風上家に生まれて   作:新六毛

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雨蛙の憂鬱 2

あやかが最初に己の身体の異変に気付いたのは、約一ヶ月程前の事だった

正解に言えば、最初に異変に気付いたのはさやか姉だった

その夜更け、それまで感じた事のない悪心に目を覚ましたあやか

全身がまるで風呂上がりの様な、びっしょりとした寝汗をかいていた

 

「……きぼち… わるいのだ……」

 

起き抜けに吐き気を覚え、洗面台に向かおうとベッドを立つと、足がふらつく目が回る

それでも何とか廊下の突き当たり、洗面台に辿り着くと、待っていたかの様に、一気に胃の奥から何かが込み上げ、そのまま激しく嘔吐した

何度も吐いた

何度吐いても悪心は収まらなかった

時々遠退く意識で、悪心の心当たりを探るが、何も思い当たらない

少し気になるのは、その夜腹部に受けた、さやか姉のお仕置きニー・バットぐらいだが、ダメージ的にはそれまでと大差は無く、ある意味熟れたあやかはきちんと重心を反らし、内臓への打撃を最小限にとどめたのだ

食当たりの線も、その日の夕食がザラメ煎餅二枚だった事を考えると、知恵故障的にも可能性はゼロと断言できた

……では一体?

 

「……えぐっ ……えぐっ ……えぐぅぅっ……」

 

痙攣する様に嘔吐くあやかの胃からは、もう僅かな胃液しか吹き出さない

それでも吐き気が治まる事は無かった

 

(苦しいのだ… おかしいのだ… あやか… どうしちゃったのだ…?)

 

初めて経験する異常事態に、恐慌一歩手前まで追い詰められる

その時だった

 

『ガチャン』

 

背後でドアが開いた

二階にはさやか姉しかいない

あやかは助けを求めようと、洗面台に凭れたまま、顔を後ろに向けた

 

「……何やってんのよ… きったない… 外でやってきなさいよ……」

 

だが、眠りを妨げられ、不機嫌の極みといった表情のさやか姉を見た瞬間、別の刺激があやかの胃の収斂を治めた

そして恐怖から逃れる様に、咄嗟に自室へと駆け込む

悪心は続いていたが、さやか姉の不機嫌に対する恐怖の方が勝った

そのまま文字通りベッドに倒れ込み、荒い息を肩で繰り返した

 

『……ゴボゴボ……』

 

トイレを済ましたさやか姉の気配を廊下に感じた

……直後

 

「い、いゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

耳をつんざく悲鳴が木霊した

多分、近隣のお宅まで響いた事だろう

 

(しまったのだ…)

 

苦しみに悶えながら、あやかは己の不始末を後悔した

嘔吐したい一心で、明かりも付ける暇もなかった洗面台

恐らくはあやかの吐瀉物で、でろでろにまみれていたのだろう

これは完全に朝までフルボッココースである

流石に今の体調では…

この状態で更なるニー・バットを受ければ、今度は下の方の吐瀉が心配である

一応多感なお年頃として、それだけは避けたい

霞む意識でそんな悠長な事を考えた

 

「あやかぁぁぁぁぁっ!? あやかぁぁぁぁぁ!!」

 

だが、その叫びはお仕置き前のラウンドコールとは違っていた

動転、動揺、パニック…

今までに聞いた事の無いさやか姉の叫び

 

「!?」

 

思わずあやかも頭を擡げる

 

「まどか姉ぇぇぇぇっ!!」

 

姉を呼ぶ叫びと、階段を駆け上るその足音は同時に聞こえた

恐らくは最初の悲鳴で、最愛の長妹の危機を認知し飛び起きたのだろう

仮にもしその悲鳴の原因が、侵入した変質者であり、正にさやか姉を毒牙に掛けんとする寸前だったとすれば、間違いなくその変質者は、まどか姉のその勢いから繰り出される渾身の飛び膝蹴りに、頭蓋骨を粉砕されていた事だろう

それ程の勢いだった

 

「あやかがぁぁぁぁっ!!」

 

