雨に濡れるアスファルトの上を、二つの傘の花が並んで流れて行く
「……それでなのだ! あやかはその時、お空からカフェオレさんがじゃーじゃーと降ってきたのを見たのだ!」
「それではきっと森永の株価は駄々下がりだじぇ… 電車が止まったんだじぇ……」
「確かに電車もカフェオレまみれで、多分美味しそうな匂いになった筈なのだ!」
「週末だったら競馬も中止だじぇ…」
取り留めの無い、というか、たわいもない、というか、健常者には意味すら不明なその会話も、きっと同じ知恵故障同士なら、世界の真理を追及する禅問答にも等しい価値と内容があるのだろう
夢中で語らうそのうちに、風上家の象徴、こぶしの巨木の頂が見えてきた
「あの木の下があやかのお家なのだ!」
雨に霞むそれを、何故か誇らしげに指さすあやか
「……やっぱり私は帰るんだじぇ!?」
この期に及んで再び遠慮し始める優希ちゃんの手を取り、残り僅かな家路を駆け出すあやか
二組のスニーカーが水飛沫を跳ね上げ、それが落ちて波紋を描き、二人の後を彗星の尾の様に棚引いていった
「どうぞご遠慮無くなくなのだ!」
お姉達が時折聞かせるその台詞を、あやかも一度は発してみたいと思っていた
その夢はたった今叶った
「お、お邪魔します… のじぇ……」
あやかの押し広げた玄関に、中の様子を伺いながら恐る恐る身を滑り込ませる優希ちゃん
「お姉達はまだ帰ってないのだ! 優希ちゃん、それまであやかのお部屋で"良い子"にして遊ぶのだ!」
そう言って一旦玄関を上がり掛け、それから慌てて己の着衣をまさぐるあやか
今日はフランスの女優ごっこを自粛した甲斐あり、それは床を水浸しにする程には濡れてはいなかった
これならきっと大丈夫
あやかは振り向き、優希ちゃんを笑顔で二階に促す
「…………じぇじぇ」
優希ちゃんはそれが風上家の作法と思ったのか、直前のあやかの行動を真似、己の全身をまさぐってからその後に続いた
「あやかちゃんは… お姉ちゃん達と住んでいるのじぇ? お父さんとお母さんは… じぇ?」
前を行くあやかの背中に優希が語り掛ける
「!! 優希ちゃん、どうしてあやかがお姉達と暮らしている事を知ってるのだ!? もしかしてチョーノーリョクシャさんなのだ!?」
「さ、さっき自分で言ったのじぇ…」
知恵故障レベルではやはりあやかが一枚上手な様だ
振り向いたあやかは狐に摘ままれた様な面持ちで頭を掻くと、再び階段を上がり始める
「……お父さんはいないのだ… お父さんはずっと昔に… あやかがまだ子供の頃にいなくなったのだ…」
知恵故障なりに気まずい事を聞いてしまったと優希は思った
咄嗟にそれを誤魔化す為、話題を自分に切り替えた
「……そ、そうなのじぇ… 私も… お母さんは小さい頃に死んじゃったんだじぇ… あやかちゃんはお母さんがいていいのじぇ……」
自分も片親が居ない事を伝えれば丸く収まる…
そんな思いが半分、もう半分は本音だった
奇しくも片親が居ない者同士、優希も漠然とあやかに友情を越えた親しみを感じていた
「ここがあやかのお部屋なのだ! どうぞどうぞなのだ!」
幸いあやかのテンションも変わりはない様で、優希は胸を撫で下ろしながら彼女が招くそのドアを潜った
「……凄いんだじぇ… "女の子のお部屋"だじぇ……」
お世辞では無かった
そこにはウィークリーマンションを転々とするという、歪んだ青春を送る優希が憧れた光景が広がっていた
ピンクと黄色を基調としたベッドと寝具…
何やら可愛らしい小物が居並ぶ飾り棚…
少女雑誌や漫画本や並ぶ本棚…
大きなぬいぐるみが鎮座する学習机…
多分これが、自分と同年代の女の子の標準的な部屋なのだ
デレビで見たそれと同じだ
優希は感動と劣等感の織り混ざった複雑な心境で、その部屋を隅々まで観察していた
もし自分がこんなお部屋の主なら、あそこはこんな風にアレンジして… きっとそこにはあんな風な物をいっぱい並べて…
そしてそこで暮らす私は毎日…
忘れていたのでは無い
努めて意識して来なかった普通の女の子としての自分を、あやかの部屋に足を踏み入れた瞬間に呼び戻していた
「そ、そなのだ!? あやかのお部屋、カワイイのだ!?」
一方、生まれて初めて招き入れた客人に自室を全肯定されたあやかはご満悦である
感嘆の声を漏らす優希ちゃんの姿に、鼻孔を広げて惚けた表情を浮かべる
あやかは知らない
ウィークリーマンションに暮らす優希ちゃんが言う、"女の子のお部屋"の基準が著しく低いという事を…
もしこれが仮に麦波ちゃんなら…
『あやかちゃんは凄いね~ いつ大地震が来てもすぐ逃げられる様に、私物は最小限に留めているんだね~』
…と、だいぶ角度の擦れた満点評価を下されていた事だろう
月火ちゃんでさえ…
『プラチナ霊道』
…と、あやかの部屋に立ち込める、何とも言えない原因不明の湿っぽさと仄暗さを、独自の感性で表現したのではなかろうか?
