「うん……? ここ… は……?」
あやかが目を覚ますと、大きくて白い何かが、爪先向こうから此方に向かって迫まり来る所だった
「ふぇっ!?」
地響きを認識し、次いで風圧を感じた
「やぁぁぁっ!? 助けベボバッ!?」
白い何か… 大規模な雪崩が、咄嗟に手を突き出してそれを抑え込もうとしたあやかを飲み込んで、一瞬のうちに通り過ぎた
雪煙が収まった後、もうそこは一面、色を失った世界
「ふふん あやかちゃんの負けだにゃ~」
『カタンカタン… カタンカタン…』
列車の車輪がレールの継ぎ目を噛む音は、あやかにとって、ハンバーグを焦がすフライパンの叫びに次いで好きな音である
列車での旅は全て、彼女にとって楽しくも懐かしい思い出達と結び付いており、その音色に暖かい記憶を呼び覚まされるのである
そんな旋律を微かに意識し、次いで連動する振動を背中に感じ、そして唇の冷たい刺激であやかは目を覚ました
「ふぇっ?」
口元のそれがさくらんぼだとは、直ぐに気が付いた
「アーニャちゃん… あやか寝ちゃってたのだ…?」
そう答えてから、悪戯っ子の様な笑みを浮かべた彼女が押し付けるそれを、パクりと頬張った
甘酸っぱい果汁が口内に広がる
「ちゃんと目が覚めたかにゃ? …それじゃ行くにゃ!」
そう言うとアーニャはあやかの隣で、ベンチシートに深く腰を沈め、長い両足を前のシートの背凭れの裏に押し付けた
「……はっ!?」
気付いた時には遅かった
金属が擦れ、軋む音が響いて、同時に無重力を意識した
「ブッ!?」
何かが目の前に迫って来た事は認識できたが、直後に全身を電気信号が走り抜け、意識を飛ばした
体内で何かが砕ける音を聞いた気もする
全ては刹那の出来事だった
もうもうと土煙の立ち込める中、つい先刻まで列車だった物を構成していた、アルミ板の一つが動いた
「……つぅ………」
僅かに開いた隙間から呻きが漏れ、白い手が伸び、パッションフルーツパープルの毛髪が覗いた
次いで細い身体が這い出て来る
「はぁ… はぁ… 」
ふらふらとよろめきながら立ち上がったその影から、ぽたぽたと雫が垂れる
額から流れ出た血潮が眉間を通り、鼻頭をかすめ、口角を濡らしてから、細い顎を伝って大地に零れていた
何かを探す様にゆっくりと頭を振る
果たして視線の先、潰れた車体の一部から覗く白い足を認めて、彼女は胸の前で小さく手を叩いた
「また… ボクの勝ちだにゃ… ふふ… ふふふ… ボクに勝とうだなんて… 百年早いにゃ……」
『……鉄道で発生した列車事故は… 未だ多くの…… …続けられています……』
「何か見えるのかにゃ?」
「お星様を見ているのだ」
あやかは舷窓から顔を離し、声のした方へと向き直る
予想よりずっと近くに声の主、アーニャちゃんの顔があり、あやかは思わずハッとなる
「あやかちゃんは嘘つきだにゃ… お星様なんて見える筈ないにゃ」
嘘をついたつもりは無いが、アーニャちゃんの言う事は間違いでは無かった
舷窓の外は漆黒の闇に満たされていた
ただそれでも、あやかの心にはお星様が見えていたのだ
「お星様が地上で良く見えるのは、分厚い大気がレンズになってるからだにゃ… だからここからでは、その姿を肉眼で捉えるのは困難なんだにゃ…」
「アーニャちゃんは物知りなのだ!」
素直に感心した
「…あやかちゃんも、お星様を見るのが好きだったのかにゃ?」
向けられたその瑠璃色の瞳に、あやか吸い込まれそうな錯覚を抱いた
「大好きなのだ アーニャちゃんもなのだ?」
あやかの反問に彼女は大きく頷いて、その瑠璃色を舷窓へと向けた
「あやか、暗い所は怖いのだ …でも、夜のお空は全然怖くないのだ」
二人は無重力に身を漂わせ、じっと闇の世界を見詰め続けた
「……ボクらの身体を構成する物質… ヘリウムより重い物質は皆… お星様の中で作られるのにゃ… ボクらが夜のお空を眺めて心を震わせるのは… そこにもう一つの故郷が広がっている事を、本能のどこかで知っているからだと思うのにゃ……」
あやかは小さく頷いた
アーニャちゃんの言う事が間違いでは無いと思ったのだ
「アーニャちゃんはロマンチストなのだ」
あやかの呼び掛けに、彼女は恥ずかしそうに視線をさ迷わせてはにかんだ
不意に闇の世界に光が生まれ、舷窓の縁から真っ赤に燃え盛る火球が姿を現した
強烈な熱線が船内に射し込み、それに照らされた二人は思わず顔を顰める
船内の温度が急上昇する
アラームがけたたましく鳴り響き、何かが焦げる臭いがした
「さぁ そろそろにゃ! あやかちゃん、いざ尋常にっ!」
アーニャちゃんが身を翻し、脱出ポッドに続くハッチに手を伸ばす
「…………あやかちゃん?」
だが、彼女は追って来ないあやかを怪訝に思って振り返った
「あやかちゃん、試合放棄なのかにゃ? 負けでいいのかにゃ?」
そんなアーニャの声が聞こえないかの様に、あやかは強烈なケンタウリαの放射を腕に防いで、尚もその隙間から全容を現しつつある巨大な恒球を睨み付ける
「!?」