再度響いたその叫びと共に、二人の姉があやかの部屋のドアを破った

そう言えば、お姉達が二人同時に自分の部屋に来るのは珍しいのだ…

あやかは呑気にそんな事を思い描いた

 

「あやかっ!? しっかり!! しっかり!!」

「どうしましたの…!?」

 

更にはその二人が顔を近付け、自分を心配の面持ちで覗き込む事で、得も言われぬ幸福感に包まれ、その為なのか、そこで意識をスッと失った

 

それからあやかは意識不明のまま、生涯二度目となる救急車に乗り、緊急救命病院に搬送された

大量の吐血による貧血

それが取り敢えずの診断結果だった

 

 

 

 

 

「……これが、何に見えますか?」

 

白衣に身を包んだ男性が、一枚のフリップをあやかの目の前に掲げた

白地に黒い三角形、その下に同じく黒の波線が三本…

そこには至極単純なイラストが描かれていた

 

「……………」

 

あやかは視界の隅で、物憂げな表情を見せるまどか姉にちらりと視線を向けた後、慎重に答えを吟味して口を開いた

 

「……どら焼きさんに食べられる… 中国の偉い人…? ……に見えます… のだ」

 

一瞬、白衣の男性… 脳神経科の担当医師の顔が強張るのを、あやかは見逃さなかった

 

「……ん~…… はい…… そうですか……」

 

直後のそのリアクションも相俟って、あやかは己の答えが、求められていた物と大きく違っていた事を理解し、思わず頭を垂れた

 

緊急搬送後の処置入院の最中、あやかは様々な精密検査を受けた

血液と尿の採取、MRIにCTスキャナーは勿論の事、身長体重視力に握力、更には踏み台昇降から千五百メートル走のタイムラップ、上体反らしにスリーサイズの精密測定まで…

凡そあやかの経験に照らしても、これ程までの濃密で念入りな検査を受けた事は未だ嘗て無かった

それ程までに、己を蝕む病は重篤なのだろう

知恵故障の数少ないメリットの一つ、能天気なまでの楽観主義をしても、あやかは"死"の一文字を強烈に意識せざるを得なかった

 

そして今、掛かり付けの脳神経科の担当医師による、知恵故障の進行度検査も、あやかの絶望を後押しする物となった

 

「……うん… まぁ… そうですね…… 頑張りましょう……」

 

言葉にするに窮する

そんな印象をあやかすら覚える、担当医師の途方に暮れたリアクション…

 

「……あの……」

 

石膏に固められたかの様に、身動ぐ事もできなくなっていたあやか

そんな彼女の代わり声を発したのは、付き添いのまどか姉だった

 

「……家族で… 姉妹で… 『旅行』に行こうと思いますの…… 可能でございましょうか?」

 

「!?」

 

その内容に驚いたのは、他ならなぬあやかだった

 

(姉妹で… 旅行……?)

 

言葉自体の意味は分かるが、イメージが浮かばなかった

 

「……まぁ… ……大丈夫… でしょう…… ……頑張ってらっしゃい!」

 

担当医師は、何かに踏ん切りを付けるかの様な力の入れようで、まどか姉の申請企画にGOサインを出した

 

「……良かったわね、あやか……」

 

そう言って此方を向くまどか姉の顔を見て、あやかは思わずドキッとなった

なんと朗らかで、暖かくて、それでいて神々しい程眩しい表情なのか…?

これではまるで女神…

まさに女神そのもの…

あのまどか姉が、自分にこんなにも慈愛に満ちた表情を向けてくれるだなんて…

否、まどか姉はいつも慈愛に満ちていた

いつも女神の様な、母の様な存在だった

ただ、今此方に向けられるそれには、それまでの保護者としての厳しさや力強さといった成分が皆無であった

そこにあったのは只の愛…

純度100%の愛だった

あやかにもそれは感じ取れた

 

「……うん!」

 

だからあやかは涙を浮かべて大きく頷いた

その涙は、長姉の深い愛に絆された感動と、もうきっとその愛する人とは、長い時間を共有する事はできないだろうという、悲しい予感の織り交ざった、複雑な感情のもたらす物だった

 

……だからせめて、あやかは残された時間を懸命に、心に焼き付けようと決心したのだ

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