お姉達に倣い、正した膝の下に、浴衣の裾を伸ばして合わせて挟んだあやか
乾かすのも疎かなままの、湿る前髪を指で掻き分けて、目の前で踊る小さな蝋炎を凝視する
それが舐め続ける土鍋の中からは、何とも表現し難い、食欲をそそる香りが蒸気と共に立ち上って来る
もうお腹の中では、例の虫が鳴きっぱなしだ
食欲の増進も健康のバロメーターなら、今のあやかは大分正常な時のそれに近かった
お風呂と並ぶ温泉宿の醍醐味
贅を尽くした山海の美味珍味が、あやかとさやか姉のお風呂帰りを、お部屋で行儀良く待っていた
「ふふっ 穴が空いちゃうわよ」
対面に座したさやか姉が、そんなあやかの姿をニヤニヤしながらからかう
「それじゃ、頂きましょうかしら?」
まどか姉のその言葉を待っていたあやかは、電光石火の勢いでお膳の上の箸を拐う
長姉の合図で風上家の食事が始まるのは、旅先でも同じである
それはお仕置きとは別の、真の意味での躾である
「いっただきま「コホン…」
まどか姉の咳払いで、あやかの動きはピタリと止まる
この辺りは完璧に行き届いたその躾と、完全に染み込んだお仕置きによる作用の賜物である
あやかが最初の獲物と定めていた海老の天ぷらから視線を上げると、その先で、お姉達が小さなお猪口を胸元に掲げているのが目に止まった
「はぅ!」
あやかは慌て箸を置いて、その側に置かれた自分のお猪口を取る
「ふふふ… えぇ、それでは… こうしてわたくし達、風上三姉妹の初めての旅の祝賀と… そして大会での健闘を母に誓いまして……」
いつもに増して奥床しい口調のまどか姉が、いつの間にか傍らに置かれていた母の写真立てに向かってお猪口を捧げる
さやか姉もそれに倣い、何かが少し引っ掛かったあやかも続く
「我ら風上三姉妹、生まれし時は違えども、願わくば同年同月同日に死せん事を… 乾杯!」
「乾杯」
「!? か… 乾杯なのだ…?」
お姉達に遅れを取らぬ様、あやかもお猪口を一気に煽る
「しゅっぱい……」
今度こそはアップルジュースとのあやかの期待は、またも裏切られた
お世辞にも美味しいとは言えない酸っぱい何かを喉の奥に通すと、ほんのりと身体の芯が温かくなった気がした
「……まぁ、美味しそうなお刺身ですわね」
「お腹ペコペコ~ いっただきま~す!」
「ふふふっ さやかったら、港であんなに食べましたのに…」
「そんなに食べてな~い!」
睦まじいやり取りにもご機嫌が滲むまどか姉とさやか姉は、揃って膳上の豪華料理へと箸を伸ばす
「……………………」
あやかはそんな二人の姿を上目に納めながら、飲み干したお猪口を膳の隅に置いた
「……あやか、もうお鍋も頃合いがよろしくてよ?」
流石はまどか姉、片時もあやかの様子から気を離さない
あやかが再び元気よく箸に手を伸ばさないのを、自分の咳払いに萎縮したとでも思ったのか、お絞りを鍋掴み代わりにして、末妹の膳の土鍋の蓋を取る
グツグツと煮えたぎる出汁の中で、野菜やお肉が踊る様に見えた
食欲をそそる香りがより一層強くなる
「……………………」
だが、あやかは太腿の上に拳を作ったまま動かない
「……どうしましたの?」
少し身体の向きを変え、子供をあやす様な口調でまどか姉が尋ねる
その向こうでは、さやか姉が箸の先をくわえたまま、やはり心配の面持ちで此方に視線を向けている
「…………まどか姉…… さやか姉……」
絞り出されたあやかの声は、もうほとんど泣き声だった
「ん? どこか痛いですの? 」
「どうしたのよ… あやか?」
いよいよ二人は、ただ事ならぬあやかの様子に動揺をきたす
そんな姉達の、緊張を孕んだ顔を交互に見詰めた後、あやかは鼻で大きく息を吸い込んでから口を開いた
「……死ぬのはあやかだけでいいのだ… ヒック… うぇぇん… お姉達には… ずっとずっと生きていて欲しいのだ… ぐすっ ……だって……」
嗚咽混じりのその声は、もう最後は言葉とならなかった
知恵故障のあやかとて、長姉が上げた誓詞の意味がまるで分からぬ訳ではない
だからもう悲しくて悲しくて、涙が零れてしまったのだ
あやかの薄い脳裏には、ある光景が映し出されていた
