湯船の中心からやや外れた所、岩を象った湯口の陰からその声はした
湯殿の中でも最も蒸気の濃い辺り、無人と思われたここには先客が居たのだ
「びっくりしたのだ… ごめんなさいなのだ…」
悪気は無くとも、怒られれば謝るのが人生のデフォであるあやかは、声の主に対して直ぐ様謝罪の言葉を紡ぐ
…と同時に、その声の主の元へ、お湯の中を這うようにして近付いて行く
目的は一つ…
果たして、お湯のこんこんと湧き出る岩の向こうに回り込めば、あやかの予測通り、そこに凭れる同年代と思しき少女の姿があった
声色からそうであろうと予想したのだ
「あやかはあやか、風上あやかなのだ! 好きなカッフヌードルはシーフードなのだ!」
お得意の自己紹介は今回も完璧に決まった
詰まるところ、フレンド申請である
旅先の温泉で巡り会った同年代、友達にならない理由があやかには見つからなかった
「………………」
あやかと同じショートカットのその少女は、送られたフレンド申請に反応し、閉じていた瞼をゆっくり開けた
そしてその中の瞳だけを動かして、申請者の姿を一瞥する
「………………」
「………………」
二人の間を、湯口から零れるお湯の音だけが流れる
ファーストコンタクトは空振りの様だ
だが、そんな事でめげるあやかでは無い
フレンド申請が一発で了承される事の方が稀なのだ
舌打ちが返されない限り、目はまだある
あやかの人生録にはそうある
「あやかは織平中学二年の風上あやかなのだ! 好きな蝶々さんは黒揚場さんなのだ!」
今度は満面の笑みも添付しての再申請である
何故そこまでして友達になりたいのか、と問われても、あやかは何の答えも返せないだろう
彼女にしてみれば、目の前を横切ったカナブンも、横断歩道の手前で一緒に並んだ電信柱も、見上げたその先で瞬いた一番星も、自分の人生、世界に関わる全ての物は愛しい存在なのである
ようこそ、あやかのワンダフルプリンセスワールドへ…
重い知恵故障故、自我の境界が曖昧な彼女は、そんな万物に対するホステスとしての精神を、本能に近い部分に身に付けているのだ
またそれが、彼女の処世術とも言える物なのだった
「………………」
だが、そんな彼女の渾身のフレンド申請は、またも無下にされる
少女は暫くあやかを凝視していたが、何らリアクションをする事無く、少し顔を背けると再び瞼を静かに閉じた
「………………」
然しものあやかも心が折れそうになるが、まだ舌打ちは来ていない
ワンチャン、ラスチャンある
そう信じて三度のフレンド申請に挑む
「あやかはまどか姉とさやか姉の妹の風上あやかなのだ! 好きな「静かにしてよ」
だが、最後まで言わせては貰えなかった
取り付く島が無い
脳ハイビスカスなあやかをしても、そう判断せざるを得なかった
「ふぅ…」
少女は迷惑そうに溜息をつくと立ち上がり、湯を割ってあやかの眼前を通り過ぎて行く
一緒の空間には居たく無いとの意思表示である事は、知恵故障のあやかにも理解できた
「……馴れ合うつもりは無いわ……」
「……?」
そんな独り言の様な呟きを、その去り行く背中の向こうから微かに聞き取る事ができた
少女はそのまま洗い場で簡単にシャワーを浴びると、静かに脱衣場へと消えて行った
「………………」
フレンド申請が拒絶される事は珍しくも無いあやかだが、温泉旅行で浮かれつつあった心には、存分と苦く滲みてしまった
せっかく少しだけ体調も良くなったというのに…
「…………そだ……」
そこまで考えてあやかは呟いた
既に陽は落ち、宵闇に包まれた外界
ガラス張りのそこに映る自分の姿をぼんやりとながめて、それに微笑み掛けた
これで良かったのだ
友達を作ってどうするのだ…?
…………もうすぐ死ぬのに………………
『ガラガラ…』
「!?」
サッシの開く音がして、反射的に振り返る
そこには待ちわびた、愛しいさやか姉の姿があった
「ごめんごめん、ちょっと迷っちゃた」
その屈託の無い笑顔を見ただけで、あやかの心は大きく癒された
そうだ、自分には最愛の姉達がいるではないか…!
