風上家に生まれて   作:新六毛

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あやかの長い夜 2

「いい事? 貴女は苔に足を滑らせて転げ落ちましたのよ… 余計な事は… 言わない… 分かりますわね…?」

 

姉妹で接吻する気なのかと思われる程、その顔をあやかに近付けたまどか姉が、噛んで含める様にあやかに諭した

 

「はい、分かりましたのだ… あやかは自分で転びましたのだ… さやか姉に蹴られてはいないのだ」

 

まどか姉の小さなため息があやかの顔面を舐める

何とも言えない甘い香りがした

 

「……余計な事は… イ・ワ・ナ・イ!」

 

まどか姉の瞳の奥がギロリと光った

 

「はい… はいなのだ… あやかは何も言わ無いのだ」

 

その言わんとする所を理解して、あやかは動かしずらい頭を縦に振って宣誓する

知恵故障ではあるが、生存本能に由来する感性は人並み以上なのである

まどか姉の怒りの原因を探り理解する事は、風上家で生きる為の最低条件である

今のは多分、さやか姉の名を出したから怒ったのだ…

あやかはそれを本能で理解した

 

「明日、仕事が終わったらまた来ますわ… ちゃんと良い子にしてますのよ……」

 

そう言うとまどか姉は病室を出て行った

 

「ふんっ… 少しは頭のネジが締まったんじゃない?」

 

その扉の脇の壁に凭れて腕を組んでいたさやかは、ばつの悪そうに憎まれ口を聞くと、あやかの腹の上にスナック菓子の袋を放り投げてから、姉の後を追って行った

彼女なりのせめてもの懺悔なのだろう

あやかは包帯を巻かれた右手でそれを掴むと、もう見えない次姉の背中に向かって声を掛けた

 

「ありがとーなのだ、さやか姉… 大好きなのだ……」

 

声を出すと頭と顎が痛む

 

「ふぅ………」

 

短い面会が終わってしまうと、急に寂しくなる

全身打撲と肋骨骨折、頭蓋骨にヒビも入り、全治二ヶ月、入院半月…

あやかは楽しみにしていたこの夏の序盤を、病院のベッドの上で送る事になった

それでも命があったのが奇跡というのが、お医者様の見立てである

きっと天国のお母さんが守ってくれたのだと、あやかは少しだけ前向きに考える事にした

 

「………?」

 

あやかは不意に視線を感じて、その方向に顔を向けようとする

だが、頭頂部から顎の下までと、おでこから後頭部までを、包帯でぐるぐる巻きにされたあやかの動きは、錆びたブリキ人形の様に超スローモーである

ゆっくりとその顔が視線を感じた隣… のベッドの方に向けられた時は、そこは初めてこの病室に来た時と同じ、きつく閉ざされたカーテンがあるだけだった

 

「………………」

 

集中治療室から移された四人部屋のここには、対面のベッドの住人である中年の女性と、このカーテンの向こうの誰かさんの二人が、先人として入院していた

テレビと乾き菓子を啄む音がやや迷惑な向かいのおば様とは対象的に、隣の住人は行動の気配を一切感じる事が出来なかった

それでも、その閉ざされたカーテンの向こうからの誰かさんの視線を感じるのは、今日この病室に来てから早くも三度目である

何時ものあやかなら、恥ずかしがり屋なお隣さんを自ら訪ねて、自己紹介という名のフレンド申請をする所であろう

だが、今の手負いのあやかは何時もの天真爛漫な彼女では無かった

一人家族と引き離された心細さもあったのだろうし、何より身体の自由が利かない事、それ程の大怪我を負った事が、彼女の心を珍しくネガティブな物にしていたのだ

 

「ふぅ……」

 

今一度ため息を漏らして、あやかはゆっくり正面に向き直った

暗い蛍光灯と無機質な天井と硬いベッドに不自由な身体…

あやかはこれから始まる入院生活を思い描き、悶々とした暗い気持ちに支配されていった

 

「夕御飯の時間ですよ~」

 

廊下が急に騒がしくなり、看護婦がカートに香り立つお膳を乗せて病室に入って来た

 

「風上さん、自分で食べれる? 大丈夫?」

 

看護婦はあやかのベッドにテーブルを備えて、その上に食器類の乗ったトレイを置く

ご飯とお味噌汁と魚の切り身に大根の酢の物…

入院食らしい淡白な風合いだったが、あやかの目には違って見えた

 

「これ… 全部あやかが食べていいのだ…?」

「? ……食べづらかったら言ってね~ 食べたく無いなら、無理しなくていいわよ」

「無理じゃないのだ… 美味しそうなのだ…」

 

あやかはそう言うと、トレイの縁の先割れスプーンを取る

偉いわね~、そんな事を言って、看護婦は向かいのおば様の配膳に移る

あやかはギブスで自由の利かない右腕を伸ばし、魚の切り身を崩して、その肉片をぎこちなく口に運ぶ

 

(美味しいのだ…)

 

あやかの大好物、まどか姉のカレーライスには及ばぬ物の、普段食べる知恵故障治療メニューに比べれば十分ご馳走の範疇だった

あやかはほんの少し、入院生活の希望を見出だした気がした

 

「………?」

 

口から離したスプーンの先に、隣のカーテンが映った

そこにカーテンの隙間から覗く誰かさんの目があった気がして、あやかは痛みを堪え、思いきってそちらに首を捻る

 

「………………」

 

だが、やはりそこにはビッチリと閉められたカーテンがあるだけだった

 

(お隣さんは、カーテンの中でご飯を食べるのだ…?)

 

そんな疑問を抱きながらも、気を取り直して夕食を再開したあやかは、誰もが箸の動きを鈍らす入院食を綺麗に平らげる

看護婦に褒められ、笑顔を返し、そしてその後は自由の利かない身体で洗面と歯磨きを済ませた

あやかの一般病棟最初の夜は、そうして過ぎていった…

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