……明日の朝、仲居さんがお布団を上げに部屋へやってくる
布団の上で手を繋ぎ、微動だにしない三姉妹
揺り動かすが反応は無い
枕元に倒れた薬瓶
慌てて助けを呼びに戻る仲居さん
床の間に飾られた母の写真立てに、朝日が射し込む……
あやかはブルンブルンと頭を振って、その忌まわしい光景を吹き飛ばした
そんな事をして、お母さんが喜ぶ筈がないのだ
お姉達の気持ちは分かる
あやかと離れたくはないというその気持ちが、痛いほど分かる
あやかだって同じなのだから…
だけどそれはいけない事なのだ 悲しい事なのだ
どうかあやかの分まで生きて欲しい
幸せになって欲しいのだ
そう、お姉達が生きている限り、あやかもその心の中に生きていられるのだ
melody of Lifeなのだ
「バッカね~ 何言ってるのよ!」
「そうですわ 私達は死んだりしませんわ 私達風上三姉妹が力を合わせれば、どんな強敵にも打ち勝てますわ」
明るくて、優しくて、力強い…
いつもの姉達と同じその言葉の中に、偽りの色は見つけられなかった
あやかは安心した
…と、同時に大いに励まされた
そう、まだだ… まだまだ… 最後の瞬間まで精一杯、姉達との時間を紡ぐのだ…!
「まどか姉~… さやか姉~…」
安心したら、先程とは成分の違う涙が零れてきた
「さぁさぁ、せっかくのご馳走、楽しく頂きましょう!」
「へへ~ あやかが要らないなら、アタシがその海老天、貰っちゃうわよ!」
「あぁ!? ダメなのだ~! あやかの海老さん、お口にジャックインなのだ~! ……パクっ」
あやかの記憶の中では今夜は多分、母と死別してから一番笑顔になった夕食だった
惜しむらくはこの雰囲気を旅先では無く、お家の中で味わいたかった
生意気にもあやかはそう思った
ご馳走の数々、天ぷらも、お刺身も、お鍋も、茶碗蒸しも、全部全部あやかの舌を感動に震わせたが、それでも人生の一番にはなり得なかった
あやかの一番の大好物は、まどか姉のカレーライス
お母さんが作ってくれたあやかの大好物と、全く同じ味のそれなのだ
あやかの胸に小さな希望が生まれた
病気なんかに負けない
精一杯頑張る
まどか姉のカレーライスを食べるその日まで…
あやかは六畳間に敷かれた、まどか姉の為の布団の上で、殺虫剤に捲れたゴキブリの様に手足をバタつかせる
別に苦しんでいる訳では無い
構って欲しくて、それとなく気を引こうとしているのだ
要するに甘えているのだ
その対象者であるまどか姉は、傍らで化粧水を顔に塗り込んでいる
更に襖の向こうでは、さやか姉がお菓子を頬張りながら、テレビを見て一人大笑いしている
安らぎを伴った幸せの一時…
ゆっくりと時間は流れている…
あやかはそれを体感した
夕食を済ませた後、あやかは内風呂で良いと言うまどか姉を責付いて、再び大浴場へと赴いた
せっかくの機会なのだから、まどか姉とも一緒にお風呂に入りたいと思ったし、もしかしたらあの赤いおりぼんの娘にも会えるかも知れないと思ったのだ
だが結局あの娘は現れず、あやかは何年かぶりにまどか姉に頭を洗って貰ってから、大浴場を後にした
きっと明日の朝には会えますわよ…
自販機でバナナ牛乳を買ってくれたまどか姉の言葉を信じる事にした
まどか姉の予言が外れた事など、これまで一度もないのだ
「さぁ、そろそろ休みましょうか…」
「はうっ!?」
予想外なまどか姉の言葉に、あやかのゴキブリモーションが静止する
「は~い… 歯~磨こぉっと……」
さやか姉は何の異論も唱えず、テレビを消すと洗面所へ向かった
それもあやかには驚きであった
「ま、まだ~! まだ早いのだ~! せっかく旅行に来たのに~! もっとみんなでお喋りするのだ~!」
少し前までのあやかなら、絶対に許されな"口答え"
今はそれを成されない自信はあったし、何より自分の主張は純度100%の正論であるとの自覚があった
時刻はまだ九時過ぎ、これでは風上家の普段の消灯と大差は無い
三姉妹揃ってのせっかくの温泉旅行
語り尽くせぬ程のあれやこれやを、外が明るくなるまでするのが普通ではないのか?
