日曜の学校はガランとしていて物静かで、何時もとは大分雰囲気が違う
そんなちょっとした異世界に足を踏み入れる事に、あやかの薄い大脳新皮質は直ぐにショートを起こす
「う~やぁ~」
高まる感情が興奮となって、思わず声が出てしまう
ましてや傍らに大好きな長姉が居るとなっては、あやかの大脳辺緑系はアドレナリンを吹き出すばかりである
多動と言われる無意識で無駄な動きも激しさを増す
「こっちなのだ!」
普段は使用しない正面玄関、そこからスリッパに履き替える事も、あやかにとっては身が震える程の刺激である
「それからこっちなのだ!」
長姉をエスコートするあやか
ここは己の通う学校に具現した異世界なのだ
自分が導かずして、一体誰が長姉を"進路指導室"まで導けるのか?
長姉がこの学校のOGである事など、あやかの薄っぺらな脳裏からは綺麗に消え去っている
姉は生まれた時からずっと大人であり、自分とは常に違う世界に生きる者…
まぁその錯覚は、健常者とて抱く物だろう
「しゃらららら~ん ららら~ん♪」
ペンギンの様にスリッパを摺らして進むあやかは、とにかく楽しくて仕方がない
チラチラと肩を並べる長姉まどかの顔を見遣る
「静かになさい…」
薄い笑みを浮かべた長姉のつれない言葉
だがあやかは落ち込む事無く、勇気を絞ってその右手を恐る恐る握る
振り解かれるのも覚悟したが、幸いにして長姉はそのまま、あやかのその手を軽く握り返してくれた
あやかの中では屡々、亡き母と長姉の姿が重なる
「こほん…」
"進路指導室"と書かれた表札の前で立ち止まり、長姉は小さく咳払いした
「失礼します…」
そう言ってから引き戸をゆっくりと押し広げる
「どうぞ… お忙しい所申し訳ありません」
中に居た雫先生が立ち上がり、二人に会釈をして見せた
「いつもお世話になっております…」
「いえいえこちらこそ…」
大好きな二人の大人なやり取りを、あやかは満たされた思いで見詰めた
知恵故障でも、今日のこの場が自分の為に用意された物であり、この二人が自分の為に労している事は分かるのだ
「どうぞお掛けになって…」
机を挟んだ対面に二脚の椅子
母代わりのまどかと、彼女を母と慕うあやかはそこに腰掛けた
ここ織平中学では、二年生の二学期に初めての進路相談が催される
進路の相談と言ってもそこはまだ二年生、大袈裟な物では無い
あくまで将来に対する目標と意識の確認である
仲良し学級に籍を置くあやかも一応法律上は中学二年生であり、学校のカリキュラムに従ってこの日、長姉と二人、担任の雫先生との面談に望んだ
「風上… あやかさんは、将来何になりたいの?」
先ずは雫先生が切り出した
まどかは心の中でその滑稽さに思わず吹き出した
仕事とは言え、人かもどうかも窺わしいこの末妹に、何になりたい、とは…
預けておいてなんだが、先生も大変である
一体何になれるのだ、この子は…?
日がな一日飯を食らい、糞尿に変換するだけのこの子が…?
将来… などと言うものが、果たしてこの子にあるのか…?
"うんこ製造機"
まどかは何処かで耳にしたそんなスラングを思いだし、傍らの末妹を見詰めた
そして、そんなうんこ製造機を終生メンテし続けねばならないのかと、今一度己に課せられた十字架をの重みに身を震わせた
「はい、先生! あやかはリオオリンピックに出たいのだ!!」
「「!?」」
どうせまともな答えなど返せまい…
もしかしたらその思いは、まどかのみならず、雫先生の内心にもあったかも知れない
だが、あやかの凛と気迫に満ちたその返答は、そんな想定の更に遥か遠方に着地した
「リオ…?」
「……オリンピック?」
図らずして、長姉と担任の視線があやかに突き刺さる
「そうなのだ! あやか、決めたのだ! 本気なのだ!!」
あやかの眉尻がきりりと上がる
「「………………」」
何を言っているのだろう、この子は…
まどかは木の洞から這い出てきた節足動物を見る様な面持ちで、見て呉れだけは良い末妹の横顔を繁々と見詰めた
将来何になりたいか、の問いに、オリンピックに出たい、と言う答えは無いだろう
否、オリンピックアスリートという意味なら分からぬでもないが、貴女は何もスポーツはしていないだろうに…
それに…
「リオオリンピックは終わりましたわよ…」
言葉をちゃんと理解できる様に、優しく噛んで含める事を意識してまどかは諭した
「それは分かっているのだ 次のなのだ 次のリオオリンピックなのだ!」
