「む~ぎな~みちゃん、あ~そび~ましょっ! …なのだ!」
接触不良の蛍光灯が瞬くマンションの通用路
あやかは小鳥の様に両手を身体の脇に羽ばたかせながら、そのスチールドアが開くのを待った
程無くしてその向こうに人の気配がして、ダークグレーの重厚なドアがゆっくり押し広げられた
「あやかちゃん!? こんな時間にどうしたの~?」
ふわりとしたロングヘアーを靡かせて、あやかの気の置けない学友の筆頭が顔を覗かせた
「あやかとあ~そび~ましょっ! なのだ!」
とても大切な事なので二度言った
「え~~!? もう直ぐ七時だよ~? そろそろご飯だし、遊べ無いよ~」
「そなのか~……」
あやかの期待を裏切るつれない返事が返ってきた
確かにそのドアの隙間から、食欲をそそる良い香りが漂ってくる
「中学生が遅くまで遊んでちゃ、ダメなんだよ~? あやかちゃんもお家に帰らないと~」
「うん… それじゃまた明日なのだ 明日学校で遊ぶのだ!」
「うん!」
話が付くと、麦波ちゃんはドアを目一杯押し広げる
それに合わせてあやかも後退する
「「ま~~~る!!」」
互いに相手の姿を切り取る様に、右手の指先で宙空に弧を描いた
最近"仲良し学級"でプチブレイク中のお別れの挨拶
それを済ますと笑顔で手を振り、あやかは麦波邸の前を去った
「どうしようかな~のだ…」
マンションの階段を降りた所で立ち止まり、あやかはこの先の動向を思案する
今、七時前という事は、後三時間は時間を持て余す事になる
鹿目ちゃんに、月火ちゃん…
もう二人の学友の顔も頭に浮かぶが、生憎彼女達の家は、ここからあやかの家を挟んで正反対
行けない距離では無い事も無いが、今の麦波ちゃんの言動から察するに、彼女達も休息の時間に突入している事だろう
知恵故障のあやかは、どうしても自分のタイムサイクルで物事を考えがちになる
自分が遊びたいから、きっとみんなも遊びたい筈…
しかし今の麦波ちゃんのリアクションで、今がもう遊べる時間で無い事を認識した
そのぐらいは判別できる
そもそも何時もなら自分もそうなのだから…
「コンビニ屋さんで、美味しい物でも食べるのだ~」
先程、麦波ちゃん家から漂った芳しい匂い
あやかが推測するに、あれはきっとすき焼きの匂いだ
知恵故障治療中のあやかは、原則しらたきしか食せないが、それでもあやかの七大好物の一つである事に代わりは無い
その香りがあやかに空腹を強く意識させた
「持ってかれるの~♪ 好きじゃないから~♪」
ご機嫌に鼻歌を奏でながら、あやかはスキップで夕暮れ過ぎの商店街を行く
そう、あやかはご機嫌であった
知恵故障故の単純な思考回路
通常が此ご機嫌、悲しくないので当然ご機嫌、なのである
誰しもが安らぎと寛ぎを求めるこの時間、一人宛も無く街をさ迷うあやか…
だが、彼女は別にお仕置きを受けて追い出された訳では無い
長姉の言い付けに従い、強いて家を開けているのである
"逆門限"
屡々あやかに課せられる、風上家のルールの一つ
主に風上家に来客がある時、あやかはこれを課せられる
規定の時間… 今日なら夜の九時半まで家に帰ってはならないのだ
今日は次姉さやかの学友達が、風上家の夕食にお呼ばれしていた
その為にあやかは逆門限を設定されたのだ
何故そうしなければならないのかは分からない
長姉にそうしろ、と言われたのでそうするのだ
姉達の… とりわけ長姉の言い付けには絶対服従なのである
理由などどうでも良いのだ
聞き分けの良い返事をしたあやかに、長姉まどかは二百円ものお小遣いをくれた
あやかが一度に自由に使えるお金としては、破格である
それがご機嫌の理由の一つでもある
麦波ちゃんが誘いに応じれば、これでお菓子でも買うつもりだった
だがそれは叶わなかったので、あやかはお小遣いを夕食費に充てる事にした
「おりょぉっ!?」
あやかは視界に飛び込んで来たそれに反応し、スキップを止めた
そこは一際明るい照明の光が店内から溢れる、小さなゲームセンターだった
その店先に置かれた、一台の古いUFOキャッチャー…
フェルトとウールでできた動物達が累々と折り重なるその頂に、気高く鎮座する小さなパンダのぬいぐるみ…
この世のあらゆる生物の中で、何よりパンダが大好きなあやかは、それと運命的に視線を交じり合わせた
「パンダさん! 今あやかが出してあげるのだ!」
躊躇など無かった
知恵故障あやかの行動のロジックは頗る単純であり、極めて容易に書き換えられる
今この瞬間、あやかの食欲はパンダさんに対する所有欲に因って上書きされた
臨時のお小遣いを手にした自分が、今パンダさんと目が合ったのだ
これが運命で無くてなんなのか?