鹿目ちゃんに至っては…
『ウェヒヒ! このお部屋、全く以て可愛くない!』
…と、何処までも感情に実直に、ストレートに本音をさらけ出し、あやかを憤激号泣させていたに違いない
要は極めて低次元な"女の子談義"なのであった
「優希ちゃん! 何をして遊ぶのだ!?」
頗る上機嫌のあやかはフローリングに女の子座りをすると、座布団のつもりか、年季と湿気を蓄積したペラペラのクッションを優希ちゃんに差し出す
「じぇじぇ…? じゃんけんはどうだじぇ?」
「う~ん… じゃんけんは学校でもできるのだ…… 折り紙はどうなのだ!?」
「じぇじぇ 折り紙は得意なんだじぇ」
「それじゃ決まりなのだ!」
ベッドの下に半身を突っ込み、四角い海苔の空き缶を引っ張り出すあやか
そのまま蓋を開けると、煩雑に押し込まれた折り紙のカラフルが二人の目に飛び込んできた
「じぇじぇ いっぱいあるのじぇ」
「あやか、むぎ茶が得意なのだ!」
そう言って茶色の一枚に手を伸ばしたあやかは、何度かそれを織り込んで、何の変哲もない長方形をその場に現出させる
「凄いんだじぇ! 確かにむぎ茶だじぇ!」
知恵故障的には会心のデキなのだろう
今度は負けじと優希が赤い一枚に手を伸ばす
「……大赤班だじぇ………」
一人遊び全般が得意な彼女は、そう言うだけあって、慣れた手つきで作品を披露する
「だ… 赤飯? 大きなお赤飯?」
「違うのじぇ… 木星の大きな目玉だじぇ……」
「うひぁぁぁぁぁぁっ!? こ、怖いのだぁぁぁ!!」
同じ目線の相手と繰り広げられる創作遊戯は、恐怖の刺激ですら快感であり、それは優希も同じであった
「胃薬なのだ!」
「パックマンの餌だじぇ!」
「アリ地獄なのだ!」
「トンボに似た何かだじぇ!」
次々と生み出される前衛的折り紙アートの数々
健常者の目には、資源を浪費したゴミ屑にしか映らないそれで、軈て二人の周りは覆い尽くされる
「……優希ちゃんは兄弟は居ないのだ?」
額に汗を滲ませながら、大作"三連花火師"に挑むあやかが今度は尋ねた
「居ないんだじぇ… お父さんと二人きりだじぇ…」
カウンティックアーティファクトの"セクシーカジノディーラー"の製作が佳境に入った優希は顔を上げずに答える
いつの間にか秋の陽は落ち、あやかの部屋を電信柱の蛍光灯がぼんやりと照らしていた
「お父さんの事が大好きなのだ?」
「大好きだじぇ!」
間髪入れずに答えた優希の声には張りがあった
「あやかちゃんはお母さんの事が大好きだじぇ?」
「大好きなのだ!」
今度はあやかが声を張る
そして、出来たの掛け声と共に、渾身の大作を場に放る
「凄いんだじぇ… あやかちゃんは折り紙の天才だじぇ!」
そう言って優希も今日一番の自信作を披露する
「うひょぉっ!? 凄いのだ! あやかの負けなのだ!」
「そんな事ないのじぇ 私の負けだじぇ」
天才は天才を知るのだろう
互いの才能と健闘を清々しい気持ちで称え合う
『ガチャガチャン』
丁度その時、階下から玄関の鍵を開ける音が響いた
「!! 帰ってきたのだ!」
時計を見ればもう5時を回っていた
「この勝負は引き分けなのだ…」
いつの間にか創作合戦という体になっていたそれは、あやかの裁定で引き分けとなった
優希も頷いてそれを了承する
「ご挨拶をするんだじぇ…」
中学生ともなれば常識ではあるが、特に渡り鳥の様な、根なし草の様な、浮動の人生を歩む優希は、そういった礼節を特に重んじた
一期一会、そういった感覚を本能に染み込ませているのかも知れない
