博麗神社にて
「ちょっと萃香! あんたまた昼間っから酒飲んでんの!?」
木々の触れ合う音さえも聞こえてくる静かな神社の境内に、そんな場違いな大声が響き渡った。
「まぁまぁ、これは命の次に大切なものなんだよ。怒らないでさ、霊夢も飲めばいいじゃないか」
そして先程の叫び声とは相反して、今度は緩い返事がまたどこからか聞こえてくる。
ここは博麗神社。
博麗霊夢という、由緒正しき博麗の名を継いだ巫女が住む神社で、幻想郷の最東端に位置しており、また幻想郷と現実世界との境目となっている場所でもある。神社そのものはそれなりの大きさがあるのだが、その大部分は居住スペースとなっている。
そんな贅沢な暮らしをただ一人で、と言いたいところなのだが、少し前からそうでもなくなってしまっていた。
と言うのも、鬼の伊吹萃香が居候のような形で博麗神社に滞在しているのだ。これには色々訳があるのだが、まあ場所は有り余っているから、と霊夢は渋々黙認している。しかしそのような、本来肩身の狭い立場でありながら、この鬼は昼間から何もせずに酒を飲んでいるので、現在霊夢は声を荒げているというわけである。
「あんたには『それ』があるからいくらでも飲めるけどね、私には昼間っから飲めるような酒はないの」
霊夢は神社の縁側に腰掛けていた萃香の横に座ると、萃香が手にしている瓢箪を横目に静かにお茶をすすった。それを知ってか知らずか、萃香はお茶を飲む霊夢に見せ付けるように瓢箪を傾け、酒を一煽りする。
「霊夢にこの酒は無理だと思うよ。人間が飲んだら一口でぶっ倒れるくらいキツイ酒だからね」
心地良さそうにゆらゆらと頭を揺らしながら萃香は言った。霊夢は小さく鼻で笑う。
「誰も欲しいなんて言ってないわよ。だいたい、私にはまだやることが残ってるから酒なんか飲んでいられないの」
そう言うと霊夢はどこからか饅頭を取り出し、まるであげる気はないわよとでも言わんばかりに頬張り始めた。もしゃもしゃと、こちらも知ってか知らずか音をたてる。
「……やることって、霊夢に掃除以外仕事ってあるのか?」
「…………」
萃香のこの発言に、霊夢は口に饅頭を運ぶ動作を途中で止めた。その状態でしばらく沈黙が続く。
そして何も言わずに静かに手を下ろすと、口の中の饅頭をお茶でゆっくりと流し込み、萃香に向かって不自然な笑顔を見せた。
「あら、あら。じゃあ、居候中の萃香ちゃんに、お仕事手伝ってもらいましょうか?」
そう言ってにっこりと微笑む霊夢。
────彼女の眼は全く笑っていない
「あ、あれ? 急に酔いが回ってきたなぁ……」
萃香はわざとらしく頭を押さえると、引きつった笑みと共に霊夢から距離をとった。彼女の動きに合わせて霊夢も、不気味な笑顔のままジリジリと腰を滑らせて萃香に詰め寄る。
「どこに逃げるつも……あら?」
────ふっ
と、突然二人の前を、何かの影がちらついた。影が通った後には数枚の黒い羽が浮遊している。
「……はぁ……。面倒なのが来たわね」
軽くため息をつくと、お茶を飲みがてら霊夢は空を仰いだ。その目線の先からは、先程の影の正体であろう人物がゆっくりと下りてくる。カツン、と、一本歯の下駄が小気味よい音を鳴らした。
「どうもどうも。清く正しい幻想ブン屋、射命丸文でございます」
特徴的な黒い烏の翼を羽ばたかせながら、文は二人の前に降り立った。
白いブラウスに黒のスカートという学生の様な格好をしている彼女は、肩からは写真機をぶら下げ、片手には手帳を構えている。頭には、彼女のトレードマークとも言える赤色の小さな頭巾を乗せた烏天狗が、営業スマイルを掲げながら少し霊夢達に歩み寄った。
「最近は平和ですねぇ。異変ってものは、解決すると寂しくなりますね」
文は自分の手帳をめくりだすと、途中で同じページを往復させる。恐らくそのページ付近で前の異変が解決し、それから書いてあるネタが少ないのだろう。
