シュレーディンガーの箱入り娘…
先ず透明なアクリルの箱を用意する
次に鎖で雁字絡めにした被験者をそこ閉じ込め、幕を被せて視界を遮断する
用意が済んだら、試験者はボタンに指を乗せスタンバイする
ボタンはアクリル箱の中の青酸ガス発生装置に繋がっており、信号が送られると致死量の毒ガスを発生させ、箱の中の被験者を悶絶の後死に導く
但し、ボタンからの信号は間に挟まれたシーケンサーにより、二分の一の確率で遮断される構造になっている
勿論、シーケンサーが遮断したかどうかは試験者からは判断できない
つまり、ボタンを押した後の被験者の生死は、アクリル箱を覆う幕を取り除いた瞬間まで不明なのである
死の恐怖に戦き小水を漏らす姿か、苦悶の果てに小水を漏らした姿か…
確率は二分の一だが、現実の世界に二分の一で存在する物は無い
"有"か"無"か…
この世界は簡潔で明確である
不可思議な事だが、被験者は幕を取り除き試験者が確認するその瞬間まで、生死双方の姿が重なりあった状態にあるのだ
ここまでは量子力学の代表的な思考実験、シュレーディンガーの猫の応用である
「あやかちゃん、もっと猿轡をきつく締めるのにゃ 悲鳴が漏れたら実験失敗にゃ」
「う、うん……」
言われるかまま、あやかはアーニャちゃんの猿轡をきつく締め上げる
「ぐっ!?」
「ゴメン! だ、大丈夫なのだ!?」
苦しそうなアーニャちゃんの呻きに、あやかの方が思わず悲鳴を上げる
(コク… コク…)
アーニャちゃんは大きく二つ頷き事無きをアピールすると、今度は顎をしゃくってあやかに退去を促す
「……………………」
指示されるまま、あやかはアクリル箱から退去し、その開口部を隙間無く閉ざす
そして傍らの暗幕を手にして、まるで大きなテーブルクロスを敷く様に、宙を泳がせてからそこに被せた
「…………………」
「…………………」
全てを閉ざす瞬間、箱の中のアーニャちゃんと目が合った
鎖に身を捕らわれた彼女は、しばらくあやかと視線を交えてから、優しく微笑んで見せた
「……はぁ…………」
その姿を暗幕の中に完全に納めた後、あやかは大きくため息をついた
暫くその場に立ち尽くしていたが、軈て決心した様に、テーブルの上のボタンを手に取る
「…………………」
震える手が納めるそれを、ゆっくりと頭上に掲げる
親指がスルリとボタンの上に伸びる
このボタンを押した瞬間、二分の一の確率で箱の中のアーニャちゃんは、地獄の苦しみを味わい、のたうち回って悶死するのだ
(ゴクリ……)
あやかの震える理由は、その罪悪感に由来するものばかりでは無かった
この実験はまた同時に、被験者と試験者の立場を入れ換えて重複するのだ
箱の中、縛られたアーニャちゃんの手の中には一つのボタンがある
そのボタンは、この実験室の隅に設置された一つの装置… 高ガンマ線発生装置に連動しているのだ
もしアーニャちゃんが実験の結果生き残れば、掌の中のボタンを押す手筈となっている
高ガンマ線発生装置から照射される放射線は、あやかの肉体を遺伝子レベルで切り刻む事だろう
つまり二分の一の確率でアーニャちゃんが生き残れば、同時にそれはあやかの死を意味する
ただし、生と死が重なりあっている状態のアーニャちゃんは果たして、あやかの生死に関与する事ができるのか?
押せる、または押せないとすれば、それは確認の前に結果が現れる事であり、シュレーディンガーの思考実験を否定する物である
シュレーディンガーの箱入り娘…
それはパラドックスを用いたシュレーディンガーの思考実験の間接検証であり、観測者の命という究極的物証を以て成し遂げる、量子力学の革新的定理の表明である
「……………………」
あやかは親指にゆっくりと力を込める
更に数瞬、躊躇をした後…
『カチッ』
二分の一で作動する青酸ガス発生装置に今、シグナルが送られた
「……」
「…………」
「…………………(ドクッ)」
「…………(ドクッ ドクッ ドクッ)」
何秒か、或いは何分か、ひょっとして何時間か…
時間の感覚が麻痺したあやかは、その場に立ち尽くしていた
心臓の鼓動が、異様に大きく内耳に響く
皮肉にも、それはあやかの生存を証明しているとも言える
「…………………」
そしてそれはまた、アーニャちゃんの死を意味しているとも言える
(ゴクリ……)
果たしてそうだろうか…?
