風上家に生まれて   作:新六毛

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雨蛙の憂鬱 13

朝、目覚まし時計のベルに起こされ…

 

腕時計の針を睨みながら、地下鉄の構内へと走り込み…

 

壁掛け時計が終業を報せるのを待ちわび…

 

夜はラジオの時報で夜更かしに気付き、慌てて布団を被る…

 

人は今や、時間を計る道具、時計無しには日常生活を送る事も儘なりません

時計など無くなれば、どれ程気楽に生きて行けるか…

そんな事を想像した経験は、誰にでもある事でしょう

しかし、太古の人々が時間に縛られず、自由奔放だったかと言われれば、必ずしもそうではありません

時計の無い大昔でも、人々は時間を正しく認識し、一日を厳密な時間割の基に暮らしていました

それを可能にしたのが、人の体内に仕組まれたメカニズム、"体内時計"です

この視交叉上核にある目に見えない時計は、驚く程正解に時を刻むのです…

 

「人の体内時計は、約二十五時間… これは実は火星の自転周期と同じで、我々人類の祖先が火星から来た証だと主張する人達も居ます… …えぇ、私もその一人です」

 

SF作家のホワキン・クリスチャンセンは、そう言って目を輝かせます

しかし、生物学者の見地からは、残念ながらその可能性は否定されるようです

 

カナダ、トロント国際大学で生物学を教えるアーロン・カーシュナーは、生物行動学と環境変化の関係を長年研究しています

 

「……人の体内時計が二十五時間と言うのは俗説です 実際は住んでいる地域、性別や年齢によっても微妙に異なり、また季節によっても変化します… その平均は大凡二十四時間、地球の一日と完全にリンクします……」

 

しかし彼は、生物の習性には現代科学でも解明できない謎がある事は認めています

 

「……例えば有名な渡り蝶、オオカバマダラ… 彼らが北米大陸で北行南進する理由は、実は良く分かっていません… 一般的には越冬の為と言われていますが、この蝶は南下する時は長寿で、北上する時は短命となる不思議な習性があります… つまり、世代交代を経て、長い距離を移動するのです……」

 

アーロンの考察では、それは生物の行動としてとても非効率で、本来の越冬の目的である延命とは逆効果になっていると言うのです

 

「……同じ様な不可思議な行動を取る生物に、アマガエルがいます… 皆さんは、このアマガエルが冬眠をする事をご存知でしょうか…?」

 

アーロンが次に示したのは、こちらも興味深いアマガエルの生態でした

 

「……アマガエルは外気温が一定以下になると、木葉や柔らか土に潜って冬眠します… しかし実は彼らは寒さにとても強く、気温の低下で命を落とす事はまずありません……」

 

アーロンの研究では、冬眠はアマガエルにとって、外敵に捕食される以外で最大の死因となっている事が分かっています

 

「……餌の不足する冬場に、エネルギーの消費を抑える為に冬眠するという説もありましたが、アマガエルのかなりの個体は、その冬眠に因って逆に餓死してしまうのです……」

 

果たして、何故オオカバマダラは何世代も掛けて長い距離を移動し、アマガエルはリスクを犯してまで不必要の冬眠を取るのか…

アーロンはこれまでとは別の視点から、その謎に迫ろとしています…

 

「私はこう考えています… 彼らは自分の意思でそうするのでは無く、何者かによってそれを強いられているのだ、とね……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ちみるぅぅぅ………」

 

あやかは湯船で悶絶する

部屋に戻った後、さやか姉は治療と称して、美容液マッサージをあやかの背中に施してくれた

火傷には美容液が一番と語っていたが、その効果はまだ発揮せず、熱い温泉が傷付いた背中に猛烈に滲みる

こうなる事は予想できたので、今日のお風呂はキャンセルしようとしたのだが、温泉効能には火傷もあるとお姉達に薦められたのだ

確かに早く綺麗に治るならと、多少の刺激を覚悟して挑んだ入浴だったが、あやかの想像を越える激痛が背中を走り、思わず湯船の中に軽く失禁した

 

「うぅ…… うぅ…… うぅぅ………」

 

それでも堪えてじっとしていると、痛みの刺激も落ち着いてくる

元よりお風呂は大好きであり、本当は湯治が主目的の筈であったのだから、痛みさえ堪えられれば気分は悪くない

緊張の疲れも取れていく様な気がする

欲を言えば、今夜こそお姉達と三姉妹でお風呂に入りたかったが、あやか以上にお疲れで転た寝するさやか姉と、皆の洗濯物をランドリーしてくると言うまどか姉に無理は言えなかった

