法廷に足を踏み入れた萃香と勇儀がまず目にしたものは、百段は軽く超えているであろう階段。この法廷までの廊下同様、大理石で出来たそれは、寸分の狂いもなく無機質に連なっていた。そこから数段区切りで左右に並ぶ長机は、人が座っていないにも関わらず押し寄せるような圧迫感を抱いている。いくらか進んだ先にある証言台を中心として半円状に作られているこの法廷だが、静寂、無音、奇妙な程にただひたすら静かだった。
「静かだね。入口はあんなに騒がしかったのに」
「確かにそうだな。いや、仲良く雑談してるとは思わなかったけど、流石に誰も居ないとは意外だった」
勇儀が物珍しそうに辺りを見回しながら言った。壁画などは無く、純白の壁が部屋を囲んでいるため、照明の光を更に明るくしている。
「……おかしい」
ぽつりとこぼした小町の表情が怪しく曇る。その視線の先を追うと、階段の終点にある一際目立つ豪華な机に向けられていた。側面、上面と、何やらよくわからない金装飾がそこかしこにつけられている机。人丈程の燭台が机を挟むように左右両端に置かれ、灯る炎が揺らぐ姿は今にも消えそうだ。
何かに引っ張られるように、小町の足は階段へと急ぐ。右足が一段目に掛かった途端、小町は枷が外れたように駆け上がって行った。
「……映姫様っ!!」
息を切らし頂上にたどり着いた小町が発した第一声は、上司の名を呼ぶ叫び声だった。異常事態を悟った鬼たちが、急ぎ階段を登る。下から見えていた豪華な机の後ろに、目的の人物はいた。
そこに着いて、ようやくわかった辺りの様子。机の上は紙や筆記用具が散乱しており、床にまで転げた硯が、散らばっている紙を黒く染め上げている。
それらの上に被さるように倒れていた、小さな閻魔。お世辞にも体調が良さそうとは言えず、呼吸をすることさえ辛そうにしている。
「……こ、小町……ですか。あなたはまたサボって……」
どうやら意識はあるらしく、小町に抱き抱えられた映姫は、小町への小言と一緒に薄ら目を開いた。萃香たちの存在に気が付くと、刹那驚いた様子を見せたが、すぐに納得した表情に変わる。
「あぁ……、彼女達を連れて来てくれていたのですね……」
「そうですよ!だからサボっていたわけではないんです!」
「それは、ご苦労でした。日付は指定しなかったものの……やはり、すぐに来てくださいましたね。では……早速要件、ですが──」
「そんなことは後で良いですから!」
起き上がろうとした映姫を制するように、小町は言葉を被せる。
「早く医務室に行きましょう!」
「いや、です……! 他人に迷惑などかけられません」
「じゃああたいに迷惑をかけてください! いつも迷惑をかけているお返しです!」
「それとこれとは話が違うのです……! それに、私はいつも通りですから放してください」
駄々をこねる子供のように、映姫は小町の腕の中でもがいて見せる。その姿は、閻魔とは到底思えないほど幼稚で無様で酷いものだった。
「それのどこがいつも通りなんですか! いい加減にしないとあたいが倒れてしまいますよ!!」
「何言ってんだお前は」
映姫の顔に付いている墨汁を緩んだ笑顔で拭き取る小町に対し、萃香はじっとりとした視線を送る。
「はぁ……。ちょっと前、失礼するよ」
一つため息を吐いた勇儀は、そう言って小町の正面に立った。何事かと見上げる小町の前で彼女は右肩を回す。すかさず小町の腕の中にいた映姫を強引に引き剥がすと、仰向けになった彼女の鳩尾を目掛けて拳を落とした。
「っ……!!」
もともと衰弱していたせいでもあるだろうが、映姫は唸り声も無く簡単に意識を手放す。
小町の顔は、この世の終わりが来たかのように、瞬く間に青ざめていった。
「なっ……なっなっなっ! 何をするんだい!!」
「こうでもしないと意地でも梃子でも動かんだろう。さぁ、医務室はお気に召さないみたいだから家にでも運んでやろうか」
力なく横になっている映姫を勇儀は軽々と持ち上げると、米俵のように左肩に乗せた。その横で萃香は、散らかっている周りを簡単に片付け始める。床にぺたんと座り込んだままの小町は、某然として言葉を失っている。
床に落ちていたものを全部拾い終えた萃香は、転倒していた椅子を起こすと、最後に小町の腕を引っ張って立たせた。
「ほら、案内してくれよ」
「え? えっ……えっと」
