小高い丘の上に立つ、織平市立雀品中学校
あやかの通う中学校であり、二人の姉の母校でもある
登校時間と言うには些か位置の高い太陽の日差しを浴びながら、一つの影がその丘を巻く坂道をいそいそと登って行く
「またやってしまったのだ… どうしてあやかばかりこんな目に会うのだ…?」
影は己の不憫を嘆いていた
今日こそはと、何時もより体感的に三分早く家を出たあやかであったが、今日も今日とて黒揚羽があやかを菜の花畑に誘うのである
一頻り黄色の漣に身を泳がせ、花粉の白粉と天然アロマのコロンでとびきりのお洒落を堪能した所で漸く我に帰った
昨日、あれ程もう遅刻はしないと先生と約束したのに…!
流石のあやかも今日ばかりは腹に据えかね、空気の読めないイジワルな黒揚羽にさよならの挨拶もしなかった
(暫く絶交なのだ!)
被害者としての正当な報復処置を心の中で宣言しながら、あやかは誰もいない昇降口に辿り着いた
一番奥の更に隅、八口ばかりのそれだけが独立した小さな下駄箱の際下段
あやかはそこから踵の潰れたシューズを取り出すと裸足になり、代わりにやはり踵が潰れ色褪せたパンダのスニーカー無造作に放って戸を閉めた
十歳の誕生日に母に買って貰ったお気に入りのスニーカー
育ち盛りのあやかの足には、もう随分と寸足らずだが、あやかはそれを手放すつもりはなかった
そろりそろりとシューズの底を滑らせ、あやかは己の教室へと進む
教科書を読み上げる教師の声や、ノートを削る鉛筆群の音が、廊下沿いのクラスの中から聞こえて来る
その何とも言えない強烈な圧迫感に、あやかは思わず身震いした
あやかにはどうしても"普通の中学生"の生活が馴染めなかった 恐怖すら感じていた
壁の向こうの"普通の中学生"達が、違う星から来たスーパーエリートの様に思えていた
きっと住む世界の違う彼らと、出来る限りの接触を絶とうと努力した
理由は上手く言えないが、彼らと触れ合う事は、己にとって悲劇しかもたらさない気がしたのだ
実際に幾度となく悲劇をもたらされたりもした
彼らとの間に壁を作る事
それがあやかの処世術とも呼べない、防衛本能に根差した何かだった
胃から飛び出そうとする何かを必死に宥めながら、あやかは長い廊下の突き当たり、『仲良し学級』と書かれた札の下の引戸を、スルスルと開いて行く
「ごめんなさい… なのだ……」
開口一番、謝罪の言葉を紡ぐ
例え"普通"でなくとも、遅刻が悪い事、約束を違えるのが悪い事であるという事は、ちゃんと理解できるのだ
「ウェヒヒ! 風上のあやかちゃん、また遅刻!」
「遅刻ばかりじゃ、いけないんだよ~!」
「プラチナ常習!」
クラスメイトの六つの目があやかに注がれる
「風上さん、昨日よりは三分だけ早く来れましたね 明日こそは遅刻しない様にね!」
長い髪を揺らして笑顔をくれたのは、大好きな雫先生だった
「雫先生、ホントにごめんなさいなのだ… あやか、一生懸命急いだのだ…」
「ふふ… もういいわ さぁ 席に着いて 授業を再開するわよ!」
広い教室に四組だけの机と椅子
その中の主を持たない唯一つ、窓際の前列、そこがあやかの席だ
雫先生の声に弾かれる様に教室を横切り、そこへ腰を下ろす
「ウェヒヒ… 風上のあやかちゃん、いい匂い!」
「ホントだ~ お花の匂いだね~」
「プラチナ嫉妬!」
あやかの通り香に級友達が声をあげる
"普通"ではない子達が集うこのクラスでも、やはりそこは年頃の女の子ばかり
あやかの漂わせる菜の花コロンを敏感に感じとった
「へへっ 黒揚羽さんの秘密のおしゃれショップに寄ってきたのだ!」
級友達の羨望に鼻孔を広げてドヤ顔を見せるあやか
彼女にはプリンセス願望がある
人見知り気味な性格ではあるが、本来、人にちやほやされるのが大好きなのだ
この瞬間、キャパの乏しい彼女の脳内からは、遅刻の後ろめたさと黒揚羽さんとの絶交宣言が共に消え去った
「さぁ それでは教科書四十二ページ… アルミ缶とスチール缶の違い、見分け方について……」
雫先生の澄んだ声で授業は再開された
あやかは決して学校が嫌いな訳ではなかった
寧ろ好きな方だった
いや、彼女の人生のウエイトの中では、大好きの部類に入ると言ってもよかった
正確に言えば、この『仲良し学級』が… 雫先生とクラスメイト達が大好きだった
いや、それも正確ではないかも知れない
もっと的確に言えば、ここ以外に居場所がなかったのだ
この知恵故障の集まる養護教室以外に居場所が… 話相手が… 笑顔を向けてくれる存在が、なかったのだ
『キ~ンコ~ン カ~ンコ~ン』
あやかにとって細やか成らざる事件が起きたのは、そんな安らげる居場所の、更に安らげる筈の昼食時であった
「みんなで食べると美味しいんだよ~」
のんびり屋さんだがクラスのムードメーカーである麦波ちゃんの一言で、仲良し学級のお昼はいつも始まる
机を四つ中央で合わせて給食を食べるのが習わしなのだ