まるで分からず屋、と言わんばかりのしかめ面をあやかは向けてきた
「風上… あやかさんは、オリンピック選手になりたいの?」
「そなのだ!」
雫先生に向き直ったあやかは、若干その薄い胸を張った
「何の選手になりたいのかな?」
ただただ優しい雫先生は、あくまであやかの目線でその話に合わせる
「リボンなのだ! みんなで出るのだ! クルクルで… パァァァッの練習をしているのだ!」
両手を宙空に掲げて、何かのアクションをして見せるあやか
クルクルパーは貴女ですわ… まどかは冷めた目でその様を眺める
「凄いね~ でも、オリンピックに出れなかったらどうする? 出れたとしても、オリンピックが終わったらどうするのかな?」
流石に仲良し学級の担任、この種の生き物の扱いに熟れた物である
「その時は~……」
漫画キャラの様に顎に指をあて、虚空に視線を泳がすあやか
「プリンセスになるのだ!」
『ペシッ!』
自分でもびっくりする程の良い音がした
「い、痛いのだぁ~……」
「お、お姉さん、いけません!」
後頭部を押さえたあやかが怯えた顔を向けてくる
しまった… 思わず手が出た…
余りの呆けぶりに一瞬理性を失った
まどかはばつが悪そうに頭を垂れると、白いハンカチで額の汗を拭った
「ごめんなさいなのだ… ごめんなさいなのだ…」
久しぶりの十歩一謝
進路相談からの帰り道、あやかは前を行くまどか姉の背中に謝り続けた
「あやか、ホントの本気でリオオリンピックを目指すのだ もうプリンセスは諦めるのだ…」
後頭部を打たれたタイミングから、まどか姉の怒りの理由が二足のわらじ的なプリンセス願望にあると、あやかの中では断定されていた
そんな生半可な気持ちでリオオリンピックが目指せるか!
…そんなまどか姉の声が、その背中から聞こえる気がした
「ごめんなさいなのだ… ごめっ!?」
不意にまどか姉が足を止めた
「今夜は何にしましょううかしら…? 何か食べたい物がありますの?」
気付けばそこは織平市民の台所、商業複合施設キュインモールの前…
振り向いた長姉と暫し見詰め合う
あやかにはまどか姉の言葉の意味がなかなか理解出来なかった
「食べたい物はありませんの…?」
あやかの顔がぱぁっと明るくなる
雲の隙間から射した日光に花開くハイビスカスの様に、その顔に喜色と紅が満ちた
誕生日以外でこんな日が訪れ様とは…!
普段なら先に帰されるか、買い物が終わるまで駐車場の植え込みにビニール紐で結わえ付けられる筈のあやか
食べたい物がないのか? …の問いは、年に一度、あやかの誕生日だけに許されてきた買い物への同伴許可なのだ
「ま、あ、ま、あ……!」
突然のサプライズに言葉が詰まる
「早く済ませますわよ… さやかがお腹を空かせて待ってますわ」
あやかを置いてキュインモールの自動ドアに消えるまどか
「ま、待って~! 待ってなのだ! あやか、ほいこーろー! …んじゃなくて、カレー! …も良いけど、やっぱり唐揚げなのだ~!!」
あやかは飛び勇んでその後を追った
途中、何度も己の頬をつねる
夢じゃないのだ! あやか、期待されてるのだ! 応援されてるのだ!!
リオオリンピックに向けての壮行…
あやかの中では、それ以外にこのサプライズを説明する道理が思い付かなかった
まどかは己の軽率さを責めていた
ともすれば虐待とも捉え兼ねない、末妹への躾と教育…
可能な限り人目は避けてきた筈…
それを今日はよりによって、担任の目の前で披露してしまった
最近少し大胆になりすぎではないか…?
脇が甘くなったと言うべきか…?
自分が周りからどう思われようとも、それは一向に構わない
事情を知らない誰かの通報によって、例え警察沙汰となろうとも、別にどうという事はない
ただ心配なのは愛するさやかである
万が一にも虐待姉の汚名を着せられ、その妹と言う立場となれば、大切なさやかの人生に影を落としかねない
それだけは何としても避けねばならぬのだ
だからまどかは、最近緊張感の足りない己への戒めとして、あやかに不必要な愛情を示す事にした
この知恵故障を無駄に喜ばせる事は、この子の為の更正カリキュラムを策定した自分にとって屈辱になるが、この悔しさがこれから己の軽率な行動を縛る事になろう
「ふぅ~~~…」
背筋を伸ばして大きく深呼吸をし、カートをゆっくりと押して行くまどか
「しゃらららら~ん♪」
能天気な鼻歌を奏でるあやかは、無邪気にその後ろで小躍りをした