「多分… あの建物よ!」
硫黄の香り漂う温泉街
昭和情緒の面影残る、趣あるその直中を行く三姉妹の先頭で、さやかが彼方を指差した
「凄いのだ! 高級で立派な感じなのだ!」
あやかの歓声は三姉妹の心の代弁だった
歴史を蓄積した温泉街、その背景に聳え立つ近代和風の十数階建は、見ようによっては景観をぶち壊す、殺風景なまでの高級感を漂わせてそこに聳立していた
「まどか姉… あれは~… きっと凄く高い宿なんじゃない?」
両手を後ろに組んで、まどか姉と肩を並べたさやかは、少しからかう様にはにかんで、その顔を覗き込んだ
「ふふっ そうね… 値段に見合うお宿だと良いですわね」
まどかはそう言って、前を見たまま微笑んだ
彼女の束ねた長い黒髪と、華奢にも見える細い身体の線が、古い温泉街ととてもマッチしていた
そう、まるで温泉宿の女将みたいに…
さやかはそんな印象を抱いた
「……早く美味しい物、食べたいのだ ……あ、温かい温泉にも入りたいのだ」
仲良く肩を寄せ合う姉達の姿に、自分もそこに加わりたくなったあやかは、適当な言葉を紡いでから、二人に歩調を合わせて近付いた
途中、ちらりと向けられたまどか姉の視線に、悲しい条件反射で身を竦ませたが、当然もうお仕置きなど施される筈など無く、二人の姉はあやかを挟んでその手を握り、夕暮れ空に流れる湯煙の下を、横一列となって歩いて行くのだった
あやかは遠い昔、幼き日の光景を思い出した
あの日もそう、夕焼け空に向かって歩いていた
まどか姉に左手を、さやか姉に右手を握られて、美味しい晩御飯の支度をしているであろう母の元へ…
頬を流れる一滴に、太陽の紅が射し込んで、琥珀の様に輝いて見せた
「遠い所、ようこそおいで下さいました お疲れでございましょう ささっ、此方へ…」
玄関から見上げる宿の偉容は、遠景よりも更に高級感に溢れ、場違いにも通じる滑稽すら滲ませて、あやかをしても思わず笑いを込み上げさせる程だった
そんなポカンとした立ち尽くす三姉妹を、仲居頭と思しき和装の中年女性が出迎える
直ぐ様、別の仲居と男衆もロビーから飛び出して来て、姉達が持つ手荷物を受け取った
あやかには宿の接客に関する知識は無いが、それでも十分と丁寧で親切な印象を覚えた
狂騒モード…
もし普段のあやかなら、御殿で大人に傅かれるという非日常により、生まれ持ってのプリンセス願望を大いに刺激され、奇声を上げながらの、プリンセスダンスなる多動障害を発症していたに違いない
だが今のあやかは、親切な仲居さん達に笑顔で会釈をする、気立ての良い、可愛らしい女の子でしかなかった
まるで健常者…
つまり、それ程に彼女の患う病は重篤な局面にあると言えた
皮肉にも命を蝕む病魔が、最期の時を迎えて、彼女の失われた人間性を取り戻させていたのだ
「さぁ、此方へ… 今、お茶などお持ち致します」
吹き抜けの広々としたロビー
そこに招き入れられた三姉妹は、そのままソファーの一組を進められ、腰を下ろした
柔らか過ぎるそのクッションは、寧ろ座り心地の悪さを感じて、あやかは何度も腰の角度を正した
「凄いわね~…」
さやか姉の囁きに大きく頷いた後、改めて吹き抜けの天井を見上げる
そこには天の川が架かっていた
無数の光球の連なる電飾を、あやかの前衛的知恵故障感覚はそう捉えた
天の川の中では、一頭の大きな白鯨が優雅に泳いでいた
吊るされた和紙の巨大なオブジェが、あやかの目にはそう見えた
「……凄いのだ……」
あやかの瞳の中のキラキラは、電飾の光を反射しての物だけでは無かった
そのキラキラを瞬きの中に納めて、今度は視線を周りへとに向けた
黒光りするピカピカの石、あやかが名を知らない黒大理石が敷き詰められた床は艶やかで、鏡の様に景色を反射して見せた
ロビーの一角には日本庭園が模してあり、その中央には錦鯉が泳ぐ池もあった
