「………………」
冷たい廊下の隅、パンツとブラジャーの下着姿であやかは正座をしていた
勿論したくてしているのでは無い
そうする様に命じられたのである
『反省しろ』
拳と共に浴びせられた長姉まどかの言葉
久しぶりに平手ではなく拳だった
ズキズキと痛む右頬は多分かなり腫れ上がっている
「………………」
長姉と母と慕うあやかは、言われた通りに己の行いを反省した
三時間前は楽しかった
昇降口で雫先生に懺悔をした後、仲良し学級で六時限目から授業に復帰した
鹿目ちゃんや月火ちゃんにからかわれて、流石にちょっと恥ずかしい思いをした
それでも大好きな仲良し学級での時間が、直ぐにあやかにそれを忘れさせた
その後下校となり、その際に雫先生が傘を貸してくれた
赤くお洒落な折り畳み傘だった
今日の様に天気が急変すると、雫先生はいつもあやか達に傘を貸してくれた
二時間前も楽しかった
麦波ちゃんと、雨蛙さんをエスコートしながら帰路に着いた
途中の公園に大小様々な水溜まりが出来ているのを見て興奮した
取り分け滑り台の麓に生まれたそれは、滑り台その物を全て飲み込んでも余りある大きさだった
今年は水溜まりの当たり年なのだ
あやかはそう思った
麦波ちゃんと協力して、雨蛙さんのお家をその公園のシーソーの側に作ってあげた
雨蛙さんはとても喜んでいた
一時間前も楽しかった
お洒落で大人な雫先生の傘の上を、水玉の群れが滑るのが感動的美しさだった
なんだか外国映画の主人公になった様な気分だった
フランスっぽいとでも言うのか? とにかくお洒落で素敵なシャネルのジュテームである
そんな気持ち…
麦波ちゃんと別れてからの道程を、思わず小躍りしながら進んで来た
玄関を開けてパンダの置物に口付けをした
フランスの女優にとっては自然な行動なのである
三十分前から地獄が始まった
あやかからやや遅れて帰宅したまどか姉とさやか姉
いつも通り自室で"良い子"にしていると、想定外の呼び出しが階下から掛かる
これはひょっとしてサプライジングシスターズパーティの開催かと、心踊らせながら階段を下りれば、そこで待っていたのは血の気の引いた、能面の様な表情のまどか姉
一番危険な時の長姉のそれである
一瞬にして全身の血が凍り付き、あれこれ原因を詮索するが何も思い当たらない
何とか誤解を解かねばと言葉を選んでいると、まどか姉が縁側の廊下を指差した
あれは何だ? …の問に、濡れたセーラー服を乾かしているのだ、と答えた
乾くと思うのか? …の問に、乾くと思うのだ、と答えた
あそこにあるのは何だ? …の問に、雫先生から借りた傘なのだ、と答えた
何故ここの床はこんなにも濡れているのか? …の問に、思わず言葉を詰まらせた
お前が来た時はどうだったのか? …の問に、ただ目を屡叩かせた
その後、まどか姉はカーテンレールに吊るされたあやかのセーラー服の元に寄り、それを反転させて再び尋問を続けた
この一面の緑の染みは何だ? …の問に、うわっ!?……そ、それはなんなのだ!? 気付かなかったのだ、と答えた
洗わなくても良いのか? …の問に、良いのだ… 大丈夫… なのだ……、と答えた
笑われるのは誰なのか? …の問に、ただ黙って俯いた
仕事で疲れているのに、何故こうも余計な仕事を増やすのか? …の問に、ごめんなさいなのだ、と答えた
歯を食い縛れ …の命令に、きつく奥歯を噛み締めて身構えた
その後、衣服を脱ぐように命じられ、正座をさせられ、今に至る
脱いだ衣服は雑巾代わりとして床掃除に使用され、その大任を仰せつかったさやか姉は、何度も舌打ちしながらあやかを睨み付けた
(……なんであやかは何をやっても… こうもダメダメなのだ……?)
痛む頬を擦りながら、あやかは自己嫌悪の呟きを心の中で繰り返した
リビングから食器を片付ける音が溢れる
今夜は何か揚げ物の様だった
食欲をそそる油と衣の香り、それもここまで流れて来ていた
『グゥ~~~…』
ほの暗い廊下の隅で、あやかのお腹の虫が寂しい鳴き声を上げる
剥き出しの太腿の上に、小さな滴がヒタリと垂れた
『バタン』
「!?」
リビングのドアの開く音がして、足音が此方に迫る
音だけでさやか姉だと分かる
今度はさやか姉のお仕置きが始まる
床掃除をさせてしまったのだから当然だ
あやかは面を上げる事もできず、只々数瞬後に襲い来る筈の衝撃に身構えた
「………?」
だが、衝撃の代わりにあやかを襲ったのは、鼻腔を擽るシトラスの香りだった
考える迄も無い、さやか姉の甘い髪の香り
それを間近に感じると言うことはつまり…
案の定、視線を上げると直ぐそこに、屈み込み此方を覗くさやか姉の顔があった
妹の目線でも、つくづく美しいと感じるその尊顔
まどか姉とはまた違う美しさのベクトルだ
こんな顔に生まれれば、自分の人生はもっと違った物になっていたのかも…?
