「もう帰っていいよ… これでお姉ちゃんを呼びな……」
リーダー格はあやかの前に携帯電話を置くと立ち上がった
「これからどうすんだ…?」
野球帽が尋ねた
「どうするもこうするも……」
リーダー格はズボンのポケットに手を突っ込みながら数歩、歩みを進めて止めた
「こうなったらやってやろうじゃねーか… 正々堂々… どうしてもあの女の横っ面、ひっぱたきたくなったぜ……」
野球帽は両掌を天に向けてそれに応えた
「……行くぞ」
短くそう呟いて、リーダー格は広間を出て行った
その後をぞろぞろと男達が続く
「あやかちゃん、ゴメンな…」
「仇は取るぜ、あやかちゃん……」
そんな言葉をあやかに掛けて、また一人、また一人と広間から消えて行く
やがて車のエンジンのかかる音がして、タイヤが土塊を噛む音が響いく
それも直ぐに遠くなり、そして静寂が訪れた
最近少しだけ訪れの早く感じる夕暮れが、廃屋を静かに包み始めていた
鈴虫の声が聞こえた気がした
「……………………」
広いそこにあやかは一人残され、彼女の誘拐劇はこうして幕をおろした
「ねぇ、まどか姉… そろそろ… 警察に連絡した方が……」
熱々の回鍋肉を運んで来たまどか姉に、さやかは恐る恐る進言する
「下手に動かない方が得策ですわ…」
だが、まどか姉は相変わらずどっしりと構えて動こうとしない
ちょっと作り過ぎましたわね… そんな事を言って腰を振りながら小皿を取りにキッチンに戻る姉の後ろ姿を、さやかはじっと見詰める
(本当に………)
さやかは心の中で呟く
(本当に… あやかの事が心配… なのよね……?)
まるでその思考を読んだかの様に、キッチンから戻るまどか姉は口を開いた
「それに… 実は犯人の目星は付いてますのよ……」
まどか姉と犯人とのやり取りで、さやかもそんな空気は感じていた
「麻雀… グランプリ……?」
「えぇ…」
まどか姉は取って来た小皿に回鍋肉をよそり、さやかの前に差し出す
「雀荘対抗賞金大会… 私に辞退させたい者の仕業ですわね あやかはその為の出汁という事ですわ だからそこまで手荒な真似はしないと思いますわ」
そう言って手を合わせた
「いただきますですわ~」
「い… いただきます……」
『ジリリリリリリリ…』
その時、黒電車のベルが鳴った
「んも~… しつこいですわね……」
まどか姉は立ち上がり、お茶目にも聞こえる呑気な声を上げて受話器を取った
「ま… まどか姉…… あやか、自由になったのだ… 迎えに来て欲しいのだ……」
「しつこいですわよ! それでも風上楓の娘ですか! きっちりとアイツらに言っておやりなさい!」
乱暴に受話器を置く
「い… 今の…… あやか…?」
さやかは尋ねた
「えぇ… 割りと元気そうですわ ちゃんとご飯も頂いているのでしょう さぁ 私達も頂きましょう」
そう言って箸を取る
『ジリリリリリリリ…』
再びベルが鳴る
「………るさっ!!」
テーブルに勢い良く両手を叩き突けて立ち上がったまどか姉は、今一度黒電話に歩みより、その通話コードを引き抜いた
一瞬垣間見せた姉の剣幕に、さやかはもうそれ以上何も言えなかった
(お母さん… 私、どうしたら良いんだろ……?)
豚肉を口に運びながら、さやかは心の中で天国の母に尋ねた
あやかは何度もリダイアルボタンを押した
だが、それが繋がる事は二度と無かった
やがて携帯電話の電池も尽きた
あくる日からあやかは、あの階段手刷りに自分の後ろ手を押し付け、そして大声で叫ぶと言う奇行を始める様になった
「あやか…… もう… 喉がカラカラなのだ…… 死んじゃうのだ… 助けてなのだぁ……!」
あやかはこんなに苦しんでいるのだ…
早く助けないとしんじゃうのだ…
誰かに向けた、そんなメッセージが込められているのかも知れない
日がな一日それを繰り返し、日が暮れると近くの小川で喉を潤す
そして木の実や野草で飢えを凌いだ
あやかのくりくりとした瞳は今は窪んで落ち込み、野獣の様にギラギラとした鈍い光を湛えていた
天使の様なキューティクルに輝いていた毛髪は、蜘蛛の巣とそれに纏わり付くゴミによって何層にもコーティングされていた
乾いた排泄物にカピカピになったパンツの異臭はもう感じなかった
あやかは自分が何者なのか、何をしているのか、少しずつ分からなくなり始めていた
ただ、今が夏の終わりである事だけは、朧気に覚えていた
そしてあやかのその夏は、いつまでも終わりを迎える事はなかった…