6月の暗い雨雲がある、お昼の時間を過ぎた日。
しとしとと静かに降っている雨が車の屋根へとぶつかる音が、耳に心地よく響く。
軽自動車の中で運転席を倒し、軍装の上着の前を開けて読書をする俺にとって今は気分が良い。
幸せだ。
執務室の仕事から逃れ、鎮守府内の岸壁まで車を持ってきての静かな時間だ。
ここは書類に追われることもなく、べったりとくっついてくる艦娘もいない。
何にも追われることもなく、自分だけの時間を過ごすことができる。
静かな時間というのは提督になり、29歳となった若くないオッサンの自分にはとても貴重だ。
助手席へと読み終わった小説を置き、積まれている本を取ろうとして気付く。
窓の外に、白と青の水玉模様の傘をさしている那珂の姿が見えた。
長いあいだいたのか、普段着ている制服が結構濡れている。
車のエンジンをかけて暖房のスイッチを入れ、助手席に積んである本を俺の足元へ投げつけるようにして移動させる。
手招きで車に入るように指示すると、那珂は少しためらったあとに恐る恐るドアを開ける。
閉じた傘を受けとって後ろへと置くと静かに那珂が座り、ドアを閉める。
「後ろ、タオル」
ぶっきらぼうに言って、俺は足元にある小説を適当に取り読書を再開する。
読み始めてすぐに那珂が後ろに手を伸ばしてタオルで髪や顔を拭く姿が視界の端に見える。
拭き終わったのか、タオルを自分の膝の上に置いたあとは何もしていない。
何の用だ、と聞こうとも思ったが自分の貴重なリラックスタイムを自分から壊す気はない。用事があるなら自分から言うと思ってそのまま本を読み続ける。
エンジン音と暖房、那珂の息遣いが加わった今。普段なら聞こえる音が増えたことに不快感がでるものだが不思議と落ち着いた気分が続く。
小説を4分の1ほど読み進めた時、那珂が静かにつぶやく。
「雨降ってるね」
「ああ」
独り言のようなものに返事をし、ちらりと那珂を見るとフロントガラスにぶつかる雨をじっと見ている。
そのままお互い何も言わず、また静かな時間が続く。
半分ほど読み終えたところで本を閉じ、自分の足元へと放り投げる。
大きく息をつき、滅多にここへ来ることがない那珂がきて、仕事に戻る時間が来たことに諦めがつく。
戻るか、と言おうと那珂へ顔を向け口を開けたときに那珂が先に言う。
「提督は本を読んでるときってどんな気分なの?」
「あー……」
唐突なその問いに少し悩んだあげく、正直に答える。
「知らない世界を体験できる幸せ」
言った瞬間、恥ずかしくなり目をそらす。
幸せ、という言葉を使うのは本を読んでるだけなのに大げさな表現だった。もっとかっこよく、『人生の勉強かな』と言えばよかった。
「そっかぁ」
俺の言葉の何がよかったのか、感心したふうに言って放り投げた本を取って渡してくる。
本と那珂を交互に見て、微笑んでいる那珂から本を受け取ってから椅子に深く体を預け読書を再開する。
はじめのうちは仕事をしなくていいのか、俺を怒らないのかと疑問に思っていたがそれもすぐに消え、本の世界へと没頭していった。
誰にも邪魔されない時間、場所。
自分以外に那珂という人がいるのに意外と落ち着くことに時折意識が向く。
那珂は何をするでもなく、俺を見てたり、外を眺めているだけだ。
―――どれぐらい時間が経ったのか。
本を読み終えたときには外が暗くなってきていた。
あまりにも気分よく読書が進むものだから、やめどきを誤ってしまった。俺を呼びに来たであろう那珂も少々怒っているかもしれない。
そっと隣を見ると那珂は外を見ていたが、俺の視線に気付いたのか笑顔で振り返る。
「楽しめた?」
「ああ。いい時間を過ごせたよ」
予想を外す笑顔と言葉に、俺はまたも正直に答える。
今度こそ仕事へ戻ろうと、足元の本を集めては後ろへ移動する。
片付けを終え、椅子に深く倒れて一息をついたところで気になっていたことを聞く。
「次からは文句言ってもいいからな」
「那珂ちゃんのことは気にしなくてもいいよ。書類仕事なら期限まで間に合えばいいんだもん」