そんな経験は無いあやかをしても、多分そうあるべきではないかとの思いがあった
「駄目ですわ… 明日からが本番ですのよ? ゆっくりと身体を癒して、疲れを取って、万全の状態で挑みますのよ… ね?」
予想に違わず、まどか姉が此方に向ける表情は、幼子に向ける様な穏やかなそれであったが、あやかの視界にはほとんど入らなかった
正確に言えば、視野には収めたが、像として上手く処理できなかった
原因はまどか姉のそこ言葉…
「れ… ん… ぱ… く…!?」
何処で知ったのか、小生意気にもそんなブルジョアジーな台詞が口を突いた
冷静に考えれば然程おかしな事でも無い
湯治のシステムを良く理解している訳ではないが、確かに身体に良い物なら一日より二日、二日より三日の筈である
今日は旅の疲れを取り、明日から本格的な療養に入る
流石と言うしかない、まどか姉の段取りである
勝手に一夜限りのシスターズアバンチュールと思い込んでいた自分が恥ずかしい
「明日も… ここにお泊まり… なのだ?」
念のため、勘違いではない事を確認する
「勿論ですわ」
何を当たり前の事を… と、言わんばかりに、まどか姉は大きく頷いた
「ずっと? ……いつまでお泊まり… なのだ?」
「敗者復活戦に回りましても、どの道決勝のある明後日までは帰れませんわ… その当日も含め… 後三日はここが寝所ですのよ… 尤も、わたくし達は真っ直ぐに勝ち進みますけれども… ふふふっ」
「フッカツ…? ケッショウ…?」
大人で頭の良いまどか姉の言葉には、所々小難しく意味の不鮮明な所があったが、取り敢えず後三日はここにお泊まりできる事が明らかになった
「やった~! っのだ!!」
あやかは両手を高々と突き上げて歓声を上げる
明日も真っ直ぐに温泉に直行して、病魔に打ち勝つ
多分そんな意味なのだろう、まどか姉の言葉は…
「あやか、寝るよ…」
歯磨きを終えたさやか姉が顔を覗かせた
「うん! ……まどか姉、おやすみなさいなのだ!」
「はい、おやすみなさい」
夢は夢で終わらなかった
今夜寝て、明日がやって来ても、覚めない夢
夢はまだまだ続くのだ
「さやか姉、一緒に寝るのだ!」
さやか姉の横たわるベッドに、あやかは素早く身を滑り込ませた
「ちょっともう… 意味ないじゃない…」
笑いを含んださやか姉の言葉は、承諾の証
ぐりぐりと頭を押し付けるあやかの肩に手を回し、露出したそこに布団を掛けてくれた
「あやか… 明日から頑張るのよ… アンタ次第だからね……」
そう呟いて、さやか姉はあやかの肩をぽんぽんと叩いた
「…………うん」
あやかは布団の中で頷くと、肺いっぱいにシトラスの香りを吸い込んだ