そして何より、ももちゃんとの約束があるのだ

誘っておいてキャンセルは、お友達として最低である

一度はキャンセルしようとした分際で、あやかはそんな矜持を胸に抱いた

 

「ももちゃん、まだ来ないのだ…?」

 

自分も到着して五分程度の分際で、やや上から目線で約束の相手を待つ

そもそもその約束も、あやかの一方的な押し付けで、履行する義務など相手には無いのだが、世界の中心に常に己が存在する知恵故障には、その辺は理解できないのだ

 

お友達と交わした約束は必ず守られる…

 

一度は反故にしようとした分際で、尚も身勝手な思い込みを、全くの無悪意に抱くあやかだった

 

「ももちゃん… 早く会いたいのだ……」

「ここにいるけど…」

「ヒッ!?」

 

背後からの声に、咄嗟に身を捻る

 

「うぎゃぁぁぁぁ…… ぁぁ……」

 

…と、同時に湯に漣が生まれ、あやかの火傷を連続で刺激する

苦悶に顔を歪めながらも、その視線の先、昨日と同じ模造岩の陰に彼女の姿を認めた

 

「うおぉっ… つぅぅ…… ももちゃん…! 会いたかった… の… ひゃぁぁぁっ……」

 

あやかはゆっくり立ち上がり、ももちゃんの元へと移動を開始する

中央部がやや深目なこの浴槽は、あやかの背の低さと相俟って、その途上で火傷の際、臀部の上を、丁度湯面で刺激する形となる

食い縛る歯に思わず力が籠る

それでもあやかの計算では、半潜水で湯の中を進むより断然低刺激な筈だ

痛みを堪えながら、尚且つ、なるべく湯波を起こさない様に慎重に身体を動かすあやか

その姿は、ももの目からは低次元生物の様な、不可思議な動きに見えた

 

「……足でも痙ったの?」

 

聡明な彼女は、直ぐにあやかの身体の異変に気付いたが、流石に中華餡掛けの火傷とまでは推測が及ばなかった

 

「ち、違うのだ…… あ、あやか… もも… ちゃんに… 会いたくて……」

 

一方の知恵故障あやかは、他者との意思疎通も儘ならない

湯船の中、有り得ない程の時間を掛けて、漸くももちゃんの側に辿り着く

 

「……ももちゃ… 今日は… ひやぁぁ…… お疲れさま… なのひゃぁぁ…… 勝てた… のひゃぁぁっ?」

 

激痛に耐えながら、ゆっくり肩までお湯に沈み、そして何とか慰労の挨拶を絞り出す

火傷を負ったのは想定外ではあったが、ももちゃんは来てくれたのだし、友情を深める好機なのだ

良いムードを作って早く打ち解けたい、という思いがあり、それがあやかに痛みを堪えさせた

 

「……えっ? ………あぁ…… 勝ったわ…… 私は出なかったけど……」

 

尤も、ももは昼間の約束の事など、この瞬間まで失念しており、たまたま今夜も大浴場で遭遇しただけの事であった

ただ、その為にイニシアチブをあやかに握られる事となり、望まぬ馴れ合いに引き摺り込まれる格好となった

 

「……いひひ… ももちゃん、可愛いのだ……」

 

少しでもももちゃんに良い気分になって欲しくて、あやかはその見て呉れを誉めた

お世辞では無く、その高い鼻と切れ長の目は、彼女の大人びた印象と相俟って、まるで紅毛碧眼のモデルのそれの様だった

 

「………………」

 

だがももの方は、あやかの言葉に昼間の過剰なスキンシップが結び付き、その切れ長の美しい瞳に警戒の色を浮かべた

この娘はもしかして、同性好きの変態なのでは…?

意識して身体を強張らせ、あやかの不測の行動に備えた

 

「うふふ~……」

 

一方、変態と思われているとは露も思わないあやかは、満面の笑みで更なる親愛の情を示す

そしてももに更なる警戒をとらせる

 

「……ももちゃんは何女なのだ? あやかは三女なのだ!」

「……三女だけど………」

 

「そなのだ あやかと同じなのだ! ……ももちゃんのお姉ちゃんはどんな人達なのだ? 強いのだ? やっぱり綺麗なのだ?」

「………そんな事知ってどうするの?」

 

「………………………」

「………………………」

 