湯気を払うかの様に、鬱屈した気持ちのモヤモヤが一瞬にして吹き飛んだ
自分は一人では無いのだ
たとえ風上あやかという肉体が滅んでも、お姉達の心の中で、自分はずっと生き続ける事ができるではないか
「何よ~、ニヤニヤしてキモチワルい~ ……ねぇ、露天の方に行こうよ」
そう言えばここは露天風呂が目玉なのだった
さやか姉に誘われて、外へと通じるガラス扉を抜ける
ヒンヤリと冷たい外気が、火照った身体に心地よい
「うわぁ~ 良い眺め~」
高くは無い竹垣の向こうを、恥じらいも無く、仁王立ちで見詰めるさやか姉
幾ら夜で最上階とは言え、その豪胆さには然しものあやかも恐れ入る
だがしかし、そこから眺める下界の夜景がまた、感嘆に価するのも事実だった
「綺麗なのだ~!」
宝石箱を打ちまけた様な、キラキラとピカピカが辺り一面を多い、その飛沫が天空にまで届いて瞬いていた
柔らかな間接照明の灯りに仄かに照らされる露天風呂は、二人で入るには贅沢過ぎる広さであったが、その隅で姉妹は肩を寄せ合った
「二人でお風呂に入るなんて、何年ぶりかな~」
あやかと同じ事をさやか姉も考えていた様だ
ずっと子供の頃は、こうしてさやか姉と… まどか姉とも一緒に入っていた
さやか姉とはヒヨコやボートの玩具で遊び、まどか姉ならいつもシャンプーをしてくれた…
懐かしい… 何もかもが愛しい、掛け替えの無い想い出… 宝物……
母が亡くなり、軈てあやかは、大好きなお姉達とお風呂に入る事はできなくなった
身体が大きくなり過ぎて、風上家のお風呂では手狭になったのだ
今、そう記憶を改竄した
そしてそれから数年ぶりに、湯の中で姉の存在を肌越しに感じる…
「……生まれて来て… あやか、生まれて来て良かったのだ……」
声にするつもりは無かったが、心の奥から零れてしまった
頬を生暖かい滴が垂れて、湯の中に落ちた
「……ふふっ 何言ってるのよ……」
さやか姉の息が耳を擽った
彼女が捏ねる湯の音だけが、暫しの間、二人だけの空間を支配した
「!?」
不意な柔らかな感触に包まれた
あやかはさやか姉に包容されていた
「……生まれて来てくれて…… ありがとう、あやか……」
「ぶほっ!!」
あやかは涙と鼻水と唾液を一緒に噴霧した
爆発した感情に堪え切れなかったのだ
多分、湯の中で別の体液も噴出していた
其ほどの感激だったのだ
そのまま、さやか姉の柔らか過ぎる脂肪の塊に、ギュッと顔を押し付けた
何とも言えない甘い香りが、湯の硫黄を払ってあやかの鼻腔を満たした
時々まどか姉から漂い、ずっと母の匂いだと思っていたそれ…
今、勘違いだったと気付いた
ずっとこうしていたかった
あやかは顔を捩って、頬を包む柔肉の感触を存分に味わうと、湯の中で己の胸元をまさぐった
天は姉達だけには三物を与えていた
それだけがほんの少し、納得がいかなかった
「……あれ?」
湯殿に幾つもの人の気配を感じ始め、そろそろ上がろうかと脱衣場に向かった矢先、先を行くさやか姉が、何かを認めて歩を止めた
「あっ! きっとあの娘のなのだ!」
「あの娘?」
それはあの湯口の模造岩の上に置かれた、赤いおりぼんだった
あやかが邪魔をしたせいで、居づらくなった彼女が思わず忘れてしまった
そう解釈して、責任を感じた
「見つけて届けてあげるのだ」
故障した知恵でも、ホテルのフロントに届けるのが一番だとは理解できる
だが、今一度会ってきちんと彼女に謝罪したいという思いと、それ以上に、もう一度だけこれを機にフレンド申請したい、との思いがあやかを動かした
神様がもう一度だけチャンスをくれた気がしたのだ
例え明日死のうとも、やっぱりお友達は一人でも多い方が良いのだ
一つでも想い出の多い方が…
さやか姉とのふれあいで、そう思いを変えた
だからあやかはお湯に分け入り、それを手にすると、脱衣場でタオルにくるみ、巾着袋の一番奥に大事に保管したのだった