『……の影響で、湿った空気が流れ込み… 河川の氾濫と、土砂災害に十分な警戒が……』
「あぁやだやだ~… また天気が悪くなるみたい……」
ちょっとだけ焼け過ぎた食パンをゆっくりと時間を掛けて咀嚼し、喉の奥へと通したさやか姉は、テレビに流れる天気予報を見ながら愚痴る
「仕方ありませんわね~ 秋の長雨ですわ~」
コーヒーを上品に啜った後、まどか姉はそんな台詞で長妹を宥めた
「………………」
黒焦げのパンの耳を鼠の様にカジリながら、あやかはそんな姉達の顔をチラチラと見遣る
「……早く食べませんと、今日も遅刻ですわよ……」
その視線に気付いてか、今度はあやかに声を向けるまどか姉
「……う、うん… はいなのじぇ…」
「じぇ?」
「は、はいなのだ!」
コップの水でパサパサでカリカリの黒焦げを押し流す
「……………………」
その様子を暫く無言で見詰めていたまどか姉が口を開いた
「…………わたくしの顔に何か付いてますの?」
ドキッとなって動きを止まる
どうやらまどか姉はあやかの視線に気付いていた様だ
「昨日からずっと… わたくしに何か言いたい事がありますのでしょ?」
まさに心の内を見透かされていた
昨晩からずっと切り出すタイミングを見失っていた事は事実だ
「あ… あぅぅ……」
承諾の可能性が乏しい事は最初から念頭にあったが、それ以上にそのお願いの内容に対し、増長云々の理由でお仕置きされるのが怖かった
だからタイミングを見計らっていた
まどか姉の機嫌の良いタイミングを…
多分昨晩のそれは悪くは無かったと思うが、妹として生まれたあやかをしても、その怒りの琴線の在り処を今一把握できない長姉に対しては、どうしても必要以上に慎重に接する形となってしまい、結局朝までズルズルと時間だけを費やしてしまっていた
(やっぱり無理なのだ… これはきっと怒られるのだ…)
昨日の朝は優しい姿を見せてくれたまどか姉…
だからこそ今日は怖い姿を見たくはない…
殆ど諦め掛けていたこの瞬間、まさかまどか姉の方から問い質してくれるとは…
ラッキーなのかも知れないが、覚悟を迫られたとも言える
「はっきりおっしゃいなさい」
「あ~… う~……」
上目遣いに長姉の表情を窺う
「何かオイタをしましたの?」
激しく頭を振る
「まどか姉とエッチがしたいのだぁ!」
「!!」
「ゴホン… さやか~……」
あやかの口調を真似たさやか姉がチャチャを入れてきた
まどか姉に甘く睨まれ、舌を出して肩を竦める
「あ、あやか… お友達を… 新しいお友達を……」
ここしかない、そんな気がしてあやかは切り出した
「お友達をお家に… お呼びしたいのだ……」
「いいですわよ」
「ごめんなさいなのだ ご馳走様でしたなのだ 行ってきますのだ」
あやかは椅子を引いて立ち上がり、そそくさとリビングを後にする
拳や張り手が飛んでこなかっただけましである
あやかは心の底からそう思った
言わなくても良かった気がする
適当な嘘で誤魔化しても良かった
たださやか姉が…
あんな事を言われたら、その場で直ぐに否定しなければ、あやかはまどか姉とエッチがしたい変態さんになってしまう…
咄嗟の切り出しは、それに対する懸命の否定でもあったのだ
階段を上り切り、自室へと向かう
あやかは知恵故障の治療中の身なのだ
お友達なんて呼べる筈が……
「……………………えっ?」
あやかは反転し、転げ落ちる様に階段を下りて行った
リビングのドアを開けようとして、先に押し広げたさやか姉と激突しそうになる
「あっぶない!」
叱るその脇を謝りながらすり抜け、あやかはテーブルの食器を重ねるまどか姉の前に顔を突き出す
「ま… まどか姉!」
「喧しいですわよ」
「ごめんなさいなのだ… あの… まどか姉……」
「なんですの?」
「あの… ホントに… 本当に呼んで良いのだ?」
「五時に帰りますから、それまではお部屋に居る事… 良いですわね?」
まどかの顔に満開のハイビスカスが高速点滅する
「あ、あ、あ、あり… ありがとうなのだ! まどか姉、愛しているのだぁっ!!」
狭いリビングに絶叫が木霊する
「……………………えぇ」
まどか姉は小さくそう答えると、己の上半身を抱いて、まるで変態を見るかの様な目であやかを見詰め、ゆっくりと後退りした
脳内天国モードに突入したあやかはそんな事には気付かず、シャラララランと小躍りしながら再びリビングを抜け、階段を駆け上って行った
「お早うなのだ、優希ちゃん!」
学舎に続く長い石段の下で、その後ろ姿を認めたあやかは、漸く昇降口で彼女の捕捉に成功する
「!? ……あぁ あ… えっと… あやか… ちゃん……じぇ?」
背後からの呼び声に驚いたのか、振り向いた優希ちゃんは目を白黒させて口籠もる
「びっくりしたのだ? ごめんなのだ!」
「違うのじぇ… まだ名前を呼ばれる事に… 慣れてないのじぇ… ごめんだじぇ!」
「……?」
ポリポリと頭を掻く優希ちゃん
愛らしいその姿とは似つかわぬ台詞の寂しさに、白痴甚だしいあやかも思わず口をすぼめるが、それが薄い大脳新皮質に感情を形成する事は無かった
五人となって二日目の仲良し学級は、もうずっとそうであったかの様な自然な空気の中にあった
こんな楽しい学校に来たのは初めてだじぇ…
こんなに楽しい時間は久しぶりなんだじぇ…
これはひょっとして夢なのじぇ…?