「まっ… ダメなのだ… よ、呼ばれるまではダメなのだ…」
部屋を出ようとする優希ちゃんを、あやかはすがり付いて必死に止める
「じぇじぇ?」
奇妙な物言いだが、これも風上家の仕来たりなのかと、優希は思い止まった
郷に入らば郷に従えも、浮動の人生の教訓である
「もうちょっと… 呼ばれるまで"良い子"にしてるのだ…」
あやかは小声で優希ちゃんに語り掛け、再びクッションに腰を下ろす様に促す
良い子にしていなくとも、流石にお客様である優希ちゃんにお仕置きはあるまい
だがその後にあやかが三倍返しをされるのは目に見えているのだ
友達に怪訝な顔をされても、どうしてもそれだけは避けたいのだ
「カ、カーテンを閉めるのだ…」
すっかり暗くなった部屋に明かりを灯し、カーテンを引く
丁度その時、もう一人の姉、さやかが帰宅した様だ
「……あやかちゃん、この透明な折り紙は何なのじぇ?」
空き缶の中から見慣れぬ紫の一枚を摘まんで掲げる優希
きっとずっとそこにあったのだが、薄明かりの中では気が付かなかったのだろう
「それはパスポートさんなのだ…!」
ちょっとだけ声のボリュームを上げて答える
「パスポート… じぇ…?」
小首を傾げる優希
「そうなのだ… これをこうして……」
あやかは優希ちゃんの隣に寄り添い、その頬同士をくっ付けて、透明なそれを持つ彼女の手を部屋の明かりに翳す
「じぇじぇ!?」
「ねっ? 凄いのだ!」
紫色のパラレルワールドが二人の前に現れ、思わず驚嘆の声を漏らす
「!?」
その時、階段を踏み締めるさやか姉の足音が聞こえてきた
本能で身体がビクンと反応する
こんな帰りの遅い日は、基本的に夕食を終えるまでリビングで過ごすさやか姉
それが階段を登って来るという事は、もう理由は一つしかない
つい油断してしまった
思わず大きな声を出してしまった
友達の前でボコボコにお仕置きされる事は無い、と高を括った己の予見が崩壊していくのを感じた
「あぁ……」
「どうしたのじぇ? あやかちゃん…!?」
急に顔を青ざめさせ、小刻みに震えるあやかに怪訝な顔を向ける優希
さやか姉の足音が部屋の前に差し掛かる
足音だけでもさやか姉だと分かるのだ
次の瞬間にはあのドアから般若の形相のさやか姉が飛び込んで来て、強烈な飛び膝蹴りをお見舞いされるのだ
友達の前で鼻血まみれにされるのだ
きっと優希ちゃんは逃げ帰ってしまう事だろう
明日から学校ではもうプリンセスのあやかでは無い
姉から激しいお仕置きをされる情けない馬鹿な妹になるのだ
なんで優希ちゃんをお家に招いてしまったのか…
これがあるから今までお友達を招かなかったのに…
あやかの遅すぎた後悔が頭を過り、そしてそのドアは勢い良く開け放たれた
「こんばんは~」
実際には静かに丁寧に押し広げたられた
ドアの隙間からたおやかな表情のさやか姉が、長い髪を垂らして覗き込んで来た
「こんばんはなのじぇ! お邪魔していますのじぇ!」
優希は極自然に常識的な挨拶を返す
「あら可愛い子ね~」
そう言ってドアを潜るさやか姉の手にはトレイがあり、更にその上にはオレンジの液体が満たされたガラスコップが二つと、綺麗な菓子包みが二つ乗せられていた
「ふふっ あやかがいつもお世話になってます 姉のさやかよ」
「こちらこそお世話になってますのじぇ 片岡優希と申しますのじぇ」
膝を正し、三つ指をついて深々と頭を垂れる優希
「まぁ 何処かの誰かさんとは違ってお上品ね~」
