夜空には、少しだけ雲に隠れた綺麗な満月が浮かんでいる。空気が澄み切っていることにより、月明かりに照らされる幻想郷は更にも増して幻想的である。そして草村に潜む虫たちが奏でるか弱く優しい音色が、また一段と雰囲気を盛り上げていた。
「やっぱりここから見る月は、まがまがしてなくて綺麗だねぇ」
萃香は昼間と同じように縁側に座り月見酒を満喫していた。静かにそよ吹く風が彼女の前髪を揺らす。喉をわずかに温める酒の苦味が心地よい。
「はぁ……。今日はほんと、色々と疲れたわ」
そして徳利とお猪口を手にした霊夢が、これも昼間と同じように萃香の横に腰掛けた。
霊夢の言う『疲れた』というのは、文が帰ってからの出来事である。萃香への説教が佳境へと差し掛かった頃、霊夢は文がもたらした情報をふと思い出した。と同時に大絶叫をすると、すぐさま全速力で藍の下へ向かったのだった。萃香の腹の虫も泣きつかれた頃に神社に帰ってきた霊夢の顔は、体力気力共に尽き果てていた。もはや枯れ果てていたと表現するほうが近い気もするが、恐らく藍にかなり物を言われたのであろう。
「結局、文の用事は何だったの?」
「ん? あぁ、これを貰ったんだ」
萃香は、昼間に文から受けとった手紙を霊夢の横でひらつかせる。
「手紙? 誰から?」
「閻魔からだったよ。頼み事があるから勇儀と一緒に彼岸まで来てほしいんだってさ」
ふーん、と霊夢は呟く。
「閻魔が誰かに手紙ってのも聞かないけど、頼み事をするのはもっと聞かないわね」
そう言うと、霊夢はお猪口に口を付けた。中の酒がするりと消えていく。気分が乗っているのか、彼女はこの短い会話中に何回もお猪口を空にしていた。その度に次々と酒が注ぎ足されていく。
「……あら、もう無くなったわ」
垂直に傾き上下に揺すられる徳利。落ちまいとしぶとくしがみつく水滴と、霊夢は睨めっこを始めた。
「ほら、持って」
そんな霊夢の様子を見ていた萃香は、自分の瓢箪を霊夢のお猪口に近付ける。
「あら、悪いわね」
萃香の行動に気が付いた霊夢は、お猪口を持ち上げ、瓢箪から流れる出る酒を受け止めた。擦り切りいっぱいになった酒に夜空の満月を写す。ぐにゃりと最初は歪み揺らめいていたそれも、少し時がたては真円を描く。彼女はそれを愛おしそうに眺めると、一気に口へと流し込んだ。
霊夢は既に酔い始めていた。理由はそれだけで十分だった。
「……ぶっ!!」
霊夢の口に流し込まれた液体は、残念ながら彼女の喉を通ることはなく、当然吐き出されることとなった。
「げほっ……あんた……! これっ、……あんたの……っ!!」
激しくむせながら喋る霊夢だが、全く文章になっていない。
「あっはっは! 意外とすんなり騙されるもんだね。いやー、面白い」
笑う萃香を横目に、胸に手を当てて必死に呼吸を整える霊夢。その眼にはじんわりと涙が浮かんでいる。萃香は遠慮なく笑いながら立ち上がると、体をふらつかせつつも神社の中へと入っていった。
「……やられたわ」
涙と一緒に滲み出た霊夢の悔やみが、虚しく夜空に吸い込まれて行った。
霊夢の呼吸が整った頃、萃香は水の入った湯呑みと一升瓶を手に持ち、相変わらずの千鳥足で帰ってきた。そして湯呑みを霊夢に手渡し、瓶を抱えながら座る。
「ありがと……って、原因は萃香よね」
「まあまあ、新しい酒を持ってきたから良いじゃないか」
そう言うと、萃香は瓶の蓋を開け中身を直接飲み始める。乱暴に置かれた蓋が縁側から転がり落ちたが、酔っている萃香がそんなことを気にするはずもなく、幸せそうに喉を鳴らし始めた。
「持ってきたって、それうちの酒でしょ」
水を口にしていた霊夢はすかさず萃香の手から瓶を取り上げると、自分のお猪口に中身を注いだ。瓶を取り上げられた萃香は、文句の声を漏らす。
「そんなちびちび飲んでも旨くないぞ」
「私はこれでいいの」
この会話を皮切りに、二人は黙って月見酒を堪能し始めた。満月を隠しては見せ、見せては隠す雲が、ゆるりとした時の流れを感じさせる。団子もつまみも無い、酒だけの小さな宴会ではあったが、二人にとっては夜空に浮かぶ満月が十分な肴となっていた。
◆
