風上家に生まれて   作:新六毛

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雨蛙の憂鬱 4

……嘗て人類は、この地球は宇宙の中心にあり、太陽を含む全ての天体は地球の周りを回っていると信じていました

 

人々を苦しめる病魔が、文字通り悪霊の仕業であると、長い間信じて疑いませんでした

 

深い森の奥… 大地に空いた洞穴… 雲に覆われる高山の頂…

そこに人ならざぬ異形の息吹きを感じ、畏敬や信仰の対象としてきました

 

干魃や冷害が人智を越えた存在の災いと信じ、生け贄を捧げたり、時には勇者が討伐の旅に向かいました

 

月が太陽を覆う時、世界の終わりを覚悟しました

 

そして再び太陽が姿を現した時、そこに神なる存在を垣間見ました

 

 

 

今を生きる私達は、もうそこに何者の姿も認める事はできません

日食が天体現象の一つである事を知っているからです

感染症はウィルスがもたらす物だという事も知った私達はもう、病人を前に悪魔払いの儀式は行いません

地球は太陽の周りを回る一天体で、その太陽すら銀河を回る幾千万の一つでしかない事も、当然常識としてわきまえています

森を切り開き、山を削り、湖を埋め立てて、人類はまるでこの世界を作り替えるかの如く、開拓の手を緩めません

そこにはお伽噺の妖精や神獣の姿はありませんでした

……逃げ出しただけなのかもしれませんが……

そして行き過ぎた環境開発が、自然のバランスを崩し、干魃や水害などを引き起こす原因となっている事にも気付いています

 

自然環境にすら干渉が可能となった私達人類は、ある意味その存在自体が、嘗て自らが"神"と呼んでいた者に近付いたのでは…

そう思う時があります

この世界の理の全てを理解し、それすら操ろうとする姿は、確かに嘗て日食に戦いていた頃の人類とはかけ離れています

 

……果たして、人は本当に神へと近付いたのでしょうか?

 

宇宙物理学者のドロシー・ジェファーソンは、重力波研究の第一人者です

彼女は重力を伝播する空間の特性を研究する最中で、思考実験の結果と現実の世界が見せる姿との解離に頭を悩ませてきました

 

「……例えば、真空の宇宙… それをイメージして下さい… 宇宙のほとんどの領域は真空で、文字通り何も無い状態… 厳密に言えば、微量の水素原子などは漂いますが、それ以外には本当に何も無い… 無の世界です……」

 

ジェファーソン女史は、そう言って一つのガラス瓶を取り出しました

 

「…この瓶の中は真空に保たれています これを覗いて見ましょう ……どうでしょう? 私の顔が見えますね? これはつまり、この瓶の中を、私の顔の表面で反射した光が透過した事を物語っています」

 

彼女は、これこそが宇宙物理学に於ける、一つの大きな難題なのだと力説します

 

「……真空が無の領域だとすれば、この光の透過は何を意味するのでしょうか? 真空が真に無であるならば、光ですら伝播する事はできない筈なのです」

 

"無"とエネルギーの"伝播"…

相反するこの物理現象を解く鍵は、発想の転換にあると、彼女は解説します

 

「……つまり、こう言う事です… この瓶の中は真空ですが、"無"ではないのです ……真空という物理状態を作り出す、何らかの物質で満たされているのです」

 

真空は真空では無く、真空として観測される物質でぎゅうぎゅうに詰まっている…

それが彼女の導き出した結論でした

一見、狐に摘ままれた様な話ですが、彼女に言わせればそれは、私達の日常にも当て嵌まる思考のロジックを単純になぞっただけなのだそうです

 

「庭一面に散らばった落ち葉が、朝起きたら庭の隅にダストボックスに集められていたら、皆さんはどう思います…? 落ち葉が自分の意思で移動した? いいえ、ありえません …では風が吹き寄せた? 可能性はゼロではありませんが、現実的ではありません …じゃあ答えは…? ……つまりそう言う事です」

 

彼女に言わせれば、人類がこれまで知り得た知識などは、宇宙の真理に迫るものなどでは無く、ごく当たり前の現象を、ごく当たり前に考察していった結果でしかないと言うのです

人は神に近付いた訳では無く、神とは何なのか、と考えられる知的水準に、漸く到達したに過ぎないのだと言うのです

そして彼女は断言します

 

「私達の"常識"などは、ほんの数百年周期で幾度も書き換えられてきました… そしてそれは、これからもずっと続いて行く事でしょう……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あっ いっけない! 髪留め忘れちゃった! ……あやか、先に入ってて 直ぐに取って来るから!」

 

湿気と温泉独特の硫黄の香り

それを帯びた空気を、目の前の暖簾の隙間から感じ取れる段になって、さやか姉は忘れ物を思い出し、取りに戻るという

眺めの良い展望デッキの休憩スペース

あやかはそこで待っていると告げたが、身体を冷やすといけないと、先に入浴する様に薦められた

 

「ふぅ~…」

 

結局一人だけ先行する事になってしまった

さやか姉にバイバイした後、あやかは女湯の小豆色の暖簾を手で躱して、引き戸を押し広げた

一段と明確になった湿気が、微かな蒸気を伴って、モワッとあやかに押し寄せた

 

「うひょっ!?」

 

それがあやかのワクワクを刺激して、ほんの少し元気になった気がした

 

(温泉なんて林間学校以来なのだ…)

 

大きなお風呂が大好きなあやかは、そこで入浴したプールの様な大浴場を思い出し、胸を高鳴らせた

上がり場に草履を脱ぎ、それを揃えてから脱衣場に入る

まだ早い時間帯なのか、人の気配は感じない

 

(これはクロールも行けそうなのだ?)

