「ど… ど、ど、どして…… どうして… なの… なのら……」
口が震えて言葉を紡げない
プリンの染みだけでは無かった
あやかが慌ててワンピースを脱ぎ、慎重に全体を観察して見れば、スカートの節々に草の汁が付着し、フリルは方々破れ糸が飛び出していた
袖口も何かに引っ掛けた様な裂傷があり、その下の手首の小さな切り傷から、血が薄く滲んでいた
言うまでも無く、この菜の花畑の小一時間で付けられた物であるが、あやか自身は身に覚えが無かった
覚えは無かったが、それがあやかの弁護に一ミリも役に立たない事も分かっていた
(こ… こ… ろ… さ… れ… る……!)
あやかは全力で走り出した
時間は余り無い
お洗濯… そう、お洗濯…!
バイキン持ちのあやかは生まれてこの方、お洗濯なる物をした事が無かった
無かったがやるしか無い
その他の事など、考えも及ばない
とにかくやるしかないのだ
その自宅までの二千メートルは、間違いなく生涯最速を記録した事だろう
靴を脱ぐのももどかしく、玄関に蹴り捨てると、そのまま脱衣場に雪崩れ込む
そこにあるのが洗濯機である事ぐらいは、あやかでも分かる
(神様ぁ… お母ぁさん… た、助けてなのだぁ……)
鞄から取り出したワンピースを、祈りを込めながらそこに投げ入れ、近くにあった洗濯洗剤を三杯ほどぶち込む
"スタート"と書かれたスイッチを押す
全て見様見真似
果たしてガタガタと音を立て、洗濯機は回り始めた
「はぁぁ……」
あやかは空気が抜けたビニール人形の様に、洗濯機を背にしてへたり込む
なんでこんな事に…
あやかはただ…
時間さん、戻って… せめて止まって……
あやかは胸の前で手を握り合わせ、カタカタと震えた
「!?」
どの位そうしていただろうか、ふと焦げ臭い匂いがあやかの鼻先を掠める
如何に知恵故障と言えども、その原因が己の仕業である事は直感で察せた
「えっ!? イヤッ!!」
その匂いは洗濯機の中から…
正確に言えば… 乾燥機の中から漂った
知恵故障で未経験の彼女には、洗濯機とその上の乾燥機の判別が付かなかった
あやかの感覚では、上は軽い洗濯物、下は重い洗濯物… その程度の物だった
二分の一は味方しなかった
慌てて蓋を開けようとするが、運転中は開かない
不運に不運が重なり"しっかり乾燥モード"になっていた乾燥機の中で、ワンピースは洗濯洗剤を纏って炒られまくる
「止めて~! 止まって~!! ストップ! ストップなのだぁ!!」
必死にパネルのボタンを押し捲る
漸く偶然が停止ボタンを押し、窓の向こうのワンピースが回転をやめる
「うわぁぁぁ!? うわぁぁぁぁぁ!!」
取り出したワンピースはしわしわになり、広げると半分程のサイズに縮んでいた
それが化学製品が焦げた時に発する、特有の悪臭を放っていた
「あぁぁ…… あぁぁぁぁぁ……………………」
あやかはその場にへたり込む
彼女の股の間から、床に液体が広がり始めた
『さやか姉、お元気ですか? 先立つ不幸をお許しして下さい、なのだ あやかは、さやか姉の大事なワンピースを駄目にしてしまいましたのだ ここに死んでおわびいたします事を、意思ひょうじします 風上あやか』
あやかはテレビドラマで見たそれをヒントに遺書を認める
それを最早原型を留めないワンピースの成れの果てと共に、さやか姉のベッドに並べて置いた
自室に戻ったあやかは小さくため息を付く
こうするしか他にないのだ
そろそろ自分のこのダメダメ人生にもお別れしたいと思っていたのだ
やりたい事はまだまだあったけど、生きてさやか姉に相見える事など出来はしない
そこまで図太くはない
やっとお母さんに会えるのだ
そう思えば悲しみもない
苦しみはきっと一瞬…
あやかは錠剤の詰まった瓶の蓋を開け、その中身をこんもりと掌に乗せる
これまたテレビドラマのヒントである
このお薬を大量に摂取すれば、やがて深い眠りに誘われ、そのまま目を覚まさないのだ
まどか姉がそのお薬を持っている事は知ていた
美容を保つ為のお薬…
きっとそれは"睡眠薬"…
あやかは"チョコラBB"と書かれた瓶の中身を二十錠余り口に詰めると、それをダメ押しとばかりに冷蔵庫にあった缶ビールで胃に流し込んだ
「にが……」
初めて飲むビールの味に嘔吐くあやか
何とか吐き出すのを堪え、そのままベッドに横になる
目を閉じると、時計の針の音が異常に大きく聞こえた
大量の睡眠薬にビール…
確実であろう…
あやかは子供の頃を思い出した
今生の初めての記憶は多分、歩行器に乗ってタンスに体当たりしている所だと思う
まどか姉とさやか姉の明るい笑い声が耳に残っている
まだ元気だったお母さんと、朧気な後ろ姿しか覚えていないお父さん…
何かが嬉しくて仕方なくて、あやかはみんなに両手を振っていた…
頭がぼんやりしてきた
顔が火照っているのを感じる
いつしか意識が朦朧とし始め、そしてあやかは眠りに就いた
気が付くとそこは金色の漣が揺れる美しい世界だった
(菜の花畑なのだ…)
あやかは直ぐに分かった
そこが大好きなあの場所である事が…
もう散った筈の菜の花が、そこでは眩し程に咲き乱れ、その上を優しい風が繰り返し吹き抜けていた
何処からか現れた一匹の黒い揚羽蝶が、あやかの前で華麗なダンスを披露する
(黒揚羽さん… 久しぶりなのだ…)
あやかが手を伸ばすと、黒揚羽はその人差し指の先に止まった
(!?)
その瞬間、不意に自分の身体が光を放ち始めた
呆気に取られている内に、徐々にその光は弱まって行く
そしてそれが消え去ると、あやかは菜の花色のワンピースを身に纏っていた
(菜の花のプリンセスなのだ…)
金色の世界の、菜の花のプリンセス…
あやかの夢は、遂に現実となったのだ……
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっ!!!」
耳をつんざく大絶叫があやかの鼓膜を刺激した
「う… うん?」
目を開けると、そこは見慣れた天井の下だった
『ドンッ!!』
ドアを乱暴に閉める音がして、大股に廊下を蹴る足音があやかの部屋に迫る
「あぁ…………」
あやかは全てを察し、両手で顔を覆った
夢が覚め、現実という名の長い悪夢が始まった