そんな事を口走る優希ちゃんが、やはりちょっぴり気になるが、彼女の見せる笑顔は会心の物であり、楽しい楽しい仲良し学級での時間を分かち合っている連帯感が、あやかの心を暖かい何かで優しく包み込んでいた
『キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン…』
そんな二日目の給食時
あやかは然り気無く優希ちゃんの行動に注意を払う
然り気無さを装う事ができているのかどうかは、あくまで知恵故障目線での話であり、実際にどうかという話では無い
それぞれが何かしらの配膳役を極めて簡潔にこなし、そして五つの机で輪を作ってお膳に向かう
何時もと同じ、だけどちょっと前よりちょっぴり違う、大好きな給食の時間
「「いっただきま~す!」のだ!」
息の合った合唱と共に、それぞれが箸を取り人気メニューの一つ、ソフト麺へと対峙する
「…………………」
口からだらりと餡掛けまみれのソフト麺を垂らしながら、あやかは隣の優希ちゃんを注視する
その視線に気付かないのか、気にしないのか、優希ちゃんは手提げ鞄から取り出したビニール袋に、堂々とおかずのお好み焼き風つみれを詰め込む
(やっぱり今日もなのだ……)
そう、昨日もだった
優希ちゃんは昨日も給食のきな粉揚げパンを持って帰ったのだ
「お腹いっぱいなの~?」
そんな麦波ちゃんの言葉に、こっちに来てからまだ、お父さんからの振り込みが無い… コンビニで夕食を買う余裕が無い… でも大丈夫、良くある事で慣れている… 多分そんな意味の言葉を笑顔で返した
難しい言葉の羅列では無かった筈だが、最後の方はもう、彼女の言葉が耳の奥まで届いていなかった
只々、身体の中の何処かが痛かった
「……………………」
あやかは優希ちゃんと出会ってからずっと、一つの思いが心の隅に浮かんでいた
"他人の気がしないのだ…"
お腹いっぱいご飯を食べれない辛さ…
愛する者に甘えられない寂しさ…
あやかには… そう、多分あやかだけは… 彼女の笑顔の奥の涙が見えたのだ
だからなのだ…
「優希ちゃん!!」
餡掛けの飛沫も撒き散らすあやかの大絶叫
場の四人は驚き、椅子の上で文字通り飛び上がって見えた
取り分け呼ばれた当人は目を丸めて、半ば怯えの表情をあやかに向けた
「優希ちゃん、今日はあやかのお家に遊びに来るのだ! あやかのお家で一緒に夕御飯を食べるのだ!」
あやかが優希ちゃんをお招きしたかった一番の理由…
言うまでもなくそれは、彼女に己の夕食を分けてあげたかったからだ
決して貧しい相手に恵んでやる、という思い上がりからでは無い
知恵故障治療中の自分とて、人に自慢できる程の質と量を得ていない事は、こうして給食に向かうだけでも分かるのだ
それでも… そんな自分でも… 夕食の心配をして給食を取り残す、などという事はしない
茶碗一杯の白米とお漬物だけでもよい
それを優希ちゃんに分けてあげたかったのだ
或いは、風上家のお客様になる優希ちゃんには、まどか姉が特別なご馳走を用意してくれるかも知れない
そのチャンスもお家にお招きしてこそ得られるものなのだ
「じぇ… じぇ?」
唐突なあやかのお誘いに戸惑う優希
「う、羨ましいんだよ~ 私もあやかちゃんのお家にお呼ばれしたいんだよ~」
あやかの一番の親友を自認する麦波ちゃんは嫉妬の色を隠さない
「プラチナ疎外感…」
「ウェヒヒ~! 私も風上定食が食べたい!」
他の二人もそう言えば記憶に無い、風上家へのお呼ばれに幻想を抱く
「みんなも今度ご招待するのだ! 今回は優希ちゃんなのだ!」
「私はご遠慮するんだじぇ… 悪いんだじぇ……」
「悪くないのだ! もう決めたのだ!」
「じぇじぇ…?」
あやかの強引な誘いとクラスメイト達の羨望に、初めは遠慮していた優希も心を動かす
別に御相伴にあずかりたい訳では無い
ただ… お友達の家にお呼ばれする、そんなごくありふれた人並みの経験をしてみたい…
そんな気持ちが不意に芽生えてしまったのだ
そんなものとは無縁だと思っていた己の人生…
ここでこの機をのがせば、もう終生経験できないかも知れない…
「じぇじぇ… それじゃちょっとだけ… お邪魔するのじぇ……」
「お邪魔するのだ! 楽しみなのだ! うひょょょょょょぉっ!!」
最近度々近傍の教室から苦情がくるあやかの奇声が、今日も大声量で響いた
嬉しい事や楽しい事があると、昔から行動や感情を制御できなくなるのだが、最近はその頻度と激しさが増加傾向にあった
あやかを蝕む知恵の病は、ゆっくりと、だが着実に、彼女の人としての寿命を食らい尽くそうとしていた