 

そんな場違いな勘違いと共に、さやか姉が早く現れないかと、今潜ったばかりの戸口を振り返る

せっかく広々と使えるなら、さやか姉と戯れたいのだ

何年ぶりだろうか、さやか姉と背中の洗いっこもしたい

またも少しだけ、あやかは元気になった気がした

これも温泉の効能の一つなのだろか?

珍しくそんなまともな考察をしながら、あやかは脱衣篭の並ぶ棚の一角に向かと、羽織を脱いで、それをその一つに軽く畳んでしまった

次いで、まどか姉に締めてもらった帯紐を解き、はたけた浴衣も肩から外す

知恵故障治療食に因って、無駄な脂肪を一切蓄えない細い身体と、それを包む母譲りの白い肌が、板間の上に現となった

惜しむらくは、その胸部と臀部を覆う布切れに、保温と衛生以外の意味が見出だせ無い事であった

その面積と容積の少ない布切れも脱ぎ去り、あやかは文字通り一糸纏わぬ姿となった

見て呉れだけは上の中と、まどか姉に評される彼女の裸身は、確かに年齢のアドバンテージを考慮しても、十分神々しい美しさを備えていた

ただ天は、三女にのみ一物しか与えなかったのである

 

「うひゃぁ~…」

 

流石に肌寒さと、小生意気にも羞恥心を感じ、手拭いで身体の前を覆いがら湯殿へと向かう

 

『カタカタ…』

 

サッシを開く音が、トンネルの様に反響した

湯煙の立ち込めるそこは、あやかの予測を裏切らず、洗い場も湯船も広々として、二十五メートルの遠泳も期待できる程だった

 

「やっほ~!」

 

そして湯煙に目を凝らしても、やはり人影は見当たらず、あやかは広いお風呂を独占できる喜びに、鎮まっていたプリンセス願望の突端を刺激され、小躍りしながら洗い場へと向かった

病は気からの言葉もあるように、やはり姉達との温泉旅という"効能"が、あやかに残された時間を少しだけ長らえたのは、紛れもない事実だった様だ

 

カランの前に腰掛け、至極簡潔に洗髪を済ませたあやかは、それで身体の汚れも落としたと判断して、待望の湯船に足を伸ばす

 

「あちゅ……」

 

予想以上のお湯の熱さに、一端足を引っ込めたが、今度は徐々に馴らしてから、思い切って身体を湯船に沈めた

 

「ぷっは~~~!」

 

あやかは中年男性の様な、豪快なため息を漏すと、御影石の縁に凭れ、湯船のなかで四肢を伸ばした

風上家のユニットバスでは決して味わえない、この開放感

そのまま高い天井を見上げると、照明代わりの梁の行灯が、湯気に霞んで、幻想的な美しさをあやかの眼前に展開した

 

「さやか姉… もしかして迷子になっちゃたのだ…?」

 

くるりと回って俯せになり、サッシの向こうの脱衣場に目を凝らす

せっかくの感動を分かち合いたい相手は、未だ訪れず、もし自分一人ならきっとそうなる様に、部屋に辿り着けずさ迷う次姉の姿を想像した

 

「もうちょっと待って来ないなら… 救出に向かうのだ……」

 

自分でも迷う自信はあるのだが、迷い人と迷い人ならば自動的に迷いのその先で巡り会える

…と考えるのが知恵故障感覚なのである

お湯の効能もあやかに作用し始めた様だ

知恵故障を取り戻すのが健常という、救われのなさではあるが…

 

「ふぅ…」

 

あやかは再び身体の向きを変えると、息を吸い込んでから湯船の中央に向かってその身を投げ出した

しばらく潜水してから浮き上がり、手足を広げて平泳ぎに入る

運動神経も鈍いあやかだが、知恵故障故の怖いもの知らずのお陰か、事水泳だけは人並みの技量を有していた

あやかの旅の目的の一つ、大きなお風呂での遊泳は今叶った

林間学校で味わったあの興奮

プールの様なお風呂は、プールの様に冷たくは無く、足も手もつくのでとても楽ちんだった

ただあの時は同級生が沢山居て、結果手狭となり、思いのままとまではならなかった

だが、今日のここは違う

あの時よりも広いお風呂に、あやか一人だけ…

まさに一人占め、言うならばここはあやかの為のプリンセスプールである

対面の縁にタッチすると、今度は背泳ぎに切り替えた

小さな胸の膨らみが、湯波の間に見え隠れする

凹凸の少ない彼女の肢体は、水の抵抗を受け難く、水泳には適しているのかも知れない

 

「静かにしてよね…」

「ヒイッ!?」

 

無人の筈のこの場所で、凛と響いたその声

あやかは文字通り飛び上がった

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