もう少しで夏が終わる8月の中旬。
提督である俺は長良や他の艦娘たちと一緒に朝食を食べてからジャージに着替え、暑い日差しの中でのランニングを終えて執務室へと戻ってきた。
静かに扉を開けて広くない執務室に入ると、秘書の榛名が与えられている執務机の隣にある机に向い、扇風機の風にあてられながら椅子にまっすぐ背を伸ばして座り、書類仕事をしていた。
榛名は腰まで長く伸びる艶やかな黒髪が綺麗で、澄色の瞳はすぅっと澄んでいて目を見ているだけで宝石を見ているかのように感じられる。
顔は愛らしと美しさを併せ持っている。
巫女風の着物である制服はさらに彼女の魅力を引き立たせているような。俺にはもったいないほどの美人だ。
榛名は俺が部屋に入ったのに気づくと、穏やかな晴れの日のような暖かい笑みを向けてくれた。
「おかえりなさい、提督」
「ただいま、榛名」
机から白いタオルを取り出して椅子から立ち上がった榛名は、とてとてと可愛らしい擬音がつきそうな歩き方で近づいてくると俺の顔の汗を丁寧に拭いてくれる。
顔、首筋、ジャージの前を開けて胸元まで。
運動をしてきた時はいつもこうやって汗を拭いてくれるが、2年前に秘書となってから続く行為にいまだに慣れることはなく緊張してしまう。
榛名より身長が高い俺のすぐ目の前には榛名の黒髪があり、それは抱き着いてずっと嗅いでいたいほどのいい髪の香りがする。
だが、それは榛名の日頃からの無防備な笑顔によって鍛えられた理性で本能をおさえた。
もし、ささいなキッカケで嫌われてしまうのはとても嫌だ。
榛名には助けられてばかりで、俺からあげられるものはあまりないのだから。
日々の書類仕事は榛名に多くをやってもらい、俺はサインをするだけ。
提督にとって重要である仕事は投げっぱなしで、提督としての仕事は艦娘と一緒に訓練をしたり不満を聞くぐらいしかできていない。
こんなふうに自分が情けなく思ってしまうのは、長良たちに『提督は榛名さんのありがたみをもっと理解するべき!』なんて言われたからだ。
ため息をつき、自分の行動を思い出していると榛名は不安そうな表情になっていた。
「……えっと、榛名はなにか気に障ることでもしてしまいました?」
「何もしてないよ。ただ、榛名に頼ってばかりだなと思っていたところだ」
「好きでやっていることですから、提督が気になさる必要はありません。こうしてお世話をすることも楽しいですし。あ、お飲み物は何にします?」
「冷たいコーヒーをブラックで」
汗を拭き終わった榛名はにこりと笑顔を浮かべ、俺の汗を拭いたタオルを持って部屋から出て行いった。
仕事以外にもこういう細かい気遣いはありがたく、榛名に心の中で感謝をした俺はジャージの上を脱ぎながら自分の執務机へと行き、椅子にジャージをかけてどっかりと椅子に座る。
開いた窓からは時々生ぬるい風が入り込み、扇風機とぬるい風に挟まれて気分はいまいちよくならない。
そうやって時間を過ごしているとノックの音が聞こえ、返事をするとお盆にガラスコップを乗せた榛名が部屋に入ってきて、執務机にお盆を置いた。
「お待たせしました」
「ありがとう」
すぐに俺はコップを手に取り、ひんやりと冷えたコーヒーを一気に飲み干した。
その爽快感と苦みと冷たさに生き返る心地を感じていると、榛名は俺の机へサイン待ちの書類を置くとまた机へと向かって書類を片付け始めていた。
部屋に響くペンの音、窓の外から聞こえてくる艦娘たちの黄色い声と砲撃音。
それらの音を聞きながら、俺の火照った体が落ち着いてくると榛名の書類を終えたところで声をかけた。
「榛名、なにか欲しいものはないか?」
「欲しいもの……ですか?」
「ああ。感謝を形にしたくてな」
俺の苦手な書類仕事はいつもやってもらい、今のように気遣いでコーヒーも入れてもらっている。
休日では服や食材などの買い物にも付き合ってもらっているし、仕事がある日は寮から家までやって来ては料理や掃除もしてくれる。
今こうやって考えてみれば榛名と会わない日なんて1日もない。
俺は不満はないが、榛名個人の時間があまり取れていないように感じて、悪い気がする。
それに今まで恋人を作ろうとしたこともなかったから、女性相手にどう気遣えばいいかわからない。
提督になってから、若い女の子たちとふれあう機会は増えたが、それは妹や年下の後輩というような関係性だ。
自分の発言にもっとかっこいい言い方とかあったんじゃないかと後悔していると、榛名は顎に人差し指をあてて「うーん……」と可愛らしい声を出して天井を見上げながら悩み始めた。
それを待つこと、10秒ほど。榛名は俺に晴れやかな笑みを向けてこう言った。
「ありません!」
2年間一緒に過ごした経験として、今の言葉は何の裏も気遣いもないというのがわかる。
でもそれじゃ俺が困る。
普段の感謝の気持ちをいったいどうしてあらわせばいいのだろうか。
「なにかあるだろう? おいしいものを食べたいとか、長い休みが欲しいとか。そういう俺ができることうぃ……」
「そういう気遣いをしてくださること自体が榛名はとても嬉しいです」
驚きで言葉が出ない。
そこまで喜ばれるほどが不思議なほどに普段から何もしてあげれていないというのに。
いったい何が榛名をそこまで満足させているのだろう?