「いや、それもあるが暇だったろ」
「ううん。二人っきりの時間なんてホント、久々だから楽しかったよ」
「……本を読んでただけだが?」
「それがいいの」
もし俺が逆の立場なら飽きてすぐに文句を言うところなんだが。
胸ポケットからタバコを取りだして口にくわえ、火をつけるのはどこにあったかと車内を探していると那珂がマッチの箱とマッチ棒をそれぞれ手に持って差し出してくる。
「はい、これ」
「ん」
準備の良さに感謝し、俺は顔を向け火をつけてもらう。
タバコの香りと煙をゆっくりと吸い込んでは吐く。何度か繰り返し、1本目が終わり車に積んでいる灰皿へ捨てたときに俺は那珂に言う。
「那珂、数日ぐらい休みを取らないか?」
「ほぇ、なんで?」
顔を向けると、少し驚いているのがわかる。
休みをあげるだなんて自分でも突然すぎるとはわかっている。
「考えてみれば、お前に秘書仕事ばっかりやらせて休みなんてないと思ってな」
執務室で仕事をするときにはとてもありがたいが、普段はやたらとうるさくてかなわん。今、こんなに珍しいほど静かなのは仕事が忙しくて疲れているからだろうと思った。
いや、普段のアイドル云々といううるささぐらいは別に構わないんだが。
那珂は、首をかしげちょっとの間、難しい顔で悩む。
「それは那珂ちゃん、困っちゃうなぁ」
「ああ、そっか突然だしな。考える時間も含めて一週間までなら構わないがそれなら―――」
「いないあいだ、他の子が秘書やるの嫌なんだけど」
「引き継ぎなら俺がしっかりとするからそんな心配はいらん。俺だって本気だせば一週間ならなんとかできる。たぶん」
「提督が見るのは那珂ちゃんだけでいいと思うんだけどな」
俺が何かを考えることもできず呆然とし口を開けていると、那珂は2本目のタバコを取りだし、右手で俺の顔を動かないように押さえたあと、俺の口に入れてくる。
顔を押さえていた手は、何度か俺の頬を撫でたあとまたマッチで火をつけてくれる。
そのタバコを手でしっかりと押さえ、吸い始めたころにやっと意識が戻ってきた。
これは遠まわしの告白か? 以前にもなにか俺のことを好きという行動をしてきた気がする。それらはただ単に俺をからかっているだけだと思ったんだが。
那珂は微笑んで俺を見続けている。その顔を見ているのが恥ずかしくて、俺は顔を外に向ける。
2本目を吸い終わり、3本目を差し出そうとする那珂に対して、いらないと手を向けて止める。
「お前、俺にタバコをすすめてくるけど、この臭いはいいもんじゃないだろ」
「うーん、まぁそうなんだけどね。でも提督の香りだし。これが体につくと提督がいつもそばにいる気分になっちゃうでしょ?」
そのセリフを聞いて俺の心は決まった。いつも軽くあしらってしまうことに罪悪感を少し覚えたのと、那珂を大事にしたくなる気持ちが出てきた。
急いで車のエンジンを止め、キーを抜く。後ろへと手を伸ばし、戸惑う那珂を放って、那珂が持ってきた傘を取って車を降りる。
傘をさし助手席側へと回り込んで扉を開け、手を差し出す。
「お前のせいで燃料が尽きた。歩くぞ」
那珂は静かに驚き、恐る恐る手を握ってきた。その手を引っ張り、車からすぐに出そうとしたが勢い余って俺の体へぶつかってきた。
「わっ」
そのまま空いた手で那珂を抱き、ドアを閉める。運転席側へ行ってカギをかけようとしたが、腕の中にいる那珂がやけに緊張してきたのでそれは諦めた。
鎮守府内で提督の車を盗むやつなんていないだろ。
「しっかりしろ」
抱いた手を離し、執務室に戻るため歩き出す。
少し遅れて那珂がついてくるが、傘の外にいるため濡れてしまう。近づく様子がない那珂の手を取って隣へと引き寄せる。
ぱらぱらと傘にぶつかる雨の音。
手に感じる暖かい温度。
本がなくてもこんな幸せな気分になるとは。
あたたかい気持ちになりながら執務室まで手を繋いだまま帰った。
幸せは気をつけて見れば、案外近くにあるものだ、と今日気付くことができた。