文屋がネタに困るということからも、目立った出来事がほとんど無いことがわかる。
「あんたは大概写真録ってるだけじゃないの。解決するこっちの身からしたら、これくらいの休憩は欲しいものよ」
「でも異変があれば直ぐにでも飛びつきますよね。何だかんだ言って」
「う……」
何も言い返せないのか、霊夢は少し悔しそうな顔をする。言葉の出てこなかった口を潤すようにお茶を口に含んだ。
そして、霊夢を見てケタケタと笑っていた萃香を一瞥し、彼女を黙らせる。
「とりあえずあんたもご存知の通り、ここにはあんたが喜びそうなネタは無いわよ」
霊夢はぶっきらぼうにそう言う。文屋に対してはこういう扱いをしておかないと、何かを聞き出すまで延々と付き纏われるのが目に見えている。
「あやや。異変は無くても、霊夢さんの周りからネタが尽きることなんてないんですがね」
文は何が可笑しいのか、くすくすと笑う。
「ちょっと、それってどういう意味よ」
「言葉通りの意味ですよ。例えば霊夢さん。何か忘れている、大事な事とかありませんか?」
文の言葉に、霊夢は首を傾げた。
「忘れている事? 忘れるくらいなら大事な事でもないでしょう」
「まあそれはそうなんですが、おかしいですねぇ……」
文は手帳へと目線を落とし、さも不思議げに自分のこめかみをペンでつついた。
「さっき飛んでいた時に、物凄い爆発音が聞こえたので、そちらへ向かったんですよ」
文はここでわざわざ話を止め、覗き込むように霊夢の顔色を伺う。反応を見て楽しんでいるようだ。
「そんなのどうせ、どっかの不老不死人間共が暴れてるんでしょ。私には関係ないじゃない」
冷たい対応はそのままに、霊夢は先程の饅頭を頬張り始めた。そんな中、萃香はというと黙って二人のやり取りを見ている。
「いえいえ、妹紅さん達ではありませんでしたよ。彼女たちの活動時間は基本的に 夜ですからね。そういえば最近、妹紅さんが久々に勝ったらしく、輝夜さんが荒れていましてね……、あ、話を戻します。しばらく飛ぶと、見えてきたのは賢者さんの屋敷でした」
「紫の屋敷ねぇ……、あれ……?」
霊夢は何かを思い出したような表情をした。刹那、わずかに口角を上げた文を、萃香は見逃さなかった。
「はい。そして上空から様子を伺ったんですが、庭に藍さんが出ていましてね」
文の話が進むにつれ、霊夢の顔はどんどん青ざめていく。霊夢の様子に、文は核心を突いたかのような、もう面白くて仕方がないような、ニヤついた笑顔を見せた。
「『博麗ぃぃいぃ!!』って、絶叫していましたが……」
「う、うわぁぁぁぁ!!」
絶叫と同時に手にしていた饅頭を放り投げると、霊夢は神社の中へと慌てて消えて行った。投げられた饅頭は見事に文の手に収まると、代わりに彼女によって食べられていく。神社の中からは、廊下を忙しく走り回る音と、何かを漁っている物色音が聞こえてきた。
その場に残された文と萃香の間には、しばらくの沈黙が流れる。
「……霊夢さんは一体何を慌てて探しているんでしょうねぇ。……あ、これ美味しい」
「……ところで、天狗」
神社の中を覗き込んでいた文は、萃香へと顔を向けた。
「本当は私に用があるんだろう? わざわざ霊夢を追いやって、そんなに大事な用事なのか?」
特に会話に参加していなかった萃香が、開口一番にそう言った。萃香の言葉に、文は驚きの表情を見せる。
「あやや。ばれちゃいましたか。でも、どうしてそう思ったのです?」
「そんなの簡単な話じゃないか。天狗が鬼の前に姿を現すのは、宴会の時か、余程の 用事がある時か、喧嘩を売りに来た時だけだ。この私がいる場に気軽に来るとは考えられないからね」
「では、喧嘩を売りに来たのかもしれませんよ?」
「……ほぅ」
