらし、その拍子にお盆は落ちてしまってマグカップからココアが流れ出ていく。
「ハムレット、第三幕第一場」
突然、静かにつぶやいた由良は流れ出たココアの海へと一歩ゆっくりと足を踏み出し、両手を力なさげに少し開く。
前触れもなく始まろうとするハムレット。
由良のこれから言う言葉は私への問いとなることを感じさせる。
私と由良はとても仲が良く、小さなことでも話し合っていた。
お互いが大の読書好きで、作品で批評しあい楽しむこともある。だから、この作品、言葉を借りて私に聞きたいのだろう。
五十鈴は私から離れることもせず、ぽかんとして状況がわからないままになっている。
説明が難しいため、今はまだ放っておくことにする。
「生きるか、死ぬか、それが問題なの」
元々のセリフを自分の言葉へと変え、深く悲しみを持った声。
そして由良は両腕で自分の体を強く抱きしめ視線を落とす。
「どちらが女らしい生き方なのかしら。不幸な運命の砲弾を耐えるのと、単装砲を手に取って押し寄せる苦難に立ち向かってとどめを刺すまであとには引かないのと。いったいどちらが。いっそ死んでしまったほうが。死んで眠って、ただそれだけなら。永遠の眠りについてそれを思うと、いつまでも執着が残る。そう、由良の寛容をいいことに、提督さんといちゃいちゃする姉さんのわがままな行動を!」
「え、なに、五十鈴のせいなの!?」
ハムレットから由良流に言葉を直し、長すぎるひとつのシーンを省略して言っている。これが即興だとするなら、頭は冷静に動いていると思う。
だが、唐突に話題にされて、身に覚えのないことまでも八つ当たりされ困惑する五十鈴。
この一見、わけのわからない行動は事情のわかっている私と由良にしか理解できないだろう。
「ああ! 誰が好き好んで姉さんの自由にさせてるというの? その気になれば三本の魚雷を撃っていつでもこの鎮守府からおさらばさせれるじゃない! だけど、もうその流れにのりそこない行動のきっかけを失ってしまったの」
「ちょっとなんでそんなに過激なの!? 別に五十鈴は提督を取ろうとしてないから!」
由良は五十鈴の発言を無視し二歩私へと近づくと、床へ可愛らしく座り込み私をまっすぐ見つめてくる。
その瞳を見て、私は書類が入った封筒を持って椅子から立ち上がり、ハムレットの話を思い出しながら由良の前へと足早に歩きひざまづく。
「由良、今の体調はどうだ?」
「ああ、親切に聞いてくれてありがとう提督。元気、由良はとても元気です」
「前に渡してもらったものをここに。今、これを返そうと思って。どうか受け取ってくれ」
セリフを今の状況に変え、封筒をそっと差し出すが、由良は私と五十鈴を交互に見たあとに目を背ける。
「それはできません。私は書類なんてあげたおぼえはありません」
「なぜそういうことを……ダメだ、頭が混乱する。ハムレットは終了だ。由良、これを見てくれ」
手を取り、立ち上がらせて封筒を握らせる。
握らされた由良は封筒を見ては開けようか悩んでいたが、私がうながしすと恐々とした様子で封筒を開けた。
由良を婚姻届け見た瞬間、歓喜の表情となった。。
私が由良から渡されて記入はしたものの、さっきまで結婚の決心がつかなくて悩んでいた封筒の中身がこれだ。
「私、今この瞬間から提督さんのためになら、なんだってできちゃうんだから」
由良の目から涙があふれ、私へと強く抱きついてくる。
ちょうど胸のあたりに由良の頭がきて、涙を流す由良を私は優しく何度も髪をなでる。
そうしていると五十鈴は呆然としていたが、安心した様子で息をつく。
「あー、まったく、なんて茶番なの。そんなに相思相愛なんだから、五十鈴をさっきの話に使わなくてもよかったじゃない」
五十鈴は呆れたように私と由良を見ながら、寒風が吹いていた部屋の扉を閉め、すぐそばへとやってくる。