その痩身を長い腕に絡め取られて、あやかは漸くそれから視線を反らした
「…アーニャちゃん?」
「……今回は引き分けだにゃ……」
全てが白濁し、二人の肉体は再び元素合成のサイクルに加わった
ぱちぱちと一際大きな火花を飛び散らして、線香花火が今燃え尽きた
最後に橙の滴が地面へ落ちて染み込むと、辺りはまた宵闇に支配され、忽ち何も見えなくなった
「あやか、冷えてるうちにお食べなさい」
首を捻ると、縁側に腰を下ろしたお母さんがあやかを手招きしている
紫色の朝顔をあしらった浴衣姿が、普段のお母さんとはまた違う、神秘的な美しさを醸し出していた
「うひょ!?」
更にはその傍らに、スイカを盛られた盆を認めて、あやかは奇声と共に勢い良く立ち上がる
『バン! バン! ハバン!』
夜空に大輪の花が咲く
「美味しい? あやか?」
「大好きなのだ!」
だいぶピントの擦れた受け答えだが、愛娘の心の内は十分に伝わった様だ
『ドドン!!』
「うひっ!?」
一尺玉の一際大きな炸裂が空気を震わせ、あやかは思わず竦み上がる
「ふふふっ」
お母さんの優しい手が、あやかのショートカットをなでる
大好きなお母さんを独り占めできる喜びを、あやかは改めて噛みしめる
二人のお姉達はお友達と花火大会に赴いた
そんなお友達を持たないあやかは、今夜はお母さんと水入らずの花火鑑賞だ
去年もそうだし、一昨年もそう
あやかはいつも独りぼっちだが、お母さんがいつも側にいてくれるので、ちっとも寂しくはないのだ
「夜市を見に行きましょうか?」
あやかは頭を振る
屋台のフランクフルトさんはあやかの大好物ではあるが、今はこのまま二人だけの世界と時間に浸りたいのだ
「お母さん、あやかとトランプするのだ!」
「ふふっ トランプ? 良いわですわよ」
サンダルを脱ぎ捨てて、あやかはリビングに潜り込む
程無くして、使い古したカードケースを両手に握って帰ってきた
『ド~ン! ババン!』
七色の閃光が、母と娘の白い頬を幻想的に染め上げる
「お母さん、ババ抜きをするのだ!」
「えっ? ふふっ はいはい」
トランプ遊びはお姉達ともするが、全く以て勝つ喜びを得れないので、頗るつまらないのだ
その点、お母さんとのトランプ遊びは違うのだ
あやかはお母さんとトランプに興じる時、何故か不思議な力が沸いてきて、とても上手なプレイヤーになれるのだ
だいたい十回やれば七回は勝てる
だからお母さんとのトランプ遊びは面白いのだ
あやかは嬉々とした表情でトランプを配る
「よ~し! それじゃあやかが先攻なのだ」
目を輝かせて母の札束に手を伸ばす
「スペードの2とハートの2なのだ!」
配り終えた五十三枚はスタートの時点で半減し、そして一枚を引く毎にペアは成立していく
健常者の感覚ではそれはゲームでは無い
当たり前である 二人でババ抜きなど出来る筈は無い
だが、あやかとお母さんに取っては真剣勝負なのであ
「ん~ これ… なのだ!」
残り二枚となったお母さんの手札から、あやかは見事にババを引き当てる
「ちょっ!? ちょっと待って… なのだ!」
背中に回した手で、二枚のトランプを揉み揉みする
健常者的には意味の無いシェイク
「……はいっ!」
突き出した手札の片方は、不自然な迄に競り上がっていた
「ん~~……」
しばらく宙空にさ迷ったお母さんの右手が、その不自然な片方を摘まみ上げた
「やったのだ!」
見事な謀略でお母さんにババを掴ませたあやかは、小さくガッツポーズを決める
『バン! バン! バン! ドドン ドン!ド~ン!!』
花火大会の終わりを告げるスターマインが夜空を彩る
「やった~! あやかの勝ちなのだ!」
「ああ~ん お母さんの負けね~」
今夜も不自然な力でお母さんに完勝した
「お母さん! もう一回やるのだ!」
「ふふっ もう直ぐお姉ちゃん達が帰ってくるわ 先に歯磨きをしてお休みなさい 明日のラジオ体操は遅れてはダメよ」
つれない返事に頬を膨らませるあやか
「もう一回だけ~!」
勝つ喜びを味わいたいのでは無い
この幸せの時間を終わらせたく無いのだ
「お母さん、ただいま~!」
その時、庭先にさやか姉が姿を見せた
「ふ~ 楽しかったですわ」
少し遅れてまどか姉も姿を見せる
「二人とも凄い汗ね 寝る前にもう一度シャワーを浴びなさい」
「……………………」
あやかの希望空しく、夏の夜の夢は終わりを告げてしまった
散らばったトランプを片付け、すごすごと洗面所に向かう
「……あやか」
お母さんに呼び止められ、あやかは振り返る
「また…… 今度ね……!」
言葉尻に付属したそのウインクは、あやかとお母さんだけの秘密のサインの様な気がして、なんとも言えない優越感で心が満たされた
「またなのだ… おやすみなさいなのだ……」
あやかも不器用なウインクを返して、宴の跡に背を向けた
だけどお母さんはその年の暮れに病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった…
またね…
その約束は永遠に果たされない物となった