さやか姉の言う何処かの誰かさんが自分の事であるのは直ぐ分かったが、全く異論は無かった
あやかも優希ちゃんの大人な礼儀作法に感じ入っていた
「もうあやか~ ジュースぐらい出しなさいよ~ ……はいこれ、もうすぐご飯になるから寛いでいてね」
そう言ってトレイをベッドの上に置く
普段滅多に目にする事の無い、さやか姉の慎ましく御淑やかな姿にあやかは思わず閉口する
冷蔵庫から勝手にジュースを取り出す事など、あやかが行えば家庭反逆罪間違いなしだが、今それを指摘するのは命取りになる事を彼女の本能が機敏に察した
「それじゃ後でね~」
まるでちょっとした女神の様なさやか姉は、そう言って小さく手を振ると、再びドアの隙間に姿を消した
「なんて綺麗で優しいお姉さんなんだじぇ… あやかちゃんが羨ましいんだじぇ……」
お世辞などでは無い
優希は心の底からそう思った
「……………あやかちゃん?」
向けた視線の先で、魂が抜けた様なあやかがぼうっと宙空を眺めていた
「あやかちゃん?」
「えっ…!? あぁ ご、ごめんなのだ! こ、これ 一緒に頂くのだ!」
やっと我に返ったあやかがトレイを二人の間に置く
「平日からお菓子とジュースだなんて… あやか幸せ過ぎて怖いのだ! 優希ちゃんのお陰なのだ!」
あやかにとっておやつというものは、休日日曜だけに許される贅沢である
海軍の船乗りが金曜日にカレーを食べていたのと同じ理由により、まどか姉から下賜されるのである
それがまさか、いくらお友達を招いたとはいえ、自分の分まで用意されようとは…
あやかが意識を飛ばしていた理由、それはこのおやつとさやか姉の態度である
あやかの中で小さかったある種の期待が、今大きく丈を伸ばして大輪の花を咲かそうとしていた
(これは… これはひょっとして… 期待してもいいのではないのだ!?)
今日一日… 否一晩だけは… 知恵故障療養から解放されるのではないか…?
そんな期待が現実の物となって、あやかの心の内を激しく乱打していたのだ
「……あやかちゃん… もしかして… 糖尿病とかなのじぇ…?」
対面の優希ちゃんが不安気な表情を浮かべて此方を覗き込む
「な… どうしてなのだ…?」
「だって… おやつ止められてるのじぇ? 私のせいで… あやかちゃんのお病気が… じぇ……」
重い知恵故障を患うあやかは、どうしても自分の感覚で世を眺めようとしてしまう
その為、時として付近に誤解を生じさせてしまうのだ
そうなのだ
おやつなど、普通の家庭では当たり前なのだ
あやかが知恵故障治療中である事はトップシークレットなのだ
まどか姉ともそう約束したのだ
危うく反古にして殺処されるところだったのだ
「ち、違うのだ! お夕飯が近いから、ホントは食べられないという意味なのだ! そういう意味なのだ! ホントのホントなのだ!」
わりと上手い誤魔化しだったと自分でも思った
「なんだ、そういう事だったのじぇ あやかちゃんのお家は厳しいのじぇ」
「厳しいのだ」
そう言えばカラカラだったと喉をオレンジジュースで潤した二人は、目を合わせて特に意味も無く笑い合った
気の置けない友とゆったりとした時間を過ごす事は、それだけで幸せな事であるとは、悲しいかな、知る由も無い二人なのであった
「あやか~ ご飯よ~」
これまた記憶に無い程の、優しいさやか姉の呼び声が階下から響いた
「優希ちゃん、行くのだ!」
漸くメインイベントの開催である
あやかはまるで妹にそうする様に、優希ちゃんの手を取って階段を下りて行った