(あやかにも譲れぬ物があるのだ…!)
乾いた喉が貼り付く
口内の唾を集めて飲み込んだ
「ヘイヘイッ!!」
徐々に男の子達の声と姿が間近に迫る
激しい躍動が巻き起こす砂煙が、もう目の前まで漂って来ていた
(……よ、よしっ!)
あやかは今日も覚悟を決め、リボンを結んだ編み棒を刀の様に頭上に掲げると、その砂煙と男の子の最中に飛び込む
「お、おい…!」
気付いた男の子の一人が動きを止め、ボールさんが力無くその前を転がった
「また来たぜ…」
「……ったくよ!」
方々で悪態が巻き起こる
あやかは今日も聞こえない振りをして、そのまま大袈裟にリボンを振り回した
「おい、どけよ!」
男の子の一人があやかに近付く
あの日、麦茶ちゃんの顔面にボールさんを叩き込んだ彼だ
「ど… どかないのだ……」
小さな声だったと思う
あやかは目も合わせずに答えた
「いい加減にしろよテメェ!」
あやかはビクッと身を竦ませた
昨日までは見せなかったあからさまな怒気
当初の予定が狂い、あやかの膝が再び震え始める
「どけって言ってんだよ!」
更にあやかとの間合いを詰めて、彼はがなり声を響かせた
昨日まではこの強引な割り込み作戦で、男の子達は僅かではあるが、あやかに練習スペースを分け与えた
時々ボールさんが侵犯して、たまに男の子と激突しそうになったりしたが、それでもあやかの主権を認めてくれていたのは勘違いでは無い筈だ
みんなが帰って来るまで、あやか一人でもこの場を守らなければ…
そんな思いに駆られて振り絞った勇気が報われた気がしていた
あやかは知る由も無いが、あの一件の後、サッカー部の面々もお灸を据えられ、校庭をできるだけ譲り合う様に諭されていたのだ
更に知る由も無いが、あの一件は仲良し学級側の被害妄想と発狂に因るアクシデントだとして片付けられていたのだ
"下手にあの娘らを刺激しない様に…" そんな意味でのお灸だったのだ
だからこそ、昨日まではあやかの無謀な割り込みに譲歩したのだった
だが今日は違った
彼等は彼等なりに… 特に目の前の彼は、あの一件からの鬱屈が積もり積もっていたのだ
知恵故障どものオーバーアクションのせいで、必要以上に悪者にされているとの被害者感情もあった
大会が近付き、キャプテンとしてナーバスにもなっていた
「どけよっ!!」
猛獣の様に歯を剥いて、彼はあやかを怒鳴り付ける
「あわわわわわ……」
退けたくてもあやかの全身の筋肉は恐怖に強ばり、身動ぎ一つ出来ない
目を見開き、リボンの結ばれた編み棒を両手に握ってブルブルと震える
初日はあれ程覚悟した筈のこの展開も、運良く続いた小康の日々にすっかり錆び付いてしまっていた
尤も、例え初日にこの展開を迎えたとしても、あやかの取れるリアクションは今と然程変わらなかっただろうが…
「糞がっ!」
男の子はそんなあやかの態度を、自身に対する侮りと受け取った
彼は身体を翻して助走を付け、側に転がっていたボールを蹴り飛ばした
今度はあの時とは違い、明確にあやかを狙って…
「ぶわっ!?」
弾丸の様なボールは瞬きをする間も無く、あやかの肩口を直撃した
まどか姉のタバコのお仕置きを彷彿とさせる、焼かれる様な痛みが走った
「チッ…!」
だが、あやかの見せたそのリアクションは、彼の予想とは異なっていた
自分の渾身の一蹴りを受けて尚、平然と立ち尽くす彼女に更なる苛つきを覚えた
舐められている様な気がした
「やめっ…ばはぁっ!?」
跳ね返って転がるボールを捉えた第二撃
あやかは咄嗟に顔面を庇って身を縮めるが、それはあやかのがら空きの腹部を直撃した
「おい… やめろって……」
ただならぬ展開に、彼の部活仲間が声を上げ諌めた
だが当の彼のボルテージは、既にあらぬ方向に上り始めていた
自分がやっている事に興奮を覚え始めていた
彼は健常者ではあるが、思春期の多感な年頃である
自分の心を屡々押さえられなくなる年頃なのである
その原因はあやかという存在にもあった
あやかのその見て呉れは決して悪く無い
寧ろ上レベルであり、学年でも十指に入る事だろう
