約束だよ…
まどか姉が遅番でない限り、原則風上家の夕食は18時半に始まり、19時には終わる
「ご馳走さま~!」
茶碗を皿に重ねて、さやかは満足気な声をあげる
「食べて直ぐに横になったら、お豚さん一直線ですわよ~」
茶箪笥の上のスナック菓子を掻っ攫い、カウチソファーにダイブする長妹の姿を目を細めて見送るまどか
言葉とは裏腹に、その表情には慈愛に満ち、充足感に溢れていた
愛しい妹の幸せそうな姿に、己もまた幸せを噛み締める
楽しい夕べ…
正にこの一時にまどかの労は全て報われる
嘗てあの様に無邪気だった頃の自分を、きっと母も今の自分と同じ様な気持ちで眺めていた事だろう
目頭がほんのり熱くなる
何があろうとも、この子だけは必ず幸せにして見せる
まどかは、胸の奥で朧気な輪郭を浮かび上がらせる母の面影に、そう誓うのだった
「ま… まどか姉! き、今日はあやかがお茶碗を洗ってあげるのだ…!」
「駄目よ…」
タイミングを見計らい、意を決したあやかの申し出は即座に却下された
ほんの一瞬向けられた冷たい流し目に、あやかは軽く失禁する所だった
普段ならここでシュンとする所…
否、そもそも普段なら、まどか姉に対して差し出がましい意見など主張する事は絶対無かった
だが今日のあやかは違った
どうしても茶碗洗いをさせて欲しかったのだ
「ま…… まどか姉はお疲れ… なのだ… あ… あやかに任せる… のだ…?」
慎重に言葉を選びながら、流し台に立つ長姉の背中に声を掛ける
「ダ~メ、汚れるでしょ?」
勿論、まどか姉の言う"汚れる"は、あやかの事ではない
食器類の方だ
そんな事はあやかの低い知能指数でも分かる
足りない子のあやかが触ると、バイキンで汚れるのだ
当たり前なのだ
「せ… せめて自分のお茶碗は… 自分で洗うのだ… へへっ… あやかも、お嫁さんの練習… なのだ…!」
今日のあやかは粘りに粘った
「チッ!!」
だが次の瞬間、まどか姉が見せた鬼の形相と大きな舌打ちに、あやかが振り絞った渾身の闘志もあっさり駆逐された
「ご、ゴメンなのだ! あぁ… ゴメンなさいなのだ!」
数歩後退りした後、踵を返してダイニングから飛び出した
背後でガシャンと大きな音がなる
振り向けば、あやかの大事なパンダ茶碗が流し台の中で踊っていた
まどか姉が怒りに任せて叩き突けたのだ
(あやかの大切なパンダさん!? 割っちゃダメなのだ…!)
当然口には出せないその台詞を心の中で噛み締めて、あやかは天国のお母さんに、どうかパンダお茶碗が割れない様に守ってね、と必死にお願いするのだった
「ごろーまるさん、遅くなってゴメンなのだ…」
庭の物干し台の側、名も知らない低木群の植え込みを仕切る煉瓦ブロックの垣
カーテンから溢れる淡い光りに、ぼんやりと浮かび上がるその一角に屈み、あやかは足下にある大きめな石ころの一つをゆっくりと取り除く
「約束のハンバーグは手には入らなかったのだ… これで我慢して欲しいのだ…」
あやかはポケットから取り出した何かを、その石のあった場所に静かに置いた
残念な報告はどうしたって声の張りが無くなる
既に宵闇に深く包まれた庭先では良く分からないが、あやかの顔も寂しい笑顔を浮かべていた
もしその姿を認める者が在らば、さぞや困惑した事だろう
暗い庭の片隅で、ぶつぶつと寂しい独り言を呟く少女…
そう、あやかは独り言を呟いていた
否、あやかにとっては独り言ではない
彼女が話掛けた相手は、今手にした石の下に居るのだ
「ゴメンなのだ… ふふっ… ごろーまるさんは優しいのだ……」
あやかが設置したのは、硬くなった白米の塊だった
本当はここにハンバーグのデミソースを付けてあげたかったのだ
もしかしたら肉片も付けてあげられたかもしれなかった
だからあやかはまどか姉に茶碗洗いを志願したのだった
あやかも久しく口にしていない大好物の一つ、ハンバーグの風味を、少しだけでもごろーまるさんに味わって欲しかったのだ
自分の大切な友達が、自分の大好きな食べ物を、同じ様に好きになってくれたら…
そんな純粋な彼女の願いは残念ながら、今回は果たされる事はなかった
せめて付け合わせにするつもりで敢えて残した、あやかの晩のおかずである玉ねぎ炒めの一部だけでも回収したかったが、結局それも叶わなかった
大事な友達のディナーとして提供できたのは、こっそりシャツの胸元に付けて隠したご飯粒だけだった
それが申し訳なくてあやかは仕方なかった
「今度はきっと美味しい物を持ってくるのだ 今度こそ約束たのだ …それじゃまた明日、お休みなさいなのだ……」
あやかは地面に向かって小さく手を振ると、取り除いた石ころを静かに元の場所へと戻した