「だって姉さんも好きなんでしょ? 今だって気づいたら部屋にいなくて。だから由良は少し警戒しちゃって。あ、でも結婚生活が落ち着いたら愛人になるのは許していいかも」
「い、五十鈴のことはどうだっていいの! それよりも、あなたたちのことよ。指輪がないみたいだけど、どこにあるのよ」
顔が赤くなり、焦った様子の五十鈴は早口でまくしたてると指をびしりと突きつけてくる。
言われて指輪のことを思い出す。
書類のことや結婚生活について悩んでいたせいで大事なことを忘れていた。
そのことで後悔と、どうやって由良に謝罪しようかと焦ってしまう。
クリスマスプレゼントにあげようと思った、とも思ったがただの言い訳にしか聞こえないだろう。
私が指輪に悩む様子を由良は気にもせず、目の涙を手でぬぐうと晴れやかな笑みを五十鈴へと向けた。
「それはなくて当然よ。これから提督さんと一緒に選ぶんだから。それにね、軍の人たちが祝ってくれるようにしたいなぁって。そうするにはいくつかの人に"お話し"を聞いてもらわなくちゃいけないから。指輪はそのあとでいいかなって思うの」
「なに、あなた、もしかして脅迫を―――」
由良は私を抱きしめていた手を離し、五十鈴の唇にそっと人差し指を押しつけて、その言葉の先を言わせない。
「今が12月だから、6月のジェーンブライダルまでには正式な結婚許可がおりたらいいわよね。ううん、許可を出させなくちゃ。私と提督さんのために。……ああ、もう大好き! 私だけの提督さん! あなただけの優しさと笑顔をこの由良にずっと向けて欲しい! これからずっと由良が、由良だけは何があっても味方するからね!」
五十鈴の言葉を止めたあと、由良はもっと私に力を入れて抱きつき、私に少しかがむようにと言って、幸せそうに小さな声を出し、ほおずりをしてくる。
薄々と思っていたが由良は私に依存しているように、いや、依存している気がする。
日々の戦い、怪我、親友がいなくなる。
そんな精神に痛みがくる日を続けていた由良。
彼女は他の艦娘よりも繊細で周りを大事にしている。そして、いつも静かに笑って落ち着いている。
だから私は安心していた。でも、気づいたら由良だけがひどく痛んでいた。
気づくのが遅かった。
体の痛みより心の痛みがどれほど気づきづらく、傷つきやすいか。
心が安定していなく、時々幻聴が聞こえる由良は見ていてもう放っておけなかった。
秘書にしてから大事に扱うようになると、彼女は私に対して絶大な信頼を向けてくれた。
私に優しくしてくれる由良と楽しく、穏やかな日々を過ごしていると、ある時に結婚の申し込みが来た。
その申し込みを受けた結果が今のこの状況。
私が考えるこれが、最善の状況。
由良の髪の香りを感じながら、ほおずりされていると五十鈴の目がとても寂しげで諦めと悲しさをまとっている。
「……私たち艦娘に神様がいるのなら、どうか今日、この結婚の誓いをしたふたりに満ちあふれる祝福を注いでください。ふたりが愛に生き、幸せな生活を送れるように。……それじゃあ、五十鈴はこれで帰るわね。ばいばい、提督」
五十鈴は両手を胸に当て、簡単な祈りの言葉を言ったあとに部屋をあとにする。
扉を開けたときに来る寒い風は、私の心の中まで冷えるように感じてしまう。
五十鈴がいなくなった様子に由良は気づかず、今ある幸せを感じているだけだ。
由良がいるなら、私は毎日が充実した生活が送れるだろう。
共に幸せも不幸も感じて。
「提督、あなたのことがすっごい大好きなの。これからずっと愛してる!」
由良は私へと顔を近づけ、今まで見たなかで最高の笑顔で初めて言われた『愛してる』の言葉。
ああ、そうだ。私はこれから由良と共に歩いていくんだ。
この笑顔のために困難かもしない、この道を。
由良みたいに髪を縛っている子は、自分の心を普段からすごい抑えているというイメージができてしまいます。