元気な頃のあやかなら、水面に顔を近付けて、錦鯉とコミュニケーションを取っていただろう
…が、やはり今の彼女は身体の重さを感じて、それを行うテンションには無かった
「……お待たせ致しました… 本日は当館をご利用頂き、誠にありがとうございます…」
先程の仲居頭が再び姿を現し、三姉妹の前に緑の液体が満たされた、歪なお椀を差し出す
三つそれぞれが微妙に形の違うそのお椀に、あやかはきっとこのおばさんが手を滑らせて、お客様用のお揃いを割ってしまったのだと思い、彼女が旅館の偉い人にお仕置きされないかと、恥知らずな老婆心を働かせた
「……にが……」
そしてさやか姉を真似て、そのお椀を何度か回してから口に運んだが、小松菜ジュースだと思ったそれは苦くて渋い、お茶の出涸らしだった
お客さんに出すお茶としてはあり得ない
このおばさんはきっと、自分と同じおっちょこちょいなのだろうと、あやかは何だか親近感が湧いて思わず笑顔を向けた
まどか姉と何事が会話を交わしていた仲居頭は、そんなあやかの視線に気付いて、更ににこやかな笑顔を返してきた
「……それではお部屋にご案内致します」
一息もついたという頃合い、仲居頭に続いて三姉妹も立ち上がり、その後に続いて、これまた豪華絢爛なエレベーターの金色扉に吸い込まれて行った
「……ちょっとちょっと~… 凄く良い部屋じゃない~!」
「あやか、ここに住みたいのだ~」
ごゆっくり、何かありましたら、そんな言葉を残して仲居頭が消えた後、さやか姉とあやかは部屋の探索を開始した
そして想像以上の"良いお部屋"ぶりに、感嘆の声を漏らした
畳敷きの十二畳間と八畳間、ツインサイズのベッドが二つ並ぶ洋間、内風呂も檜造りの半露天
どこも高そうな調度品が備えられ、隅々まで清掃も行き届き、庶民感覚の対極に溢れていた
七階に位置するそこからは、昼間遊覧した太平洋の海原が微かに望まれ、眼下には先程散策した温泉街が、ぽつぽつと明かりを灯す様が見て取れた
それがまた、隔世の幻想感を醸し出していた
「アタシ、このベッドで寝る~!」
さやか姉が広いベッドにダイブする
「あやかはこっちなのだ!」
負けじとあやかは、隣のベッドの領有を宣言する
「ふふっ あやかはともかく… さやかもまだまだ子供ね」
顔を覗かせたまどか姉が、妹達のあどけない姿に思わず目を細める
「うふふっ だって~… そうだ! みんなでお風呂行こうよ!」
赤面のさやか姉は誤魔化す様に、宿の自慢でもあるという源泉温泉への、姉妹揃っての入浴を提案する
「やった~! あやかも温泉に入りたいのだ~!」
そうだ、そもそもこの旅の目的は湯治だった筈だ
その主役であるあやかは、わざとそれに気が付かない振りをして、大袈裟なリアクションを伴って喜んで見せる
事実、姉達と一緒にお風呂に入るという、風上家の手狭なユニットバスでは叶わない夢の実現は、あやかにとってとびきりの"想い出"になる筈であり、素直に嬉しくもあった
「ふふっ 先に二人でお行きなさい わたくしは大会の手続きを済ませておきますわ… 敵情視察も兼ねましてね」
だがまどか姉は、そんな事を言ってウインクをして見せると、ベッドルームを出て行ってしまった
「そっか… じゃあ、あやか 二人で行こうよ」
「?……うん!」
あやかはまどか姉の言葉が何か気に掛かったが、さやか姉の誘いに因って直ぐにそれは霧散した
三人姉妹で入りたかったが、それはまた後で…
たまには妹同士、水入らずも良いだろう
そんな風に思い直してバスタオルを小脇に抱えると、さやか姉の後を追って部屋を出た
そして再びエレベーターに乗って、最上階にあるという露天風呂へと向かうのだった
(まるで夢みたいなのだ……)
あやかは、ガラス張りのカーゴの向こうを流れる景色を見ながら、そんな色んな意味の籠った台詞を心の中で呟いた