「今日は絶対に遅れないのだ! 絶対に遅刻しないのだ!」
学校へ向かう坂道を猛烈ダッシュでかけ上がるあやか
黒揚羽の誘惑を断ち切り、壁の向こうの怖い生徒達の間を縫って、あやかは全力疾走で昇降口に踊り込む
「あやかちゃん、今日は早いんだよ~」
「お先なのだ~!」
下駄箱の前で麦波ちゃんを抜き去る
「おはようなのだ~!」
「プラチナびっくり!」
廊下を行く月火ちゃんを追い越す
「一番乗りなのだ~!」
「ウェヒヒ! 二番になっちゃった!」
仲良し学級の引戸に手を掛けた鹿目ちゃんの脇をすり抜けて、あやかはとうとう一番乗りを果たす
「やったのだ~! 連続遅刻記録はだいたい三ヶ月で終了となったのだ~!」
あやかの顔は晴々としていた
それは遅刻を回避できたという事だけが理由では無い
「風上さん、鹿目さんおはよう! …風上さん、今日はよく遅刻しませんでしたね! 先生は信じてましたよ!」
二人の後を追って雫先生がやって来た
「雫先生、あやかやったのだ~!」
何時にも増してたおやかな笑顔をくれる雫先生に、あやかも満面の笑顔で挨拶を返す
「あやかちゃん、凄いんだよ~」
「プラチナおはよう!」
麦波ちゃんと月火ちゃんが少し遅れて教室の引戸を潜り、挨拶もそこそこに相次いであやかを祝福する
「ふふんっ! あやか、嬉しいのだ~! 幸せなのだ~!」
あやかの目に、今日の世界は輝いて見えた
今日は間違い無く自分にとって特別な一日になるであろう
遅刻をしなかった事、朝の教室に一番乗りを果たした事…
そして、母との死別からこの方、ずっと心の底に横たわっていた蟠り…
姉達に対する微かな微かな疑念が、どこまでも愚かな己の杞憂に過ぎなかった事…
それが分かった事の喜び
やはり悪いのはひたすら自分だったのだ
それに気付かない愚かな自分だったのだ
でも今日からは、もうそんな愚かな風上あやかではないのだ
ちゃ~んと、きちんと、しっかり理解できたのだ
極めて簡単な事
悪い事をすれば怒られる
それを理解せずに謝ってばかりいても更に怒られるだけ
大事なのは、きちんと理解して謝る事
自分の悪かった所を理解して謝る事
それが分かった今は、もう何も怖くなかった
初めはさやか姉の笑顔の奥を無意識に覗こうと苦心していた
それは悲し事だったが、恐怖はそれを凌駕していた
きっと最期に裏切られる
上げて上げて落とされる
最大級のお仕置き それだけさやか姉は怒っているのだ
そう思っていた
だから、さやか姉が何時もより五分早く起こしに来た時も、思わずベッドから飛び降りて土下座してしまった
余りにバカな自分
「お弁当のおかず、作り過ぎちゃたから朝ごはんに回しても良いでしょ?」
さやか姉の言葉をどうして疑ったりしていたのだろう
香り立つお味噌汁と湯気の立つ卵焼き
揚げたての海老フライと色鮮やかなアスパラの牛肉巻き
「これ… 本当にあやかが食べて良い… のだ…?」
昨夜、透明ビーズをリバースした食卓の上に並べられた、美味しそうな料理の数々
母の死後、あやかは決して食べる事を許されなかった、彼女にはご馳走と呼べる料理の数々
昨日の朝ごはんは冷や飯にふりかけだった
一昨日の朝ごはんは鮭の皮とじゃがりこ一箱
その前の朝ごはんはお仕置きで抜きで、その前は多分、魚肉ソーセージだった
「片付かないから早くして! お弁当も同じおかずよ! 残したら… 分かるわね!?」
キッチンで自分とあやかの物と思われるお弁当箱を、それぞれ綺麗なハンカチで包むさやかの顔は、それまで頻繁に見せてきた鬼の形相だった
だか不思議とあやかは恐怖を覚え無かった
寧ろ安堵した
さやか姉は何時ものさやか姉だった
つまりそれは…
この朝の一幕が… やり取りが…
嘘偽りでは無い、真実の光景である事を物語っていたからだ
さやか姉が作ってくれた朝ごはんやお弁当を残せば、またあの激しいお仕置きを施されるのだ
それはそうだろう
腕に撚りを掛けて作ってくれたのだ
残せば怒られて当然だ
何故こんな当たり前の事が分からなかったのか…?