十分平均以上の容姿を持つあやかにさえ、度々劣等感を覚えさせる、ずば抜けたその器量
今この瞬間も全てを忘れて、思わず見とれてしまった
「!?」
そのさやか姉が、手にした何かをあやかの顔先に突きだした
今度は何とも言えない食欲を擽る香りが鼻腔を満たす
「か、唐揚げさん!」
爪楊枝に刺さった唐揚げだった
恐らくは夕食のメニューだったのだろう
あの芳しい揚げ物の臭いの正体はこれだったのだ
忽ち口内に唾液が溢れだす
「……? ……?」
一見食べて良い、的な行動にも見えるが、さやか姉がそんなに甘い筈が無い
晩御飯を抜かれた哀れな妹にせめてもの味見を…
さやか姉に限ってそんな情に流される事など断じて無い
上げて落とすのがさやか姉流のお仕置きの真骨頂である事は、身を持って十分学んでいる
かと言って、その"上げ"をあからさまに無視すれば、それはそれで生意気と判断され、更なるお仕置きを呼び込む
それも分かっているのだ
取るべきリアクションに迷い困惑するあやかに、その胸中を読んだかの様なさやか姉が呟いた
「食べないの?」
それであやかも覚悟を決めた
早く食い付け、の催促である
無視すればより多くの鼻血を飛ばす事になろう
あやかは視界の隅にさやか姉の姿を捉えながら、慎重に唐揚げさんに舌を伸ばす
ここが大事なのである
不意に舌を伸ばせば直後の顔面膝蹴りで、最悪舌を切断しかねない
"怪我と弁当は手前持ち"
それが風上家の… と言うか、あやかに課せられるお仕置きのルールなのである
自分の身は自分で守らねばならないのだ
「…………」
予想通り、あやかの小さな舌先が唐揚げさんの表面を撫でる直前、それは不意に高度を上げ視界から消えた
はい、ここで突き出す格好となった顔面に膝蹴りである
あやかは素早く舌を引っ込め、目を瞑った
「……………………」
だが、またしても衝撃は訪れない
フェイントか? 身構えるのがあからさま過ぎたか?
あやかは暫くそうしていたが、尚もさやか姉の膝は飛んで来ない
やむを得ず、恐る恐る瞼を開ける
「………………」
そこには立て膝に頬杖を付くさやか姉の姿があった
その表情には怒りの感情も侮蔑の心も読み取る事が出来なかった
そこに居たのは、只々不思議そう… とても珍しい物を見つけた… そんな表情であやかを見詰めるさやか姉
まるで純粋な子供の様…
純粋な子供であるあやかをしてそう思った
あやかの憧れ、黒真珠の様に深く濃い漆黒で、それでいて光沢が滲み、尚且つその表面を水に溶かした様な淡いライトブルーが覆うその瞳
まるでサファイアの様なその色艶…
それがあやかをぼんやりと捉えて離さない
このまま魂を抜かれるか、身体を石に変えられそう…
そんな外国のお伽噺をあやかは思い出した
「アンタさぁ… 一つ聞きたいんだけど……」
「!?」
暫しの見詰め合いの後、さやか姉がボソリと切り出した
「アンタ、傘借りて… 傘さして… 来たんだよね~… 帰り道……」
不可思議なさやか姉の態度とその問掛け…
唐突な展開に思考がついて行かず、暫く間を置いてからあやかは頷いた
「それでさぁ… なんであんなにびしょ濡れになるわけ?」
その言葉で、漸くさやか姉が遠回しに床掃除の責任を追及している事が分かった
「ご、ごめんなさいなのだ…」
あやかはガクリと頭を垂れた
今回は精神面からじわじわと攻めてくる寸法の様だ
「うん? …別に怒ってないよ それよりさ…」
…と思ったが、言葉を継いださやか姉の顔と声色は、徐々に不思議の核心に迫るわくわくのそれで満たされつつあった
「なんでアンタ、セーラー服と靴下はびしょ濡れなのに、スカートは全然濡れてないの? どういう傘のさしかたしたらそうなるのよ?」
さやか姉は少し身を乗り出して、あやかの顔を覗き込んだ
「えっ… あ~… う~ん…?」
そんな事を言われましても…
あやかの困惑も極みに達する
意識してスカートだけを濡らさなかった訳では無いし、そもそも上半身も濡れたくて濡れた訳でも無いし、気付いたらその様な状態だったのだ
