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萃香は人里を歩いていた。何か考え事をしているのか、人里の中央を貫く大通りを、腕を組み、下を向きながら歩いている。客寄せをしている八百屋の大声も、数人の子供が集まって遊んでいる声も、その母親たちの騒がしい世間話の声も、彼女の耳には全く届いていないようだった。逆にそんな人里の人間も自分たちに夢中なのか、通りを歩く萃香の存在には気が付いていない。
どこからか、萃香に向かって鞠が転がってきた。萃香の足元に当たった鞠は、僅かに跳ね返るとやがて静止する。鞠が当たった衝撃で我に返った萃香は、そこでようやく鞠の存在に気が付いたようだった。彼女は鞠を拾い上げると、軽く投げ上げたり回したりと、自分の手でしばらく遊ばせる。桜の装飾が点々と見え、少し使い古されてはいたが、薄い桃色をした綺麗な鞠だった。
萃香が鞠を眺めていると、小さな足音が近づいてきた。目線を上げてみると、子供の群れから小さな女の子が萃香に向かって走ってきている。その女の子の接近に萃香は少々たじろいだ。昔馴染みの人物以外は人間と、ましてや子供と接する事なんて、今までほとんど無かったからである。
その女の子は萃香の前で立ち止まると、一生懸命走ってきていたのか、両膝に手をつき呼吸を整え始めた。その間萃香は、目の前の女の子をじっくりと観察していた。
綺麗に撫で付けられた黒髪は肩程で切り揃えられ、前髪は向日葵の装飾が付いたかんざしで留められている。質素な黄褐色の着物を着ているが、所々破れているのと、腕や足に付いているいくらかの擦り傷から、女の子がかなり活発な娘であることが伺えた。
呼吸が整ったのか、女の子が勢いよく顔を上げた。同時に萃香の体には緊張が走る。彼女自身、何故人間の女の子相手に自分が緊張しているのか不思議に思ってはいたが、徐々に強張る体には逆らえなかった。
「鞠っ!」
そう言って、女の子は萃香に向かって両手を差し出した。女の子の声に身構えた萃香だったが、彼女が言った意味を理解していくうちにあたふたとし始める。
「え、あ……、ま、鞠? あぁ、こ、これ……?」
萃香は自分が手にしている鞠を、恐る恐る女の子へと手渡した。
「うん! ありがとう、鬼さん!」
鞠を萃香から受けとった女の子は、一度鞠を強く抱きしめると、無邪気な笑顔を添えて萃香に礼を言う。
感謝以外に何も含まれていない無邪気なその笑顔は、とても綺麗で眩しいものだった。萃香の心は安心感で満たされていき、体を強張らせていた自分を笑った。自分の考え事なんてちっぽけな物だったと、萃香はそんな心地さえする。
唐突に、衝動的に、萃香はその笑顔に触れてみたくなった。
頬を優しく撫でてやれば、もっともっと笑ってくれるのだろうか。
そうしたら、楽しく会話なども出来るのだろうか。
人間の子供の遊びを、たくさん教えてくれるのだろうか。
もしかしたら家に上げてもらう、なんてこともあるのだろうか。
他愛もない会話を交わしながら、女の子の父親と飲み比べなど出来るのだろうか。
それを機に、他の人間とも……
萃香がそんなことを思っていると、彼女の右手は自然と女の子へと伸びていた。
もう少し、もう少し。
少しずつ右手は女の子の頬に近付いていく。
そして、今にも頬に手が触れそうになった時。
――――一瞬にして、女の子は萃香の視界から消え去った。
いや、あまりにも突然の出来事に彼女がそう錯覚しただけであって、実際は、そして現実は違った。
「うちの娘を殺さないで下さい!」
一人の女性が、おそらく女の子の母親なのだろう、女の子を抱きかかえ萃香から逃げようとしている。ところが走りだしたところで足がもつれ、女の子もろとも倒れ込んでしまった。萃香と目が合うと怯えたように身構える。
「誰か……、誰か助けて下さい!!」
女性の悲痛な叫びが辺りに響き渡った。
「う……、あ……」
萃香は混乱のあまり、上手く声が出せないでいる。そしてただ、何も触れることが出来なかった右手を、呆然と見ているだけであった。
『おい、人が鬼に襲われているぞ!』
『男は武器を持て! 女子供は家に隠れるんだ!』
『まずはあの二人を助けろ!』
先程の女性の叫び声によって、ようやく人里に知れ渡ることとなった萃香の存在。時間が経つにつれ、槍や桑で武装した村人が、まるで怒った蜜蜂のように萃香の目の前に集まってくる。
「わ、私は何もしない!」
なんとか力を振り絞り、萃香は村人たちにそう叫んだ。どうにか理解してもらおうと、敵意の無いことを感じ取ってもらおうと、精一杯両手を広げて、その叫びに願いを込めて。
だが、村人たちの返事は決して快いものではなかった。
『お、お前らはいつも、村の男たちに勝負を挑んでは負かしてさらっていくじゃねぇか!』
『そうだそうだ! 今度は子供までさらうつもりか!』
『鬼が何もしないだと? そんなはずあるか! この嘘つきめ!!』
そんな言葉と共に、何処からか小石が飛んできて、萃香の頬をかすめた。赤い、小さな川が、彼女の頬を流れ始める。もちろん人間が投げる小石程度なら、萃香は軽々と避けられたはずだった。しかし彼女の体は微動だにしなかった。いや、出来なかった。
――――嘘つき。
この言葉が、彼女の頭の中で何度もこだましていた。
「う、嘘つき……? 私が……?」
