「チッ…」
ボールさんを足下に収めた男の子から、そんな小さな舌打ちが聞こえた気がした
次の瞬間、彼の左足はトリッキーな動きを見せ、ボールさんを瞬間的に宙へと浮かせる
そしてそのままそれを、膝の上で器用にバウンドさせて見せた
「ほぇぇ…」
「ウェヒ~…」
知恵故障娘達は状況も忘れ、思わずその妙技に視線を奪われる
彼等… サッカー部の面々にしてみれば、校庭の占有権は部活動の名の元、寧ろ自分達にこそあり、それを邪魔するのは彼女らの方なのである
尤も、彼らは目の前の女子生徒らが仲良し学級の面々である事は一目で承知している
議論が時間の無駄にしかならない事も承知している
なのでほんのちょっと…
執拗に纏わり付く蝿蚊を払う様な感覚で…教室に迷い込んだ蝶々を追い払う様な感覚で…
身の程を弁えろよ、或いは自分の住むべき世界にお帰り、といった感覚で…
その膝の上から落下させたボールを思いっきり蹴り抜いた
ちょっぴり脅かすだけのつもりだった
「ヒベッ!!」
だが彼はサッカープレイヤーとしてはまだまだ未熟であり、自分の意図した所に常にボールを供給できる程の技量は無かった
体重の乗った渾身の一蹴り、そこから放たれたボールは、知恵故障娘の先頭に居た麦波ちゃんの顔面を強かに叩いた
麦波ちゃんとは言え所詮は知恵故障、俊敏な防御動作など取れる筈も無かった
彼女は自らがそれを願った通り、皆の盾となり身代わりとなった
「うわぁっ!?」
「おいおい!」
あやかが反射的に上げた悲鳴と、他の男の子達が上げた驚きと制肘の感情が入り交じった声が重なる
麦波ちゃんの顔面に弾かれ、高々と舞い上がったボールさん…
それが地に落ちて惚けた音を響かせるのと前後して、顔を押さえた麦波ちゃんが地面に崩れ落ちた
「麦波ちゃん!!」
「ウェヒッ!?」
「アワワワ…」
あやかは咄嗟に麦波ちゃんの身体を抱き抱え、腕の中で仰向けにする
その虚ろな表情の鼻の穴から、鮮やかな一筋の血滴が筋を残して垂れ流れた
「うわぁぁぁぁぁっ!?」
流血、それは本能と感情に実直な知恵故障の感覚に於いては、例えそれがどこの部位であれ最大級の緊急非常事態扱いになる
あやかはまるで、銃弾に倒れた戦友に向けるかの様な絶叫を上げた
「わりぃわりぃ……」
言葉とは裏腹に然して悪びれる様子も無いその男の子… サッカー部に属する男子生徒が、頭をポリポリ掻きながら歩み寄って来る
「ウ…!? ウェヒェェェェェェッ!!」
背中のずき向こうで鼓膜を刺激する奇声が上がった
「か、鹿目ちゃん!?」
直ぐにそれが鹿目ちゃんの物だと分かった
振り向いたあやかの目に、彼方に向け全力で走り去る鹿目ちゃんの後ろ姿が映った
腕をぐるぐる振り回し、身体の芯を揺らしながら、尚も奇声を上げて遮二無二疾走する彼女の姿は、あやかの目からも明らかに狂乱に捕らわれているのが分かった
突如現れた異世界の住人達… 唐突に振るわれた暴力に倒れたクラスメイト… そしてその元凶が己に躙り寄る……
取り分け重い知恵故障を患う彼女の単純な能回路、それがショートするのも無理は無かった
「だ、ダメなのだっ! 鹿目ちゃーん!!」
あやかは直ぐにでも追い駆けて彼女を抱き締めてあげたかった
半年程前、一緒に下校していた道すがら、どこからか不意に現れた野良犬の一吠えに驚いた彼女は今回と同じ様な狂乱に陥り、遮二無二に全力疾走して民家のブロック塀に激突、前歯を折ったのだ
あの時彼女を守れなかった後悔が、あやかの薄い胸に過る
あのままでは危ない
だが、腕の中で尚も意識朦朧な麦波ちゃんを捨て置く事もできない
「つ、月火ちゃん!!」
最早頼めるのは月火ちゃんしかいない
例え意思表示に覚束なくても、あやかと同じ憂いを彼女も抱いている筈だ
鹿目ちゃんを落ち着かせる事ぐらいはできる筈
