足音が静々と階段を上がる来る
「………………」
まどか姉の帰宅の気配は大分前に感じ取っていた
彼女を迎えるさやか姉の明るい声と、その後に続く幸せそうな笑い声を、暗い部屋の中で横たわり聞いていた
あれからずっと暗くなっていく天井を見詰めていた
何故そうしていたのかは説明できない
なんだか酷い疲れていたのだ
何もかもが… 自分の思い通りにならない全ての物に疲れ果てていたのだ……
「……あやか?」
ドアが少しだけ開いて、予想より穏やかなまどか姉の声がした
次の瞬間にはそれは大きく開け放たれて、今度はまどか姉の上擦った声が響いた
「あやかっ? あやかっ!?」
てっきり折檻の開始を覚悟していたあやかは、そのまるで自分を思いやる様なまどか姉の態度に、訝しがりながらも頭を擡げた
流石にまどか姉に対してシカトはできない
まどかは実際心配していた
さやかの話からあやかには強い折檻が必要だと認め、それを施す為に部屋を訪ねて見れば、夜だと言うのに明かりも点けぬ暗い部屋の中で横たわる末妹の姿…
さやかが既に施したという折檻の話が頭に過った
よもや当たり所、打ち所が悪く……
まどかは愛するさやかが妹殺しの犯罪者と呼ばれる恐怖に血を凍らせた
最悪の場合、己がその罪を被らねば…
あやかがもう少し頭を上げるのが遅ければ、覚悟を決めたまどか姉の頭蓋骨粉砕踵落としを食らう所だった
「な、何をしてますの!?」
死体と思い込んだとは言え、強い損壊の意思を結果生きていた妹に向けた事に、流石のまどか姉も後ろめたさを感じ、それを誤魔化すかの様に彼女の頭を抱きかかえて見せた
「まどか姉… ごめんなさいなのだ……」
純粋に優しさを向けられていると思い込んだあやかは、上半身を起こして素直に頭を垂れた
まどか姉の前で素直になれるのは、その秘めたる圧倒的凶暴性への恐怖もあるが、それ以上に亡き母の面影を重ねていたからだ
誰もあやかの悲しみや憤りを理解してくれない中、結局はまどか姉だけがあやかの味方なのだ
あやかはそう思った
「さ… さぁ… 取り敢えず夕御飯にしましょう」
「……い、いいのだ?」
てっきりお仕置きはお仕置きとして、最低夕御飯抜きは覚悟していたあやかは、余りのまどか姉の柔軟さに逆に気まずさを覚えた
「えっ…? あぁ… い、いいですわよ……」
「う… うん…? はいなのだ……」
何かよそよそしい姉妹の掛け合い
まどかも慮外に優しさを見せてしまった為、折檻を始める契機を見失ってしまっていた
危うく殺し掛けたという背徳感が、キュインモールの誓いを思い起こさせ、無意識に行動を束縛し始めた側面もあった
「ま、まどか姉… お先にどうぞなのだ……」
「い、いいえ… 貴女こそ先にお下りなさい……」
狭い階段で先を譲り合う姉妹
その姿を見て面食らったのはさやかだった
(な、な、なんなのこれぇぇぇぇぇっ!?)
てっきり鼻血まみれの妹の顔を想像していた彼女は、何故か眩しい程の仲睦まじさを見せて二階から下りて来た姉と妹の姿に、漫画の様に顎を落として驚愕した
いったいこの数分に何があったと言うのか…?