あやかの期待と想定とは裏腹に、なかなか二人の距離は縮まない

健常者なら、明らかに相手が自分に好意を抱いていない事に気付くのだが、知恵故障の感覚では、これはアプローチのミスであるとの判断になる

即ち、二人の仲を急速に結び付ける手立てがもっと他にあると…

 

「!!」

 

そしてあやかは直ぐにそれに思い当たった

 

「おりぼん! そだ、ももちゃんのおりぼん! 脱衣所の篭の中にあるのだ!ちょっと待っててなのだ! 今、取って来るのだ!」

 

あやかは自分の頭を、右手の拳でコツンと叩いた

ももちゃんの気持ちを察っせない自分が腹立たしかったのだ

真っ先に大事なおりぼんを返して貰えなければ、気分が晴れないのは当然なのだ

許してね、とばかりに小さく舌を出してウインクすると、あやかは立ち上がり、大型タンカーの様にゆっくりと湯の中を反転した

どうしても生じる湯波が、どうしてもあやかの患部を刺激する

それを何とか堪え、一刻も早くおりぼんをと、歯を食い縛って湯を掻き分ける

 

「……い、いいわ! 無理しないで… そんなのいつでもいいから……」

 

露になったあやかの真っ赤な後ろ姿に、ももは声を張り上げた

無意識の… 咄嗟の反応だった

彼女の壊れたブリキ人形の様な、不思議な動きの原因が分かった

正直、その背中は言葉に詰まる程の惨状である

然るべき治療を受ける必要があるのではないかと、ももは思った

普段は他人の事などに全く興味は無い

だが今日は少し違った

油断した、というのが最も適切かも知れない

まさかあの惚けた仕草と表情で、こんな深手を負っていようとは…

その傷付いた身体を引き摺りながら、自分の為にリボンを取りに戻ると言われれば、如何に馴れ合いを嫌うとは言え、咄嗟に制するのは致し方あるまい

初対面からずっと彼女のペースに乗せられてる…

ももは冷静にあやかとの関係をそう分析した

 

「へっへっ… ももちゃんは優しいのだ… それじゃ帰りにお渡しするのだ それまで温泉で火傷を治すのだ……」

 

そう言って、あやかはまた慎重に身を湯船に沈める

冗談を言っているとももは認識したが、愛想笑いをくれてやる習慣を持ち合わせていなかった

 

「……ももちゃん… お姉ちゃん達の事は好きなのだ? 優しいのだ? 一緒に遊んでくれるのだ?」

 

隣に肩を寄せてきたあやかが、先程と似たような質問をしてきた

似たようなリアクションを返しても良かったが、しつこそうなのではっきりと答える事にした

 

「別に…… 姉なんて少し早く生まれただけの存在でしょ… 優しくなんてなくても良いから、もう少し使える様になって欲しい

わ……」

 

少し本音を晒し過ぎたかと思った

本当は誰かに話を聞いて欲しいという無意識が、自分には内在しているのでは無いか…

そんな気がして、それを否定する様に頭を振った

 

「??…… あ、あやかのお姉達も、あやかより先に生まれたのだ 優しいけど厳しいのだ…!」

 

だが、目の前のこのあやかとか言う不思議な少女は、自分の言葉の意味を正解には捉えられなかった様だ

これまでのやり取りで、この娘がおつむの残念なあれである事が分かった

同類と思われ懐かれたのかと、些か気分が悪くなったが、かえってこの方が面倒から逃れられると思い直した

 

「ふぅ………」

 

小さく溜息をつくと、できるだけ湯波を立てない様に立ち上がり、できるだけ静かにその場を後にする

 

「ん? ……ももちゃん?」

 

背中越しに、引き留めるかの様なあやかの声

振り向く代わりに足を止め、ももは一言忠告を残す事にした

何故そう思ったかは上手く説明できない

自分に好意を抱くあやかに情が生じたのか、はたまた、この世のルールから逸脱した存在の彼女を巻き込むのに、捨て去った筈の良心が刺激されたのか…

恐らくは、無駄になるであろうが…

 

「……明日の朝にでも宿を出なさい…… 貴女の姉達を説得して…… 特別に…… ……見逃してあげるから…………」

 

それだけを呟いてから再び歩を進め、湯船を出る

 

「……上がるのだ? ももちゃん上がるのだ?」

 

あやかは痛みを堪えながら、湯の中を這ってその後ろ姿に追い縋る

 

「も、ももちゃん! おりぼん! おりぼん渡すのだ! 待って… 待ってなのだ~!」

 

だがももは待たず、あやかの叫びは、空しく大浴場の天井に木霊するのだった

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