姉達は昔からちっとも変わっていなかったのだ
厳しくも優しい姉達、そのものだったのだ
粗相をして勘気を被ったのは自分が全て悪かったからなのだ
それに気付かずに、姉達をほんの僅かでも逆恨みしようとした自分が恥ずかしかった
「いただきま~すのだ!」
何年ぶりだろう、朝の我が家で食する、暖かい白米の舌触り、歯応え…
せっかくのご馳走だったが、正直あやかは味を感じ無かった
不味くは無い きっと美味しかった筈だ
しかし、味覚を麻痺させる程の熱い何かが、氾流となって体内を隅々まで駆け巡り、あやかの心を掻きむしっていたのだ
食事に集中出来なかった
こんな日を… こんな朝が再び来る事を、果たして幾日待った事だろうか……
(お母さんに会いたい…)
あやかは天国の母との再会を、その時も強く望んだ
だかそれは、あの膝を抱えて涙を堪えていた時とは違う理由からだった
(幸せな自分の姿をお母さんに見せて、安心させてあげたい…)
あやかは心の中でそう呟いた
「今日のお昼は期待して良いのだ~! スゴイご馳走を持って来たのだ~! 驚くのだ~!」
「ウェヒヒ~ 風上のあやかちゃん、もうお昼のお話してる」
あやかを中心に笑顔の華が咲いた
みんなが自分を祝福してくれている様な気がした
幸せの時間は何時もより、ゆっくり、ゆっくりと流れて行った
『キ~ンコ~ン カ~ンコ~ン』
「今日もみんなで食べると美味しい「のだっ!」」
麦波ちゃんの十八番を奪ってあやかが早々とお昼の始まりを宣言をする
「ウェヒヒ… 今日もおかず交換したら楽しい「のだ!」」
次いで鹿目ちゃんの言葉を遮り、おかず交換会の開幕を宣言する
「今日もプラチナ「のだ!」」
最後に月火ちゃんの定型句を素早く流用して、皆の代わりに承諾も宣言する
『トンッ』
机の脇に掛けたリュックの中から、薄桜色のハンカチに包まれた大きめのお弁当箱を取り出し、それを皆の前に勢い良く置く
ぎっしり詰まった中身を想像させる、重量感ある接地音が響く
本能に忠実で、今は食欲によって感情を支配される知恵故障娘達は、その箱の中身を透視して口内に唾液を溜め込んでいく
視線を集める行為は、あやかのプリンセス願望を大いに満足させる
鼻孔を広げ、花占いに興ずるが如く、ゆっくりとハンカチの結び目を解いていく
「お待たせされたんだよ~ ミートボールでどうかな~?」
麦波ちゃんが早くも茶色い肉団子を箸に刺して、一位逆指名をアピールする
「ウェヒヒ… 甘い物なら… チャンスかも…?」
鹿目ちゃんは半カットのキウイフルーツを摘まんで差し出す
昨日のウサちゃん林檎のインパクトが残るのか、デザートを高価値があると踏んであやかの気を引こうとする
「プラチナハムカツ!」
月火ちゃんは特に付加価値は見出だせない、ごく普通のハムカツを勢いだけで高級品に見せかけ、十分過ぎる印象を場に残した
「ふふふふ~ん♪」
ご機嫌絶頂のあやかはハンカチ包みの下から現れた、重厚な黒塗りの玉手箱の様なお重の蓋に手を掛け、みんなを焦らすかの様に無駄な間を取ってから……
「どやっ、なのだっ!」
更に無駄なオーバーアクションを添えて、勢い良く取り払った
「……………………?」
「ウェヒヒ……?」
「…………………??」
だが、クラスメイト達の反応があやかの期待にそぐわない
「………………?」
その理由はあやかにも直ぐ分かった
目で感じる違和感
本来ならもっとこう…
この瞬間、海老フライさんの尻尾の鮮やかな朱色や、卵焼きさんの映える黄色が…
視界に飛び込んで来なければならない…
筈……
だがそこには… あやかのお弁当の中身は…
一面の淡い灰色で満たされていた……
「ウェヒヒ… お砂は欲しく無い!」
鹿目ちゃんの突っ込みに拠らずとも、それが何処にもありふれた、砂粒…
そう、それこそお家の庭先にもありふれた砂粒である事はあやかにも分かった
その砂粒が、何故かあやかのお弁当箱の中にぎっしり…
「!!……む、蒸し焼きかな~?」
知恵故障娘達の中では博識の麦波ちゃんが、何処かで得た知識を元に、懸命に目の前の光景の謎を解きに懸かった
尤も、健常者には及びもつかないその発想ではあるが…
「!?」
ただ、同じ知恵故障のあやかには、その言葉に一定の説得力があったらしい
釣られる様に、空かした右手の指でお弁当箱の中の砂場をまさぐる
「!!」
果たして直ぐ様、硬い何かに指先に当たった
そのまま力を込めて、埋没物を掘り起こす
「プラチナ意味不…」
あやかの指に摘ままれて皆の前に姿を現した物
それはアルミホイルに包まれた美味しそうな何か…
では無く、透明な粒々を内包した冷蔵庫用脱臭剤だった
「………………」
「……ウェヒヒ……」
「…………」
あやかは漸く状況が飲み込めた
「……………………」
あやかの胃の奥で、何かが重い脈動を始めた
「今日はちゃんと仲良く食べてるかな~?」
戸が引かれ、今日も少し遅れて雫先生が教室に姿を現した
固まる四人の様子に少し怪訝な顔を見せたが、あやかと目が合うと、何時もの優しい笑みを此方にくれた
大好きな筈のその笑顔
だが何故かあやかにはその笑顔が、今朝のさやか姉の鬼の形相と被って見えた
(残したら… 分かるわね……)
その声が、確かに雫先生の口から聞こえた気がした
「ウ… ウベロロロォォォォォェッ……」
半開きだったあやかの口を突いて、黄白色の胃液が噴水の様に吹き出した
「うわぁぁぁぁぁっ!?」
「ウェ!? ウェヒヒ!?」
「いやぁぁぁぁん!!」
パニックが巻き起こる
予備動作を全く伴わなかったあやかの唐突なリバース
唯でさえ健常者よりレスポンスの鈍いクラスメイト達は、当然満足な回避行動は取れず、ほぼ真正面からそれを受け止める形となった
「風上さん!? 風上さん大丈夫!? しっかり!!」
雫先生だけが異変に慄き、慌てまどかの元に駆け寄る
高まる期待に比例して大量に分泌されていたあやかの胃液は、緊縮する胃壁に尚も絞り出され、彼女の周りの全てを浸食して行く
頭が熱くなり、意識が白み始める
何かを叫ぶグラスメイトと雫先生の声が徐々に遠くなる
(お母さん… あやかは… 早くお母さんに会いたいのだ……)