あやかはショートパンツのポケットからがま口を取り出し、百円玉をその筐体に投入した
『ピロピロポン♪ ピロポン♪』
あやかとパンダさんを祝福する様な派手なメロディが流れる
UFOキャッチャーに興じるのはお年玉を貰った正月以来
正直腕に自信は無いが、きっと赤い糸が二人を結び付けるだろう…
あやかはそんな思いで、徐に操縦ボタンを押す
カタカタと揺れながら、どこか頼りないクレーンが動き出す
「こ、ここなのだっ!?」
ポイントを見定め、あやかは下降ボタンを押す
クレーンがするすると降りて、パンダさんの頭を撫でる
「行っけ~! 行くのだ~~!!」
あやかの絶叫に応える様に、クレーンのアームはパンダさんの首根っこを捉えて、その身体を持ち上げて行く
「よ、よしっ!! ……あっ!?」
だが間もなく水平移動再開という段になって、無情にもパンダさんはクレーンからずり落ちる
「あう~ん… 惜しいのだ~…… もう一回!」
もう一回と言っても次がラストである
今更引き下がる訳には行かない
最後の百円玉を投入し、ボタンを叩く
再び騒々しいメロディと共にクレーンが動き出す
「今度こそ…! ……そこなのだ!!」
狙いを澄ましてボタンを押す
あやかの祈りを込めた視線の先で、パンダさんのボディをクレーンが捉える…
…と思った瞬間、無情にもクレーンのアームはポイントを反れ、自らの圧力でパンダさんをぬいぐるみ山の頂から転落させてしまう
「あぁ…… パンダさん……」
あやかの想いは届かなかった
横倒しになったパンダさんの寂しげな表情が、あやかの肺腑を掻きむしる
ガックリと項垂れ、その場を去ろうとしたあやかの視線の隅で、何かの影がゆっくりと浮かび上がる
「!?」
パンダさんを取り損ねたクレーンは、なんとそのまま別の獲物を捕捉していた
「おひょっ!?」
それは豆腐の様な四角いボディと、その中央に大きな一つ目を持つ、あやかの脳内ライブラリーには存在しない謎の何かだった
背中とおぼしき部分が緑色の他は、全身が正に豆腐の様に白い
逆に目玉は白目が無く、黒地に赤い瞳孔が不気味に浮かんでいた
「……………………」
凡そこの世の動く物、小さい物、毛むくじゃらの物、モフモフした物、が何でも好きなあやかをしても、その異様で怪物としか形容しようのない何かには、心の如何なるベクトルも肯定的な反応を示さなかった
彼女の知る限りでは、それはこの世に存在する如何なる生物とも似ていなかった
知恵故障のあやかの感性でさえ、それは"カワイイ"の対極にある、極めて異質な存在に感じられた
『ガタンッ』
そしてそういう物に限って、クレーンは難なく大任を果たすのである
「……………………」
あやかは筐体の下の取り出し口から、"それ"を引き出す
あやかの頭程の大きさのそれは、一応はぬいぐるみと同じ感触… フェルトの手触りがあった
改めて間近で見ると、それは更に異様なオーラを醸し出していた
禍々しい気…
あやかの語彙にそんな難しい単語は無いが、彼女の生物としての本能の何処かが、微かな警告音を発していたのは事実だった
「は、初めまして… なのだ… あやかは… あやか… 風上あやかなのだ……」
それでも万物に対し、常にウェルカムなフレンドリーシップを発揮するあやかは、その異形の何かに対しても自己紹介をして、フレンド申請を行う
済ませるとあやかはそれに耳を押し当てる
新しく物を所有したり、自分の管理下に置かれたりした際に、彼女が屡々見せる謎の行動…
一度、気味悪がったさやかにその行動の意味を問われ、あやかは"お名前を聞いているのだ"と答えた
あやかは自分の持ち物全てに名前を付けたがった
文房具、食器、衣類、玩具に洗面用具に到るまで、あやかはあらゆる物に名前を付けた
大抵は"シャープペンシルさん"や"パンダのお茶碗さん"など、その固有名詞か見た目そのままのネーミングであるが、彼女に言わせればそれは、彼らがあやかに自己紹介した名前なのだという
実際に何かが聞こえているのかどうかは分からない
そういう体で名付けているだけなのかも知れない
黒目がちな瞳の奥に知性の光を灯す事の無い彼女が、何を考え、何を成そうとするのかは、余人には窺い知る事は出来ない
神様が魂を入れ忘れた、人に似て人では無い人の様な生き物…
嘗てさやかは妹をそんな風に表現した事があった
「い~? ……い~ぴん? いーぴんちゃん!?」
今回も自己紹介が返された様だ
「初めまして、いーぴんちゃん! あやかの新しいお友達なのだ!」
意中のお相手では無かったが、あやかはこの不気味なお豆腐とお友達になった
身代金に全財産を叩いたのだから当然と言えば当然、いーぴんちゃんも感謝をしていた
初対面はネガティブな印象だったが、友達となったからにはもうそんな事は忘れた
「いーぴんちゃん、九時半まであやかと一緒に遊ぶのだ!」
丁度良い暇潰しの相手ともなろう
あやかはいーぴんちゃんを胸の真ん中に抱き締めて、すっかり暗くなった商店街の空の下をスキップして行った