……だが……
「つ、月火ちゃーん!?」
正に棒が倒れるのを見る様だった
白目を剥き、口角から泡を吹いた月火ちゃんは豪快に転倒した
彼女の交感神経も許容の限度を振り切っていた
満足に悲鳴も上げられないからこそ、その恐怖と不安は全て己の内面に向いたのだ
「うやぁぁぁぁぁぁぁん!!」
あやかも遂に崩壊した
次々と傷付き、倒れ、失われていくクラスメイト達
あやかとて恐怖に戦き、そして打たれ弱いメンタルの持ち主なのは皆と同じなのである
銃弾飛び交う戦場の直中、一人残された風上二等兵は傷付いた戦友を抱いて絶叫を上げる…
そんなあやかの知恵故障ビジョンに、短機関銃を構えた少年兵が迫る…
「チッ……」
気まずそうな舌打ちを響かせてから、彼はあやかに短機関銃の銃口をゆっくりと向ける…
「うやぁぁぁっ!! うやぁぁぁっ!! まどか姉ぇ!! さやか姉ぇ!! うやぁぁぁぁぁんっ!!」
身体中の穴という穴から様々な体液を噴出し、あやかの意識はブラックアウトした
あの日から、仲良し学級はそれまでよりずっと広く感じられる様になった
只でさえ空間にゆとりあるその教室に、あやかと月火ちゃんの二人の姿しかないからだ
仲良し学級、一年半余りの歴史の中で、学級人口密度が半減したのは初であり、もうそれが五日も続く
『カリカリカリ……』
雫先生が黒板を刻むチョークの音が、今日も大きく聞こえる
あやかはこの日も朝から殆ど口を開かなかった
会話困難な月火ちゃんしかその場に居ないという事もあるが、それ以上にあやかの心が塞ぎ込んでいたのだ
あの後、あやかは雫先生の柔らかい胸の感触と、その透き通った声に意識を取り戻した
自分が何に怯え、涙していたのか、あやかは咄嗟に思い出す事が出来なかった
ただただ雫先生の胸の中でガタガタと震え、大丈夫よ、大丈夫よ、と繰り返すその声に励まされていた
麦波ちゃんは軽傷で、保健室で簡単な治療を受けた後、教室に戻ってきた
月火ちゃんも直ぐに意識を取り戻し、大事は無かった
……ただ鹿目ちゃんはあの後、校庭の端の土止めから転落し、右足首骨折と全身打撲の重症を負って救急車で病院に運ばれた
「さぁ それじゃ今日はここまでね…」
心なしか雫先生の声にも何時もの元気が無い様な気がした
あやかは大きく一礼して雫先生を見送ると、月火ちゃんに向き直った
「月火ちゃん… 二人だけでも練習… するのだ… みんなが戻って来るまで、フリーの技術をあげるのだ……」
空元気、そんな単語は知らないが、あやかは努めて明るい表情と声を作り月火ちゃんを誘った
「……………………」
だが月火ちゃんは今日も俯いて小さく頭を振る
「……………………」
あやかはくるりと背を向けて一人教室を出た
多分もう、月火ちゃんを誘う事はあるまい
やりたくない人に無理強いはしたくない
放課となり、帰宅に部活に向かう生徒達の群れが、廊下に昇降口に列を成す
あやかは大きく息を吸い込み、まるで素潜りでもするかの様な感覚で、その人の波を掻き分けて行く
人と人との僅かな間隙を突いて昇降口でスニーカーに履き替え、校庭を目指し一目散に走り出す
途中から手にした菜の花色のリボンを風に棚引かせた
あやかの全力疾走から生まれる向かい風に、リボンが大空を泳ぐ竜の如く華麗に舞い踊る
ほんのちょっぴり、楽しい気分になった
「……………………」
だが直ぐにあやかの足は止まり、リボンは空力を失い地に落ちる
何時もの練習場… 校庭のトラック、その東端……
今日もあの男の子達が先に占有していた
サッカーに興じる男子生徒達…
「ヘイッ! 回せっ!」
「コッチコッチ! ヘイッ!」
低く張りのある男子特有の叫びが、ボールさんの蹴られる悲鳴の合間に響く
あやかはガタガタと震え始めた膝に、ゆっくりとゆっくりと力を込めて、その一歩を漸く踏み出した