ポンテンコロン、と些か間抜けな音を立てて、それは鹿目ちゃんの足下をかすめ、麦波ちゃんの前を横切り、そして月火ちゃんの右の踵に当たってから、あやかの目の前で動きを止めた
四人の視線が吸い寄せられる様にそれを追う
「ボールさんなのだ!?」
白と黒のツートーン、あやかの大好きなパンダさんと同じそれ
だから直ぐにそれがサッカーボールだと分かった
「あやかっ……」
突然目の前に現れた丸くて可愛らしい侵入者に、思わずフレンド申請を出し掛けて、あやかは慌てそれを引っ込めた
小学生の頃の自分ならいざ知らず、中学生ともなった今は、ボールさんが自分の意思でコロコロと転がり旅をする事など無い事は理解できているのだ
もう大人… さやか姉が言う通り、もういつでも人の親になる事のできるあやかなのだ
あやかは必然的にボールさんのやって来た方向に顔を向けた
他の三人の動きも図った様に同調した
チームのシンクロ率は相当に高まっている様だ
「「!?」」
一瞬の風が駆け抜けた気がした
「ヘイッ!」
どうしてもレスポンスが遅れがちになる知恵故障娘達
彼女達がその風の正体を認識し、脳内で像を結んだ時には、そのユニフォーム姿の男子生徒は右足を振り抜いて、ボールさんを彼方へと蹴り飛ばしていた
「うわっ!?」
あやかは短い悲鳴を上げた
視界を塞ぐ程の直近を影が駆け抜けたからだ
実際に風がそよぐのを感じた
影は一つでは無かった
幾つもの影が仲良し四人組の間を縦横無尽に駆け抜け、また駆け戻る
余りのスピードと奔放さに、故障した彼女らの脳では処理が追い付かず、人と認識した筈の彼らを人の形として捉えらえる事ができなかった
正に吹き荒れる暴風が如き
それに曝されて立ち尽く四人は、ただただ恐怖に己の身を強ばらせた
「ヘイッ! パス寄越せ!」
声の主はその四人の中央で立ち止まった
その為、再びそのユニフォーム姿を認識する事ができた
その胸元に、あのボールさんが瞬間的に現れた
あやかの目にはそう見えた
どこからかワープしたかの様に見えた
彼はボールさんを胸で上手にトラップすると、落ちて行くそれを蹴り上げた
ボールさんはまた瞬間的に姿を消した
それに合わせるかの様に、再びユニフォーム姿の男の子は影となった
「あ、危ないんだよ~… 危ない事をしちゃ、ダ、ダメなんだよ~…」
麦波ちゃんの声に、仲良し学級の面々はハッと我に返る
周囲の状況がやっと飲めてくる
その声は上擦ってはいたが、やはりどんな時でも頼りになるのは麦波ちゃんなのだ
だがユニフォーム姿の男の子達… サッカーに興じる男の子達は、そんな麦波ちゃんの勇気を完全に無視して、相変わらず四人を巻き込んでのパス回しに耽る
四人はジリジリと間隔を縮め、一所に肩を寄せ合う
隣の誰かの震えが伝わり、己の身体を更に大きく震わす
(こ、こ、怖いのだ……)
脳ミソにラフレシアが咲く、とまでさやか姉に形容されるあやかの能天気が、急速に曇り始める
あやかだけではない
鹿目ちゃんも、月火ちゃんも、そして声を上擦らせた麦波ちゃんも…
皆、怯えて震えていた
飛び交うボールさんにではない
走り回る男の子達にではない
……否、男の子達に怯えているのは事実である
だが、男の子達そのものに怯えているのではない
知恵故障娘達が怯えているのは、自分達だけの"世界"に土足で踏み込んできた、彼等という"存在"に怯えているのだ
何者なのかは分かっている
彼らは"普通"のクラスの生徒達…
"壁"の向こう、"普通"のクラスに通う生徒達…
"仲良し"では無い、"普通"のクラスで学ぶ、自分達と同年代の生徒達…
何かが"普通"だと思われる生徒達…
自分達には決して手の届かない"普通"とやらを持った生徒達…
決して重なる筈の無い… 重なる事の無かった、彼らと自分達の世界…
今、その境界は何故か脆くも破られ、"普通"と言う名の異世界の住人達が、このサンクチュアリに雪崩込んできたのだ
平和だったこの世界に…