萃香はそう呟くと、瓢箪に視線を落とした。そしてそれを傾けると、喉を鳴らしながら中身を飲みはじめる。
最後の一滴まで口に入れると、手に持つ瓢箪を威圧的に床へと置いた。終わりに大きくゴクリと喉を鳴らし、鋭い目線を文へと向ける。
「ひぃっ!」
途端、文は体を少し震わせ、数歩後ろへと下がった。文の額には、大量の汗が流れ始めている。
「じょ、冗談ですよ! わた、私が鬼に喧嘩なんか、売るわけがないじゃないですか。だから、その『畏れ』を飛ばすのは、止めてください!」
上手く回ってくれない舌を必死に動かし、なんとか弁解をしようとする文。
「……なんだ、久々に喧嘩できると思ったのに」
ちぇっ、と不満を口にすると、萃香はつまらなさそうに両手を頭に回しながら足をばたつかせた。
畏れ、それは鬼の威厳、威圧、風格、実力、それら全てを含めた一種の覇気である。
鬼は他の妖怪から尊敬され、また恐怖されることで自分達の畏れを強くしていく。萃香がしたことはいわゆる威嚇行為であり、畏れを改めて強く誇示したことで、相手に力の差を見せ付けたと同時に戦闘の意思も示した。特に天狗にとって、鬼は昔から上司に当たる存在であるため、今でも頭が上がらない文はまさに蛇に睨まれた蛙となったのだ。
ふと、神社の中から足音が近づいて来る。
「こら萃香! なにがあって殺気を飛ばしてるのか知らないけど、人の神社の庭で暴れないでよ?!」
部屋の中から顔だけ出した霊夢は、そう言って萃香に釘を刺すとまた中へと消えて行った。
「やっぱり霊夢は勘が鋭いなぁ」
たはは、と小さく笑い、萃香は自分の頭をかく。もうそこには、先ほど見せた鬼の面影は微塵もなく、見た目相応の女の子しかいない。
「……萃香さんって変わっていますよね」
「まあ、よく言われるね」
文は萃香の『畏れ』が消えたことを確認すると、萃香の隣に腰掛けた。そして饅頭だけに止まらず、先程霊夢が飲んでいたお茶までも口にする。
「他の鬼ならさっきの冗談でも問答無用でしたでしょうに。萃香さんは、実は喧嘩がお嫌いでしたか?」
「まさか。相手が望まない喧嘩をしたくないだけだよ」
萃香は相変わらず足をばたつかせ、流れる雲を見つめていた。昼間のこの時間帯、特に快晴の日には、点在する雲がより浮き出て思わず見とれてしまう。
博麗神社は、幻想郷でも比較的高い位置に建てられている。次いで神社の縁側からは裏庭が広がり、山の傾斜によって幻想郷が一望できるようになっている。さらに付近は森で囲まれており、空気がとても澄んでいるが故、雲一つ見るにしても絶景なのである。
また神社は幻想郷と現実世界との境目、具体的には博麗大結界と現実世界の境界にあるので、夜に現れる月の見え方が幻想郷内と外では違う。そのために、幻想郷の住人達の宴会場となることがしばしばあるのだ。
「それじゃあ、ただの暴力に成り下がるからね」
萃香はどこか寂しそうな様子でぽつりと呟く。そして何かを振り払うように、縁側からぴょんと跳ねて庭へと着地した。彼女はその場で大きく伸びをして、体を捻り始める。
「なるほど。そういえば貴女は、異変を起こした後も地上に居ますよね。……もしかして鬼の仲間から外されたとか?」
「…………」
何も話さない萃香に、地雷を踏んでしまったと思った文は慌てて言葉を発した。
「も、もちろん有り得な──」
「合っては、いない」
萃香はくるりと振り返った。
萃香の顔を見て、思わず息を飲む文。その表情には、悔しさや悲しみなど、鬼には到底似合わない様々なものがにじみ出ていた。見てはいけないものを見てしまった気がして、文は言葉を失う。
「合ってはいない……けど、近いものはあるね」
「……と、……言いますと?」
「私が、居づらいんだ」
どこからやってきたのか、萃香と文の間で一匹の黄色い蝶が踊り始めた。