本来その恵まれた容姿は、特に異性からは保護の対象として扱われる要因になる物だが、あやかの場合はそれに知恵故障という因子が加わるのである
可愛い姿をしているが、人としてのコミュニケーションが取り難い生き物…
丁度それは、彼が今夢中になっているファンタジー冒険ゲームのナビゲーションキャラを彷彿とさせた
縫いぐるみか妖精の様な可愛い形をしておいて、その癖生意気でおバカなお囃子キャラ…
彼の脳内でそれとあやかのイメージが重なり、何とも言えぬ複雑な感情… 歪んだ性的嗜好となるにはまだ早い、若さに猛るだけの猛烈な加虐心となって現れていたのだ
「オラッ!!」
『バシッ!』
「うわぁっ!?」
しかもそのおバカキャラは、幾ら渾身の一撃を食らわせても倒れようとしない
あの日誤射したセミロングヘアーの知恵故障娘は、一発で鼻血を流して倒れた
仲間の手前、態度には強く現さなかったが、内心は動揺していた
知恵故障とは言え、女を傷付けるのは矜持に反した
だがコイツはあの娘とは違う
何度ボールを食らっても、あの時以上の渾身の一発を叩き込んでも、悲鳴を上げこそすれ、倒れようとしない
それが彼の男として、サッカー選手としてのプライドを傷付けた
「クソッ!!」
『ドスッ!』
「痛いぃ~!!」
あやかは成す術も無く打たれ続けていた
逃げようにも顔を上げる事もできず、ただただ身を強ばらせて強い衝撃を堪えていた
男の子は知る由も無いが、あやか自身は十分痛撃を感じ、ダメージを蓄積させていたのだ
ただ彼女は麦茶ちゃんと違い、常日頃から鍛えられていたのだ
無論、姉達によってである
さやか姉を中心として加えられる激しいボディコンタクトは、あやかの痛みに対する肉体的許容量を、武道経験者のそれに匹敵する程に増大させていたのだ
しかしそれはあくまで肉体的ダメージに対する耐性であり、彼女自身を強くしている訳では無かった
事実、ボールを当てられ続けたそのボディはあちこち赤く腫れ上がり、そして肉体より遥かに弱い精神はもう崩壊寸前となっていた
「ら、らめ… やめれぇ~!!」
何度目かの衝撃で口の中を切ったのか、抗議の言葉を上手く発っせない
口の中に血の味がする
どうしてこんな酷い事をするのだ!?
どうしてこんな酷い事ができるのだ!?
あやかは心の中でそんな疑問を何度も反芻した
視界の隅で再びあの男の子が右足を振りかぶる
その時だった
「コラッ!! やめなさい!!」
紛れも無い雫先生の声だった
あやかは反射的に隠していた顔を向ける
見たことも無い険しい顔をした雫先生が、小走りに此方に近付いてくる
助かったのだ… あやかは命拾いした感激と雫先生への感謝から、股の間より過剰な水分を放出し始めた
「何をしているのっ!?」
初めて見た雫先生の怒りの姿
少しだけあやかも怖くなる
「チッ……」
だがかの男の子は悪びれる様子も無く、舌打ちをして顔を背けた
先生に逆らうその姿に、あやかは彼がとてつもない悪い子であると感じた
そしてそんな悪い子に絡まれた自分は、正に絶対絶命だったのだ、そう確信して雫先生への感謝の気持ちをより厚くした
「おい、宇佐美!」
だが次いで現れた男性教諭の姿に、男の子とその仲間の態度が一変する
足を揃え、直立不動の体勢を取る
『バシッ!』
校庭中に響き渡る様な平手打ちの音
頬を張られた男の子のがたいの良い身体が若干揺らいだ
あやかはその音と光景に息を飲んで水分の放出を中断した
ざまぁみろ、などと言う感情をあやかは生来持ち合わせていない
もう彼女の中で彼は、先生に酷く怒られた可愛そうな存在となっていた
そしてその原因が自分にあるのではないか、との知恵故障には似つかわしくない、自己嫌悪の感情すら沸き上がっていた
自分のせいであの子は打たれたのだ?
自分がリボンの練習をしようとしたから…?
「……!?」
雫先生があの時と同じ様にあやかを抱き締め、何事か言葉を掛けてきた
あやかはその言葉を上手く耳に入れられなかった
ただ何故か涙がぽろぽろと溢れて、頬をびしょびしょ濡らしていた