「麦波ちゃ~ん! 行きましょ~う!」
あやかの声がマンションの通用路に響く
程無くしてそのダークグレーのドアが開いて、昨日と同じ麦波ちゃんのママが姿を現した
「……ごめんね、あやかちゃん… 愛衣はまだちょっとね……」
そう言って申し訳なさそうにあやかに頭を下げた
「……そなのだ… 麦波ちゃん… 早く会いたいのだ……」
あやかもそう返して、寂しい笑顔を湛えた
「気を付けてね、あやかちゃん…」
「バイバイなのだ……」
通用路まで出て、いつまでも自分を見送る麦波ちゃんのママに、あやかも何度も振り返り手を振った
あの日から麦波ちゃんはずっと… そして今日も学校をお休みとなる
雫先生に頼まれ、あやかは毎朝麦波ちゃんのマンションに寄ってくる
別に雫先生に頼まれずとも、あやかはそうしていただろう
仲良し学級の一番の仲良しと言って良い彼女の不在は、あやかのメンタルをより不安定な物にしていた
「はぁ……」
ため息をついてとぼとぼと学校への道を行くあやかに、嘗て脳ミソにラフレシアが咲く、とさやか姉に形容された面影は微塵も無かった
仲良し学級に着いてもあやかの憂鬱は晴れなかった
月火ちゃんとは挨拶はおろか、目も合わせる事は無かった
上手く言葉に出来ないが、あやかは自分の大切な物が急速に失われて行くのを感じていた
授業が始まっても、あやかはただひたすら雫先生の顔を眺めて時を過ごした
優しい雫先生のお顔を見ている時だけが、あやかのささくれた心が癒されていく様な気がしたのだ
「……………………」
「……………………」
お昼の時間になっても、あやかは月火ちゃんと会話を交わす事は無かった
一応はお互いに向けた双方の机は、微妙な距離を置いて離れてあり、目を合わせる事も無かった
正解に言えば、月火ちゃんの視線をチラチラとは感じたが、あやかはわざとそれを無視した
イジワルをしている自覚はあった
机を微妙に離したのも自分からだった
もっと言えば休憩時間中も、月火ちゃんの"プラチナ、プラチナ"と言う小さな独り言が聞こえていた
あやかの気を引こうとしていると勘づいていたが、それも無視した
どうして自分がそんな酷い事をするのか、上手く説明できない
ただ無性に腹が立ってはいたのだ
裏切り者の臆病な月火ちゃんに…
彼女から謝ってくるなら許してあげない事も無い
だがこちらからは絶対に手を差し伸べない
あやかにも譲れぬ物があるのだ
「ふぅ~ どうしたの? 仲良し学級の仲良しさん達が、全然仲良しに見えないな」
雫先生が堪りかねたかの様に、そんな二人に声を掛けた
「プラチナ献上…」
それを好機と見たのか、月火ちゃんは給食に出されたチーズのピースをあやかに差し出した
仲直りの契機としたかったのだろう
謝るなら許してあげない事も無い、そう心に呟いた筈のあやかだったが…
「……ふんっ!」
その顔をプイッと横に反らした
簡単に許してはあやかの怒りが伝わらない、そう思ったのだ
「…………うぅ… うううぅ…… ううぅぇぇん……」
「!?」
初めて聞く月火ちゃんの啜り泣きだった
両手の甲を目に当て、唇を歪めて鼻を啜る
「風上さん… どうしてそんなイジワルをするの? 月火さんが可哀想でしょ?」
「!!」
あやかは驚いて雫先生を見遣った
雫先生が自分を責めているというこの事態に、殴られた様な衝撃を覚えた
いつもどんな時でもあやかの味方… あやかだけの味方だと思っていた雫先生…
その雫先生があやかを咎めている…!
全部月火ちゃんが悪いのに! 月火ちゃんの味方をしている!