鬼は嘘を嫌う。それは人間にしても他の妖怪にしても、周知の事実である。そして鬼たちも、情を重んじる身として正直者であることを誇りとしていた。いくら異端児と呼ばれている萃香でさえ、その誇りは決して忘れてはいない。それゆえに、根拠も無しに嘘つき呼ばわりする村人が許せず、またそう言われる自分が情けなかった。
「私が……嘘なんか……」
自分を睨む村人の顔が揺らぎ、目頭がどんどん熱くなってくる。
種族が違えども仲良くなりたい。そして一緒に笑いあいたい。その一心で生きていた萃香。考え事、というのもまさにそれで、人間と仲良くなる為の何かいい案はないかと、人里を歩いていたのだった。当然、鬼が人里を歩けば騒ぎが起きてしまうため、萃香は自分の『疎と密を操る程度の能力』を使って、村人たちの意識を疎めていた。そして、人間との交流の第一歩とも思えた女の子との出会い。一つの鞠によってもたらされたその出会いは、萃香が理想としていたものとは甚だ掛け離れた、とても残酷なものとなった。徐々に霞み行く視界の中、萃香の目は女の子を捕らえる。女の子も相当混乱しているようで、母親にしがみつきながらじっと萃香を見つめていた。
何故女の子は、萃香が鬼だとわかっていながら、臆することなく接したのだろうか。実はその答えは至極簡単なものである。まだ幼い女の子には、大人たちが伝える『鬼の恐ろしさ』が、よく理解出来ていなかったのだ。これは例えば、『火は熱い』という事実を、子供は体験しないと理解出来ないのと同じである。これによって、噂を伝える大人と噂を知らない子供とで、更に言えば、噂に支配されて事実を知らない大人と体験した事実だけに支配される子供とで、萃香に対する接し方の違いがはっきりと表れていた。
『は、早く村から出ていけ!』
二つ、三つとまた小石が萃香に当てられる。
村人たちは、武器を構えながらじりじりと萃香を牽制した。
「………………っ!!」
なんとか和解しなければと、萃香は言葉を紡ごうとしたが、一歩踏み出し、喉まで声が出かかったところでそれは止まってしまう。
どうしても、村人たちの様子からは、もう和解の可能性すら感じ取れないのだ。
『ひぃっ!』
武器を構える村人は、小さな悲鳴と共に後ずさった。敵意剥き出しの表情が、一変して恐怖に変わる。しかし彼女の振る舞いから何もして来ないとわかったのか、『村から出ていけ』その言葉があらゆる村人から飛び交い始めた。
あぁ、人間も鬼も、なんて醜い生き物なのだろう。
萃香はそう思った。もちろん萃香は、人間に自ら喧嘩を売るような真似はしない。自分が勝つとわかりきっているし、人間をさらうことに興味がないからだ。あくまで萃香がするのは『喧嘩』であり、一方的な闘いを望んでいるわけでは無い。実はこの考えは、ほとんど全ての鬼に通じるものでもある。
では、鬼が人間をさらうという噂はどこから来るのか。それはそもそも根本から間違っていた。
『鬼が人間に勝負を挑んでいる』のではなく、『人間が鬼に勝負を挑んでいる』のである。もちろん鬼も多種多様である為、人間との喧嘩を趣味にしている者はごく一部では存在するのだが。
つまりこういうことだ。自分の力を試すため、鬼退治という名声を得るため、村の実力者や専門家たちが鬼に勝負を挑む。片側に明確な殺意があるため、当然決着はどちらかの死をもって、いや、圧倒的弱者である人間の死をもって着く。そのため、事の真実を村に伝える者もおらず、行方不明の理由付けとして、鬼による誘拐が原因だと村の人間は他者に後世に語り継ぐ。鬼からすれば一方的ではた迷惑な噂ではあるのだが、自分たちを畏れ避けることが人間の身の安全にも繋がると判断し、特に訂正をしてこなかった。
私は人間をさらったりしない、萃香はそう言うことも出来たであろう。しかし彼等にとって鬼は鬼。どの鬼が良い奴でどの鬼が悪い奴であるかは関係無いのである。鬼は人間の敵、ただそれだけが噂として、在るべき事実として、揺るがない真実として、人間の間では語り継がれている。今まで噂を理解し得なかった子供も、今回のような出来事を機に頭に焼き付けるのだろう。そしてその敵が今、自分たちの目の前にいるのだから、村人たちの行動は間違っていないのかもしれない。
彼等は先人に伝えられた噂に従っているだけなのだから。
次いで、どの鬼も同じ、それは鬼たちにも当てはまることだった。つまり他の鬼が行ったことは全ての鬼が行ったこと、いわゆる連帯責任ということになる。今の萃香のように、例えそれがどれだけ少数派の行いであっても、他の鬼に掛けられている罪も背負わなければならないのである。
罪を背負うのが、人間思いの優しい鬼であっても。
とうとう萃香はその場から走り出していた。
後ろから聞こえる怒号。村人から投げられる数多の石が、萃香に当たる。
「……うぅ……、ふっ……う……っ」
頬を流れるとめどない涙。少しでも堪えようと必死に唇を噛み締めるが、代わりに嗚咽が漏れてしまう。いくら足を速く動かそうとも、その涙は乾いてはくれない。
村を駆け抜け、湿地を駆け抜け、深い森へと萃香は入っていく。村を抜ければ村人は追い掛けて来るはずもないのに、何かから逃げるようにただただ萃香は走り続けた。
木々が更に密度を増し始めた頃、やがて息も切れ、彼女の足は完全に止まった。彼女は近くの木にもたれ掛かると、その場に小さくうずくまる。
「ふぅ……う……うぅ……」
夜が訪れ、辺りが暗闇と静寂に包まれても、鬼の涙は止まることがなかった。
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