その夜の事だった
不意に病室の扉が開く音がして、あやかは浅い眠りを妨げられた
「………うん…?」
眠い目を擦り少しだけ頭を擡げると、二人の看護婦とキャスターの付いたストレッチャーがスルスルと病室に入ってくる所であった
「…………………」
獲も言われぬ胸騒ぎがあやかを襲う
流石の知恵故障でも、この時間にストレッチャーが運び込まれる事が異常事態である事は理解できた
初めは向かいのおば様の容態が…? と思ったが、ストレッチャーはその前を通り過ぎて、あやかのベッドの脇… カーテンのお隣さんとの間へと進入して来る
こうなれば対象の人物は一人しか居ない
何故か明かりも付けられぬ暗がりの中、あやかは布団の端を両手でぎゅっと握って寝ている振りをし、息を凝らす
何故そうしたのかは上手く説明出来ないが、きっとそうしていた方が良いと得意の本能で判断したのだ
『ツゥゥゥ……』
フックガイドがカーテンレールを走る音がする
看護婦が身を捩る気配がする
あやかは薄目を開けて、ずっと気になっていたその中の様子と、住人の姿を見遣る
廊下から溢れる薄明かりに、ボゥっと鈍くその光景と姿が浮かび上がる
「ヒイッ!?」
思わず短い悲鳴が漏れた
それに反応して、ベッドに横たわる隣の住人と、彼女をストレッチャーに移動させようとしていた二人の看護婦が、ゆっくりとこちらに頭を向ける
暗がりの中、六つの瞳が自身を射抜く感覚にあやかは震える
やはり見るべきでは無かった
本能の警鐘は正解だったが、その後悔は遅きに失した
あやかはそれでも目を閉じ、布団の端を頭の上まで引っ張って、寝ている振りを演じつづける
それ以外に取るべき態度など見当たら無かったのだ
しばらく動きを止めていた看護婦達が再び空気を揺らした
やがてストレッチャーの上に重い物が乗せられる気配がして、レールの上をガイドが走り、キャスターが転がる音がした
入って来た時より鈍くなったそれは、あやかのベッドを回り込んで廊下へと出て行き、そしてゆっくり扉は閉められた
……静寂が戻った
だが、あやかの心臓はバクバクと大きな音を立て続けていた
向かいのおば様を起こしてしまうのではないかと錯覚する程だった
あやかは蕾の様な己の胸を押さえて、大きく深呼吸を繰り返す
大粒の汗が、額と首筋を流れて行く
見てはいけない物を見た…
知恵故障の感覚でもあれはそう思えた
隣人は全身を包帯でぐるぐる巻きにされていた
あやかも身体のあちこちが包帯まみれだが、彼女は文字通りの全身ぐるぐる巻きであった
鹿目ちゃんの昼間の言葉を借りるなら、まさにそれはミイラそのものだった
薄明かりの下、包帯以外に見えたのは、昼間見たあの宝石の様な大きな瞳と、包帯の間から流れる長い髪の毛だけだった
一体どれ程の大怪我をすればあそこまで包帯まみれにされるのか…
想像を遥かに超える余りの痛ましい姿に、あやかは思わず悲鳴を漏らしてしまったのだ
だが同時に、彼女に対する同情心も沸き立ち始めていた
大怪我を負った今だからこそ、彼女の味わった地獄を想像し、その苦しみを共感できるのだ
はっきりとは見えなかったが、その背格好から、恐らくはあやかと幾らも年は離れていまい
そんな若い娘が、あんな姿になろうとは…
傍目には十分痛々しい姿のあやかだが、彼女の様な姿になった自分を想像すると、それでも胸が締め付けられた
彼女が決してカーテンを開けなかった理由…
フレンド申請に応じなかった理由…
それが理解できた
誰にも見られたく無いのだ
きっと彼女は人目を憚り、この深夜の治療を望んでいたのだろう
それが我が儘では無いと認められる程の惨たらしさなのだろ
知恵故障のあやかでも想像は巡る
やがて心臓の鼓動が落ち着く頃、あやかの心に一つの思いが芽生えた
自分は彼女の為に何かやれないだろうか…?
もし自分が彼女だったら…
どれ程人の優しさや温もりを欲して居るだろう…
そう… あやかでさえ待ち焦がれる面会人…
それが昨日から彼女には訪れていないのだ
あれ程の怪我を負いながら、彼女の家族や友達は姿を見せないのだ
たった一人、人目を憚りながら、深夜の治療を続ける…
それがどれ程悲しくて寂しい物なのか、あやかは足りない知能をフル回転して思い描いた
彼女に比べれば自分は幸せなのだ
ならば自分がして欲しい事を彼女にしてあげたい…
あやかはゆっくりと布団から顔を離した
もうその顔には怯えも動揺も無かった
多分、かなり長い事、あやかは隣人の帰りを待った
何をすると決めた訳では無いが、彼女の帰りを待っていた
だが、結局あやかが意識を睡魔に落とされるまで、彼女が帰って来る事は無かった
「…………!?」
朝の検温に来た看護婦にあやかは起こされた
体温計を脇に挟みながら、隣のカーテンを見遣る
果たして彼女はあれから帰って来たのだろうか…?
何も分からぬままに朝になってしまった
かと言って頑なに人目を避ける彼女の在、不在を、その隣で看護婦に尋ねるのは余りに気が引けた
そのくらいのデリカシーは持ち合わせていた
「今日は朝ご飯はひじきさんなのだ!」
朝食のトレイを受け取ったあやかは大袈裟に声を上げる
それはカーテンの向こうに居るかも知れない彼女に聞かせる為だ
あやかは隣の彼女を勝手にフレンド登録し、お話をしていく事にした
会話は一方的になる事だろう
それでも良かった
彼女はあやかの事をずっと気に掛けていた
感じた視線は気のせいでは無かったのだ
あやかも貴女の事を気に掛けている
貴女は一人では無いのだ
それを体現したかったのだ
「いっただきますのだぁ!」
未だに大声を出すと痛む身体で、あやかはそれでもカーテンの向こうの彼女と膳を囲むつもりで、大きな食前の礼を発した
「それじゃあやかちゃん、また何処かで… 先生やお姉さんの言う事を良く聞いて、早く怪我を治すのよ…」
「うん! おば様も元気でなのだ! あやかも早く治すのだ!」
その日の昼過ぎ、向かいのおば様が退院して行った
腰痛で入院していた彼女とは、とっくに相互フレンド登録を済ませていた
おば様の別れの言葉にも、一期一会的な意味はあっただろうが、あやかの場合は本気で死ぬまで、フレンドリスト入りしたおば様を忘れる事はないだろう
病室にはあやかとカーテンの向こうの彼女の二人だけとなった
否、そもそも本当にそこに彼女が居るかは分からない
相変わらずそこはそよぎもしないクリーム色の布の壁がそそり立つだけ…
「……あやかはパンダさんが大好きなのだ! あれはとてもカワイイのだ!」
それでもあやかはカーテンの向こうに話を掛け続ける
おば様とテレビの音が消えた病室は、なんだかとても広く感じられた
あやか自身も寂しさを感じていたのだ