「時間ないんだからさ、ほらほら」
「あ、ああ。……取り敢えず玄関まで向かおうか」
それを聞いた勇儀は短く返事をすると、一足先に階段を下って行った。軽く頷いた萃香もそれに続こうと歩き出す。
「ちょっ、ちょっといいかい?」
「ん?」
呼び止められた萃香は、くるりと体を回して小町に向ける。
「なぜ萃香はそんなに冷静なんだい? ……目の前であんなことが起こったっていうのに」
「あぁ……なんだ、そんなこと」
少し俯き笑みを零した萃香は、またくるりと回り、階段を下って行った。直ぐに見えなくなるその小さな後ろ姿から、こんな声が聞こえてくる。
「いつものことだからさ」
小町はこの時、鬼というものを僅かだが理解出来たような気がした。
◆
「よいしょ……っと」
どさりと、勇儀は床に敷かれた布団の上に映姫を寝かせる。衝撃で僅かに顔を歪めた映姫だったが、まだ起きる様子はない。
「はぁー……。まったくもって、やれやれだよ」
映姫を家まで届けて一安心したのか、小町が畳の上に体を投げ出した。い草の独特な香りが、乱れていた心を落ち着ける。
結局あの後、特に揉め事もなく映姫の家まで辿り着いたわけなのだが、周りから送られた、刺さるような視線に小町はいたたまれない気持ちでいた。何せ鬼が二人、地獄ではなくしかも彼岸に居るだけで非日常的であるというのに、その鬼が気を失った閻魔を担いで歩いているのだからたまったものではない。まさか誘拐かと疑う者もいたようだが、隣を小町が歩いているあたりその可能性はないと判断したらしい。困惑しながらも干渉せずに、視界から外れるまで訝しげな視線を彼らは送り続けていた。
そんなこんなで到着した映姫の家。閻魔だからと言って周りと一線を画すほど立派な建物に住んでいたわけではなくそこは、少々物寂しい場所にある、少々背の低い草原に囲まれた、少々大きめの平屋だった。これまた少々歩けば彼岸の川にたどり着け、日によっては川のせせらぎが少々聞こえてくる。
「さっきはすまなかったな。あんたの上司を殴ってしまって」
「あたいに言われても……。映姫様が起きた時に本人に言ってあげてくれ」
「見ていられなかったんだ、あそこまで心身弱り切った閻魔を」
部屋には体を向けず、開け放たれた障子から見える庭を眺めたまま言う勇儀。その後ろ姿は深い哀愁を漂わせている。
「……もう見たくないんだよ。上に立つものが弱った姿なんか」
「過去に何かあった言い草だね」
「…………」
彼女は何も答えない。
僅かに吹いた風が、寂しく彼女の髪を揺らす。
「にしても、あんな閻魔は今まで見たことないな。なんだかんだ付き合いは長い方だけど」
勇儀が雑に転がした映姫の寝床を整えてあげていた萃香が言った。
「あたいが死神になる前からの付き合いらしいじゃないか。かなり前に映姫様と雑談をしていた時に、ちらりと噂は聞いていたよ」
「えっ、どんな噂? 閻魔に裁かれるほど大きな事件は起こしたことないはずだけどな」
「噂というよりかは警告かな? 『鬼とは酒を飲んではいけません。特に伊吹萃香と星熊勇儀は特別気を付けて下さい』ってさ。その昔、一度酔い潰された事を根に持っているみたいだったね」
カラカラと笑い声を上げる小町。彼女の笑い方は、自然と話し相手も笑顔にしてしまう。
「あぁー、あったねそんな事が。あはは、いやあれは私が悪いんじゃなくて……おっと」
萃香が弁解を始めようとした時、横たわっていた映姫が微かに体を動かした。小町は跳ね起き、映姫のすぐ横にいた萃香を押し退けてそばに寄る。
「映姫様、わかりますか?! 小町です!!」
映姫の両肩をこれでもかというくらい激しく揺する小町。それを嫌がるように体を少しよじった映姫は、重々しくその瞼を開いた。
「ここは……私の家、ですね。私はいったい……どうして……っ!!」
おぼろげな表情を見せていた映姫は目を大きく見開くと、小町を跳ね飛ばして起き上がった。
「いったい……いったい、どれくらい私は気を失っていたのですか?!」
今度は映姫が小町の肩を揺すり、凄まじい剣幕で小町に詰め寄る。
「こ、小半刻、くらい、です」
「なんと……!!」
小町を仰向けに突き飛ばし、頭を抱えた映姫。その顔は完全に血の気を失っている。
「わた、私が気を失ってしまったせいで、霊力封印の術が解けてしまいました……!!」