知恵故障娘達の恐怖は、その異質な存在に対する感覚でのそれでは無く、本能に由来する物だった
例えばそれは、中世大航海時代にスペイン人と出くわしたインカ帝国の人々の様に…
或いはコロンブスと出会ったインディアン達の様に…
知識と経験値の差を文明力の差と言い換えるなら、その隔絶した両者が出会う時、文明力の劣る側は必ずと言って良いほど悲劇をもたらされた
もし明日、未知の巨大UFOが飛来し空を覆い尽くせば、地上の誰もが恐怖と絶望を感じる事だろう
インカ帝国の住人やインディアン達の様に…
即ち、文明力を… 知識や経験値の劣る者を虐げるのは人の本能であり、勝る者を恐れるのもまた本能なのである
本能に実直な知恵故障娘達が、その侵入者達に恐怖し身構えるのは必然なのであった
自分達とは圧倒的に違う量の知識と経験値…
それを持つと肌で感じる"普通"の生徒達との接触は、必ずや悲劇と不幸をもたらす事だろう
それが故障した知識でも分かるのだ
事実、その短い人生の中で既に何度も味わっているのだから…
「あ、あ、危ないんだよ~ む、向こうに行ってね~」
丁度目の前で動きを止めた男の子に、麦波ちゃんが今度は明確に震え始めた声で再び抗議した
自分がみんなを守らねば…
責任感の強い彼女は、そんな思いに駆られているのかも知れない
健気にも、震えるその背中に三人の級友を庇う
早く向こう(貴方達の世界)に行ってね!(戻って!)
その思いはあやかを初め、後ろの三人も同じだった
ここは校庭であり、そして校庭は誰の物でも無く、よって学校の生徒みんなの物である…
そんな発想は知恵故障には無い
自分達の世界は自分達だけの物なのだ
万物にフレンドリーなあやかをしても、価値観のまるで相容れない異世界の住人とフレンドになる事は想像だにできなかった
あやかにとって彼らはヌイグルミ以上に隔絶した存在なのである
「……どけよ」
初めて返された異世界住人からのメッセージは、予想に違わず極めてシンプルで非友好的な物だった
予想は違わなかったが、初めて向けられたその野太い声に戦き、知恵故障娘達は己の血管が収縮していくのを感じた
「こ、ここは… ここは… 私達が最初に見つけた… んだよ… あ、あっちに行ってね……」
「そ、そなのだ… ここはあやか達の… 練習場……」
あやかは麦波ちゃんの肩越しに、些か頼りない援護射撃を放った
彼女の勇気に絆されて、という側面もあったであろ
だがそれ以上に自らに課せられた責任感に目覚めたのだった
麦波ちゃんが必死にみんなを… 自分達の世界を守っているのだ
自分が助太刀しないで誰がするのだ
青ざめた顔からトレードマークの笑顔が消えた鹿目ちゃん…
彼女はただただ可愛いだけの、仲良し学級のマスコット的存在であり、争い事とは全くの無縁なのである
仲良し学級の中でも一番の知恵故障を患っているが、何かにつけて特別待遇を受けるのはそれだけが理由では無い
あやかですら彼女は妖精さんの生まれ変わりではないのか、と感じる程の無邪気な心と、知恵と引き換えに得た愛らしい容貌を備えているからなのだ
彼女は恐怖に対して震える以外の手段を持たないのだ
その鹿目ちゃんと手を取り合って身を強ばらせる月火ちゃん…
彼女は時として鋭い洞察力と我を押し通す強い精神力を発揮する
同じ夢想家のあやかと些細な事で衝突する事も屡々だ
だが惜しむらくは、彼女は己の思考を言葉にする事に多難を覚える
言語野に抱えた障害が、彼女の優れた感性を硬く分厚い殻に閉じ込める
あやか達仲良し学級の面々をしても、彼女の意思は読心術を用いねば汲み取る事ができないのだ
彼女と接する毎日が、知恵故障娘達に読心術を習得させたのだ
たがらこんな場面では全く頼りにならない
恐怖の感情、悲鳴すら言葉にできないのだ
だからこそ、あやかしかいないのだ
あやかがやらねば誰がやる?
麦波ちゃんがやるのだ
……違う、そうじゃない…
自分もやるのだ
麦波ちゃんが頼りにできるのは、自分しかいないのだ