ただこの日が何時もと違うのは、この日から給食室の工事に伴い数日間、給食の代わりに持参したお弁当を食べる事になっていたのだ
「ウェヒヒ… おかず交換したら楽しいかも……」
独特の含み笑いが特徴の鹿目ちゃんの提案で、おかず交換会が催される事になった
何時もみんなで同じ物を食べる給食とは異なり、ちょっとした遠足気分に満たされるお昼休み
よくある発想、よくある光景
気を利かせた鹿目ちゃんのお母さんが、クラスのみんなで分ける様にと、大量の唐揚げを持参させたのもそのきっかけだった
母の意とは異なるが、自分の物をタダではあげたく無いという、知恵故障独特の感性が働いてしまったのは致し方あるまい
「プラチナ承諾!」
言語野の障害の由縁か、おかしな口癖が抜けない月火ちゃんが一番乗りとばかりにお弁当箱を開帳して、厚焼き玉子とのトレードを申し出る
「ウェヒヒ~! 交渉成立~」
鹿目ちゃんはお目当ての品だったのか、月火ちゃんのトレード申請を快諾し、彼女のお弁当箱に箸を伸ばした
「私は~… ウサちゃん林檎でかしこまり~!」
麦波ちゃんはデザート枠の林檎の放出を決意した様だ
貴重な締めくくり役だが、それだけ鹿目ママの唐揚げは魅力的だったのだ
「ウェヒヒ~! これは二つと交換してもいいかも~」
麦波ちゃんの熱意を感じたのか、鹿目ちゃんは一対二の破格トレードで応じた
次々と思い通りのトレードが成立する鹿目ちゃんは上機嫌である
そしてあやかの番になった
だがあやかは、お弁当箱の中身を蓋で隠す様な格好で固まり、トレードの要請を出さない
「あやかちゃんも交換して貰ういいんだよ~」
「プラチナ美味しい!」
先にトレードを終えた二人は、唐揚げを頬張りながらあやかを促す
「ケ…… ケチャップソーセージでも… いいのだ?」
二人言葉に意を決したあやかは、お弁当箱を開帳する
流石の知恵故障娘達も、その中身の光景に思わず動きを止めた
そこにはケチャップまみれになった真っ赤な魚肉ソーセージだけが、軽くさらりと詰められていた
他のおかずは元より、白米の姿も無かった
「………あやかちゃん、ダイエット中なのかな~?」
「プラチナ淡白! …否、濃赤!」
血の様なケチャップソーセージの赤に紛れていたが、あやかの頬も恥ずかしさの余り真っ赤に火照っていた
ケチャップソーセージが嫌いな訳では無かった
ただ級友達の、お店で売っている様な綺麗で可愛らしいお弁当を見た後では、自分のお弁当が余りにみすぼらしく見えたし、実際みすぼらしかった
「ウェヒヒ~! ケチャップソーセージは欲しく無い!」
知恵故障故、配慮や気遣いといった思考が全く存在しない鹿目ちゃんは、本能に根差してピシャリとトレードを拒否した
それがあやかに更なる恥辱を味わわせる事になった
"菜の花のプリンセス…"
朝の他愛もないやり取りで、心の中で生まれた、そんな自分への形容詞
みんなの憧れであった可愛くお洒落な朝の自分と、おかず交換を拒否される惨めなお昼の自分…
理想と現実の余りの解離が、あやかの肩を震わせる
思わず俯き、目頭を熱くするあやか
知恵故障でも恥ずかしさと悔しさを感じる知性は持ち合わせているのだ
「………………」
「プラチナ…………」
「ウェヒヒ~!(モグモグ)」
「うぅ……………」
鹿目ちゃん以外に流れる、何とも言えない気まずい空気
(どうしてまどか姉はあやかに卵焼き作ってくれなかったのだ……? どうして唐揚げを作ってくれないのだ……? あやかばかり…… いつもいつも…… ぐすっ……)
こみ上げてくる何かが何処かの堰を切りそうになった直前、そんな重たい空気を取り除いたのは、やはり雫先生だった
「……鹿目さん、そんなにいっぱい唐揚げがあるなら、風上さんにも分けてあげて」
所用で少し遅れて教室にやって来た雫先生は、ほんの少し四人の様子を見るだけで事の全てを理解し、助け船を出したのだ
「先生もみんなにサンドイッチを分けてあげるわ」
そう言うと教卓に自身の弁当箱を広げて、四切れしかないサンドイッチを皆の前に差し出した
「ウェヒヒ~ 先生がそう言うなら、あげてもいいかも~ 風上のあやかちゃん、はいどうぞ!」
残酷なまでに本能に実直と言うだけで、本来はあやかとも大の仲良しの鹿目ちゃん
やはり大好きな雫先生の言葉もあり、あやかの顔前に己のお弁当箱を差し出す
「うぇ…? 鹿目のまどかちゃん… 雫先生……」
あやかは涙に潤んだ視線をもたげ、目の前の唐揚げの山と二人の顔を交互に見渡す
「お米が美味しいんだよ~」
麦波ちゃんはお弁当箱の蓋に白米を乗せて差し出した
「プラチナよく合う!」
月火ちゃんは明太子を箸で摘まんで更にその上に乗せた
「うぅ~ みんな大好きなのだ~! 明日はきっとお返しするのだ~! まどか姉に美味しいの、お願いするのだ~!」
感謝の言葉を述べながら皆のカンパを掻き込むあやか
何故か塩味が良く効いたそれは、大好きな給食のカレーよりもずっと美味しく感じられた