一升瓶の中身も空になってきた頃、霊夢は思い出したように口を開いた。
「そういえば、閻魔の所にはいつ行く予定なの?」
良い具合に酒が回り、うとうととしていた萃香は、霊夢の声で目を覚ます。
「ん…………? あぁ、どうしようかな。特に日付は指定されてなかったけど、じゃあ明日にでも出るよ」
「勇儀とはどうやって合流するつもり? 明日行くってのは、萃香が今決めたことでしょ」
まるで母親であるかのように霊夢は萃香に問い掛ける。実際日頃から霊夢にお世話になっている萃香からすると、霊夢は母親のようなものなのかもしれない。
「勇儀のこと忘れてたな」
「忘れてたってあんた……」
萃香の夢み心地な返答に霊夢は呆れ果て、ため息混じりに頭を押さえた。
「……うん、萃めようかな」
そう言い残すと萃香は、その場で静かに目を閉じた。途端、彼女の周りをぼんやりと光が包み込む。同時に神社を囲む木々達がざわめき始めた。辺りの空気が一辺する。
「萃めるって、勇儀を?」
霊夢が話し掛けたが、萃香は霊夢の言葉には返事をせず、ぶつぶつと独り言を呟いていた。眉をしかめる霊夢だったが、邪魔をしてはいけないと口をつぐむ。
「勇儀だったね……えっと……、これかな? …………よし」
そんな萃香の呟きと共に、神社の遥か遠くの空から、一つの小さな光がふわふわと飛んできた。その光は萃香の下へたどり着くと、彼女の周りを旋回する。幾度か旋回した後に、やがて彼女の体へと吸収されていった。光が吸収されると彼女の周りを包んでいた光も消え、萃香は目を開いた。
「……何したの?」
霊夢は不思議そうな声色で、萃香にそう尋ねる。
「勇儀の意識をここに萃めた。多分、明日の昼にでも姿を見せるはずだよ」
「勇儀に呼び掛けたってこと?」
萃香は腕を組むと首を横に傾ける。
「ちょっと違うかな。ほら、私が異変を起こした時と同じさ。自然と勇儀の足がこの神社に向かうようにしたんだ」
萃香のその言葉で、霊夢は納得したような表情をした。
「なるほどね。つくづく便利な力だわ」
「昼間に天狗に言われて、久々に異変の事を思い出したよ。懐かしいなぁ……」
萃香はうっすらと笑みを浮かべると、視線を満月へと移した。ところが満月は、徐々に増えてきた雲によってその姿を隠し始めている。彼女は黙ってその終始を見届けた。
「……月も隠れたし、今日はもう終わりかな。少し飲み足りないけど」
殆ど空になった瓢箪を揺らしながら、萃香は残念そうに呟いた。
「あら、」
――――どんっ。
と、萃香の横で何か重たいものが床に置かれる音がした。萃香が驚いて目をやると、いつの間に取りに行っていたのか、霊夢が新しい一升瓶と共に座っている。
「月が隠れていても、思い出話だって立派な肴になるわよ?」
瓶と一緒に持ってきていた、紅色の小振りな盃を萃香に渡すと、霊夢は瓶の蓋を開けその盃へと酒を注いでいく。
「異変の時に私以外と戦った話とか聞いてみたいわね」
萃香は霊夢の一連の行動をただ呆然と見ていた。
「どうしたの? もしかして違う酒がよかった? あんたが好きそうきつい酒は、私が好きじゃないからあんまりうちには置いてないのよね……」
「……ふふっ。ありがとう、霊夢」
「……何よ、改まって気持ち悪い」
「いや……うん、えへへ」
薄ら笑みを浮かべながら、渡された盃に口を付ける萃香。酒が原因なのか、はたまた別の何かが原因なのか、彼女の頬はほんのりと色付いていた。
「まったく……酔いすぎかしら? やっぱり寝る?」
「いやいや。話題はたくさんあるから、寝るのは明日の朝になるかな」
「えー……っ。徹夜だけは勘弁してほしいわね」
口では嫌そうなそぶりを見せる霊夢だったが、彼女の手は着々と自分が飲む酒を準備していた。その顔には、萃香と同じように微笑みを浮かべて。
この後二人は、案の定朝まで飲み明かすこととなる。普段は大人数で宴会をすることが多いため、一対一で話すことが余程珍しかったのであろう。萃香が起こした異変の話題から始まり、それが終われば友人の話題や、各々の他愛もない話題へと移っていった。そうして朝日がその頭を見せ始めるまで、二人からは一向に話題が尽きることはなかった