説明しろと言われても、説明のしようが無い
「ねぇ? 何をしたらああなるのよ?」
「う… うへぇ~……」
あやかは目を屡叩かせる
首を深くを傾げる
そんなに気になる事だろうか、とも思うが、さやか姉に質問されている以上、答えは返さねばならない
だか答えなど何処にも見当たらない
視線をあちこちさ迷わせて、何か適当な理由を探そうとするが、元より乏しい知能指数では何も浮かばない
「アンタさぁ… きっとホントは何かの天才なんだよね……」
またしても予想外なその言葉
これではまるで誉められている様ではないか…
あやかは愛想笑いを浮かべて身を捩り、何か不気味なその次姉へ示すべきリアクションをはぐらかす
「だってさ、普通出来ないよ、そんな事… 少なくともアタシには出来ない」
多分生まれて初めて、あやかを見詰めるその目に畏敬の色が滲んだ
「そ、そなのだ…? でもきっとさやか姉ならちょちょいの…」
「アタシはそんな事出来ない!」
あやかのお世辞をピシャリとはね除けたその言葉には、今度は微かな怒気が含まれていた
その手の微妙な成分にあやかは鋭敏である
「昔さ… まだアンタが赤ん坊の頃… アタシ、抱っこしてたアンタの頭を、思いっきりブロック塀の角にぶつけちゃったの… めっちゃ大きなコブができてさ……」
今度は染々と語り始めたさやか姉
くるくると感情が入れ替わり、百戦錬磨のあやかも着いて行くのがやっとである
それでもさやか姉の昔語りに、あやかの胸もちょっぴり熱くなる
ぶっちゃけられた内容は穏やかでは無いが、無条件に愛されて時分が自分にもあった事が改めて偲ばれた
さやか姉に抱かれた幼き日の自分を思い描き、その妹に生まれた幸せを今一度噛み締めた
「アンタの知恵… そん時に壊れちゃったんだね… ホントは何かの天才になれたかも知れないのにね… ゴメンね、あやか……」
ダメなのだ…!
あやかははたと顔を上げ、さやか姉を見詰める
物の道理も良く分からない知恵故障ではあるが、そんな事は… 姉が妹に謝罪するなどという事は… あってはならない事なのだとは理解できている
少なくとも風上家に於てはそうだ
謝るという事は、悪い事をしているという事であり、それを認めているという事なのだ
自分が悪だと認めているという事なのだ
そんな物分かりは要らない!
あやかはそう思った
風上家で謝るべきは常に自分であり、正しきは常に姉達であるのだ
そうでなければ、日頃繰り返される激しいお仕置きを自分の中で消化できなくなるのだ
あやかが悪いからお仕置きされる
それが絶対の真実なのだ
あやかはお仕置きなど怖くは無い
否、失禁する程怖くはあるが、それ以上に怖い物があるのだ
いつの日か姉達に謝られる…
あれは実はお仕置きでは無かったと謝られる…
そんな時が訪れるのが怖いのだ
時に不条理とも理不尽とも感じていた、姉達のあやかに対する姿勢
だが今、改めて理解した
これで良いのだ このままで良いのだ
姉達に謝られるくらい辛い事は無いのだ
これからも永遠に、ご指導ご鞭撻をお願い致します…
そんな言葉に近い感情を、あやかは胸の中で何度も炸裂させた
「これ… お詫びのしるしね… 許してくれる…?」
そう言うと、さやか姉は手にした爪楊枝… その先の唐揚げを、あやかの顔先へと再び近付けた
『ブン… ブン…』
ショートカットが風を切る程、あやかは頭を振った
「…………許さないんだ?」
『ブン… ブン…』
再び大きく頭を振る
「さやか姉は何も悪くないのだ! ブロック塀さんをかわせないあやかが悪いのだ! ……さやか姉、だぁぁぁぁい好きなのだぁぁぁぁっ…… んぐぅ!」
絶叫と共に目の前の唐揚げを一口に収めるあやか
もうすっかり冷めてしまったそれ
だが空きっ腹に染み渡る鶏肉の風味は、微かな塩味のエッセンスとも相俟って、えも言われぬ芳醇な味わいを醸し出した
きっとあやかはこの日の唐揚げの味を、終生忘れる事はないだろう