あやかはやり場の無い悲しみと怒りに肩を震わせた
「あやか、何も悪く無いのだ! 月火ちゃんが… 雫先生が悪いのだ!」
そう言うと食べ掛けの給食を残し、あやかは教室を飛び出した
こんな事をするのは初めての事だった
その位、ショックだったのだ
あやかの脳裏に、昨日雫先生に咎められ、顔を背けたあの男の子の姿が浮かんだ
あやかもあの男の子と同じ、とんでもない悪い子になってしまったのだ
階段の下、掃除用具置きの影に隠れて膝を抱いたあやかは、己の咄嗟の行動を昨日のその光景と重ねて、強い自己嫌悪に陥った
そのまま五時間目をエスケープし、掃除の時間となってやむを得ずそこから抜け出したあやかは、重い足取りで仲良し学級に戻る
「……………………」
静かに戸を引くと、あやかの代わりに雫先生が月火ちゃんと教室の床を掃いている所だった
「……風上さん、ゴミを捨ててきてくれる?」
何事も無かったかの様に笑顔を向けてきた雫先生
だがあやかはその直前の、雫先生と月火ちゃんの仲の良い姉妹の様な光景に、何とも言えない憤りを感じてしまった
嫉妬、それはあやかの知らないそんな言葉の感情だったかも知れない
あやかは一目散に自分の机に駆け寄ると、掛けた鞄を拐って教室から飛び出した
「うぅぅぅぅ… ううぅぅぅぅ……!」
涙が溢れてきた
何とも表現し難いイライラと悲しみに、あやかの心は掻き毟られた
そのまま学校を飛び出して家路に着く
八つ当たりに道端に転がる石ころさんを何度も踏みつけて、あやかは流れる鼻水もそのままに、お家の玄関へと飛び込んだ
「あら… 今日は随分と早いじゃん?」
夕方帰宅したさやか姉が、珍しくあやかの部屋に顔を覗かせた
ベッドの上で枕を抱え俯せるあやかは、その問いかけを無視した
本来ならそんな無礼は許されない
だが、あやかはそれを成す気力も無かったのだ
「何よ… 感じワル……」
さやかもカチンとはきたが、それ以上に普段見せない妹の姿に何か違和感を感じ、無礼を捨て置く事にした
「リボン回しはもう飽きたの? あぁ… アンタら脳ミソ少ないからちょっと前の事も忘れるのか…」
それでも憎まれ口の一つも叩かないと収まりがつかないと見え、そんな嘲りを残してあやかの部屋を後にしようとした
「……今、なんて言ったのだ…!」
「……あん?」
さやかは初め、それが誰に向けての言葉なのか理解できなかった
寝言か独り言かとも思った
だがゆっくりとベッドの上で身を擡げる妹の姿に、それが自分への暴言だと気付いた
「……な、何よ! その口の利き方!!」
あり得ない事態に一瞬呆気に取られたさやかは、強いて感情を高めて声を荒げた
「今なんて言ったのだっ!」
あやかは自分の仕出かしている事をきちんと理解し、その内心では微かに震えていた
さやか姉への口答えなど、風上家に於けるあやかの立場では、アメリカンポリスに銃口を向ける行為に等しい愚行である
だがそれ以上に激しい怒りに捕らわれていた
アンタら…… その一言が聞き捨てならなかった
自分がどれ程詰られようとも馬鹿にされようとも、それは一向に構わない
実際馬鹿なのは自覚しているし、"普通"じゃ無い事も理解している
だがしかし、アンタ"ら"とは…
その"ら"に含まれるのが、あやかのみならず、麦波ちゃんや鹿目ちゃんや… そして月火ちゃんである事は、馬鹿で普通じゃない自分でもちゃんと理解できるのだ
自分が幾ら罵倒されても構わない、だが大切な仲良し学級の面々を馬鹿にされては、あやかとて黙ってはいられない
あやかにも譲れぬ物があるのだ
「アンタらが揃いも揃った糞馬鹿のウンコ製造機だって言ったのよ!!」
起きる筈の無い妹の反抗に、一瞬たじろいださやかだったが、もうこの瞬間には何時もの好戦的で威圧的な姉の姿を取り戻していた
利発な彼女は、妹の怒りのポイントが仲間を侮辱された点だという事にも気付き、敢えてそれらを含めて挑発した
「うやぁぁぁぁぁっ!!」
諸手をあげて掛かり来る妹
さやかの記憶ではそれは実に5年振りの反逆だった
本人は飛び掛かるイメージなのだろうが、その動きは知恵故障独特の締まりの無いドタドタ感に満たされ、まるで南の島でバンザイ突撃を敢行する、痩せ細った旧日本軍の残兵の姿を彷彿とさせた
「とりゃーーーっ!!」
そんな無謀でキチガイじみた攻撃を機関銃で薙ぎ払う米兵が如く、さやかは長く美しい御御足を高速で前方に繰り出し、あやかの顔面を真正面から打った
「ブッ!?」
あのボールさんとは比較にならない衝撃
それをまともに受け、逆上がりでもするかの勢いで仰け反ったあやかは、そのまま仰向けにフローリングの上に叩き付けられた
最初から勝てる見込みなど微塵も無かった
負けるとは分かっていても、戦わねばならない時があるのだ
あやかは前後からの激痛に意識を遠退かせながらも、自分の勇気を自分で誉めてやりたかった
「後で家族裁判だからね……」
そう吐き捨て、さやか姉は勢い良くドアを叩き付けて階段を下りて行った
姉への反抗は、取り分けあやかの場合、風上家に於ける重大な懲罰事項『家庭騒乱罪』に該当するのだ
この後、帰宅したまどか姉によって判決が下され、恐らく自分は死刑、若しくはそれに準じる折檻となる事だろう
あやかは冷たい床の感触を背中に感じながら、朦朧とそんな思い巡らせた