「ま、まどか姉ぇ……」
家庭騒乱罪の不適用への抗議に若干の嫉妬心も込めて、やさかはまどか姉に潤んだ瞳を向けた
「え… ま、まぁ… この子も反省してますし… せっかくの夕御飯も冷めてしまいますわ……」
「え~…… そんな~……」
何故か不気味な程あやかに気を使うまどか姉に不満はあったが、彼女への絶対的服従はさやかも同じである
さやかも二人に続いて渋々リビングのドアを潜った
「さあ、召し上がれ…」
まどか姉がキッチングローブで掴んだ土鍋をテーブルへと運んで来る
「今日はおでんさんなのだ!」
「……い… いただきます……」
まどか姉が席に着くのを待って、未だ納得できない表情のさやかが取り箸に手を伸ばし、出汁の染み込んだ大根を摘まんだ
「あ、あやかにもなのだ!」
自分で取りよそる事は許されないあやかはお椀を差し出し、待望の卵さんをさやか姉にねだる
おでんがメニューの時のあやかの特別食、卵さん
ぶっちゃけて言えばそれは、あやかの為の特別メニューを作るのが面倒なまどか姉が代わりに許した一品なのだ
そんな理由など知らないあやかにとっては、お姉達と同じ鍋からよそわれるその一個が、何にも変え難い至高の一品になっていたのだ
まどか姉の特製カレー… そのルーに次ぐ大好物なのだ
「……………………」
涎を垂らすほど呆けた顔でお椀を差し出すあやかを視界の隅に捉えながら、さやかは取り箸で器用に卵を挟み、その椀の直上へと運んで……
「あ~~~」
わざとらしい声と共に卵さんを弾いて落とした
テーブルにすらかすらない、計算された落下ポジションだった
「うやぁぁぁぁぁっ!?」
あやかの目の前で待望の卵さんは砕けてぼろぼろになった
「あ~ ごめ~~ん」
感情の籠らないさやかの謝罪
あやかはそれを無視して床に這いつくばり、砕けた卵さんを椀に収めようとする
「およしなさい… みっともない!」
まどか姉が透かさず諌める
「だって! だってなのだ! …あやかの卵さん!」
早くも半べそをかくあやか
「ほ~ら… がんもあげるから我慢しなさいよ」
「嫌なのだ! 卵さんがいいのだ! さやか姉の分を弁償して欲しいのだ!」
「何よ弁償って~! わざとじゃないのに!」
再び啀み合うさやかとあやか
「今のはなんかわざとぽかったのだ!」
「わざとじゃないわよ! バカ!!」
「ほらほら… 今夜は特別に竹輪も差し上げますから、がんもと一緒にお食べなさい」
まどか姉が困り顔で仲裁案を出した
だが…
「がんもさんも竹輪さんも要らないのだ! あやかは卵さんが食べたのだっ!!」
あやかはそれを拒んで地団駄を踏んだ
あやかのメニューは卵の筈なのだ
卵と言ったら卵なのだ
あやかにも譲れぬ物があるのだ
(調子に乗ってますの……?)
まどかはこめかみの筋肉を引きつかせた
先刻の不必要な温情、やはりそれが知恵故障には毒なのか?
まどかは自分の行いを後悔し始めた
事実、あやかは調子に乗っていた
優しくされて調子に乗らないなら、それはもう知恵故障では無い
もっとマイルドに言えば、姉達に甘えていたのである
「黙ってお食べなさい…」
獣の唸りの様なまどか姉の低い声
怒り爆発の前兆…
調子づいたあやかでもそれには気付く
だが…
「い… 要らないのだ~!!」
絶叫と共にあやかはお椀を床に叩き突ける
ガチャンと音を立て、それは砕けた卵さんの破片がと共に床の上に転がった
「アンタいい加減に…「あやかぁっっっ!!」
さやか姉の声を掻き消すまどか姉の絶叫だった
「う、うわぁぁぁぁぁぁっ!!」
声量に吹き飛ばされたかの様にあやかは尻餅をつき、そのまま這う様に階段を上って行く
さやかの目にその姿は新種の爬虫類の逃げ回る姿に見えた
『バタン!』
自室の扉を背中で閉めて、そのままベッドの下に潜り込む
間もなくまどか姉があの扉を破って闊歩してくる…
そして首根っこを捕まれて顔面を潰されるだろう…
あやか姉への反抗、風上家の絶対タブー
それを犯してしまった
あやかは自分の軽率な行動を後悔した
後悔したが、自分でもどうする事もできなかったのだ
最近変なのだ 自分でもおかしいのだ
どうしてもイライラが押さえられないのだ
自分の思い通りにならない事に、腹が立ってしょうがないのだ
(何故自分だけ… )
母を亡くしてからずっと心の底に蟠ったその思いが、いつの間にか肥大化し、あやかの薄い胸を破って姿を現したかの様…
彼女の胸の内を代弁すれば、それはそんなイメージであった
もう自分だけが損な役回りをする事に、強い拒否感を抱いていたのだ
誰かが自分に損を強いている… そんな被害妄想を強くしていたのだ
「……………………」
震えに奥歯を鳴らしながら破滅の時を待ったが、結局まどか姉は姿を現す事は無かった
短くは無い時間が流れ、さやか姉が自室に入る音がすると、あやかは何とか命拾いした事を確信し、魂が抜ける様にその場で寝息を立て始めた