俺は首を傾げて考えるが、満面の笑みを浮かべる榛名を前に答えは思いつかない。
「提督のそういうところが榛名は好きです」
「俺も榛名のことが好きだよ。それじゃあ、なにか欲しいものができたら言ってくれ。きっとかなえるよ」
お互いに照れることも動揺することもなく、自然に『好き』と言える今の関係が俺は気に入っている。
恋愛の愛情や情熱はいつか消え去ってしまうが、好意なら永遠に続く。
だから恋人でもない俺たちが親友以上の良い関係にできていると思う。
「……あ、いま欲しいものができました。榛名は提督とずっと仲良くしたいです」
はにかみながら言う可愛い榛名の言葉に、俺は嬉しくなり笑みを向ける。
「そのお願いはきっとかなえるよ」
ふたりして笑みを向けあい、話の答えが出ると満足した様子の榛名は仕事に戻り、俺も書類内容を見てサインをする仕事へと取り掛かった。
そうして、ペンを走らせる音と時々書類を受け取るだけの静かな時間がやってくる。
でもこの時間は退屈なものではなく、穏やかな気分になれる。
信頼できる人がそばにいて、ずっと会えること。それだけで心というものは嬉しくなるものだ。
仕事を続けながら、今が幸せだということを実感しているとすぐに時間は過ぎてしまい、腹が減ったところで壁にかけてある時計を見ると昼前の時間と気づく。
「昼ご飯を食べに行こうか?」
「もうそんな時間でしたか。今日はいい気分で仕事ができたのであっという間に感じました。それじゃあ、あと1枚だけお願いします」
榛名は今やっている書類からペンを離すと、机の引き出しから1枚の書類を取り出して俺へとなぜか恥ずかしそうに裏返しで手渡してくる。
その書類を受け取ろうとするが、手で掴む瞬間に2度もかわされた。
「……榛名?」
名前を呼ばれた榛名は、びくりと体を震わせるが大きな深呼吸をしたあとに両手で大事そうに差し出してきた。
「この書類は今日1番の重要なものなので、じっくりと考えてください。では榛名は先に食堂へ行ってきます!」
いつも落ち着いている榛名らしくなく、俺が受け取った瞬間には物凄い勢いで執務室から走り去って行った。
そのことに呆然としつつも、渡された書類を見るとそこに書かれていたのは提督と艦娘が仮の結婚関係を築けるという内容のものだった。
内容を承諾するサインのうち、榛名の分はすでに書かれていた。あとは俺がサインして届け出れば、晴れて軍公認の関係となる。
仲が良い榛名に仮の結婚とはいえ、強く想われていることに嬉しく思う。
でもこれで男女の関係になってしまうかもしれないことに不安を覚える。いつの日か、榛名に捨てられてしまうんじゃないかって。
少しのあいだ、悩んでいたが榛名もまた悩んでいたという答えが出る。
この書類は榛名が俺との関係を形にして表現したいんだと。
けれど、きっとこの書類を届け出したとしても、俺と榛名の関係は大きくは変わらないだろうと思う。
それは今までの日々が穏やかで満ち足りたもので、今までの関係を延長した、より幸せなものだと想像できる。
そして、今まで言葉にしなかったことや言葉にできなかったことを形としてあらわせるのはきっと素晴らしいことで、今よりも俺と榛名はもっと仲良くできると思う。