あやかは考えた
漸く飲み込んだ唾液は微かに血の味がした… …気がした
死んだのは自分の方ではないのか…?
強烈なガンマ線の照射を受けて、自分の肉体は瞬時に朽ち果て、それに気が付かない魂だけが亡霊となり、そしてこの場に立ち尽くしているのではないか…?
「…………………」
違う可能性もある
アーニャちゃんはボタンを押してはいないではないか…?
二分の一を乗り越えて生き延びた箱の中の彼女は、当初の約束を反古にして、ボタンを押す事を躊躇ったのではないか…?
あやかが全身から血を吹いて踠き苦しむのを、どうしても受け入れられなかったのではないか…?
何せあやかのボタンと違い、彼女の膝先のボタンは致死率100%である
「…………………」
だけどあやかは押したのだ
確率50%とは言え、アーニャちゃんが白眼を剥いて喉を掻きむしり、鼻水を吹き出しながら小水を垂れ流し、喉の奥から舌を長く露出させて悶死する可能性がある事を知りながら…
「…………………」
自分はまだ… 二分の一の確率だから押したの… …だ?
当初の約束だったから押したの… …だ?
本当だろうか…?
確率100%だったら押さなかっただろうか…?
否寧ろ、二分の一が的中する事を祈って押したのではないだろうか…?
何せアーニャちゃんがくたばれば、自分は助かるのだ…
アーニャちゃんは押さなかったのに…
あやかはそのボタンを押したのだ
アーニャちゃんは押さなかったのに…
(ドクン… ドクン… ドクン…)
否、また違う可能性もある!
アーニャちゃんは実験が始まった事に… あやかがボタンを押した事に、気が付いていないのではないか…
そうだ、その可能性の方が高い!
アーニャちゃんは二分の一を生き延び、それに気付かずにいるのだ
考えてみればそうだ
実験の結果はガスの発生如何以外には無い
今生きている事が既に行われた実験の結果とは、想像しろと言う方が酷である
「…………………」
……否待て……
そもそも自分は本当にボタンを押したのだろうか…?
押した気はしたが…
押していない気もする…
……更に待て……
そもそも本当にアーニャちゃんはこの箱の中に入ったのだろうか…?
入った気はしたが…
入っていない気もする…
ん?
……待て待て……
そもそもあやかは此処で一体…
…って言うか……
アーニャちゃんって…
……誰なのだ?
階段を強く踏み締める足音が、あやかの身体中の穴を反射的に引き締める
極度の恐怖と緊張によって、筋肉が構造的限度を越えて引き締まるのだ
対照的に力の籠らない奥歯がカチカチの鳴った
やはり恩赦とはならなかった
「あぁやぁかぁっっっ!!」
ドアを蹴破る衝撃音を、耳をつんざくさやか姉の怒号が同時に響いた
「ご、ごめんなひゃぁぁぁぃのだ!!」
無駄だとは承知しつつも、フローリングの上で土下座をしながらそれを迎えたあやか
そのまま後頭部を踏みつけられて失神する事を、本能的に期待していた
いっそ意識を飛ばした方が楽である
「ぐうっ!?」
だが、さやか姉はそんなに甘くは無い
ひれ伏す胸ぐらを掴まれて、無理矢理上体を起こされた
捻られたTシャツの襟首が気道を締め上げる
視線の先に、獅子唐の如く紅潮した次姉の美顔があった
これ程の激怒は久しく記憶に無い
「……ぐぇ ……ぐぇ」
あやかは喉元を締め付ける襟首に、自ら体重を掛けていく
発作的に自死を図ったのである
死ぬ事で逃れたい
それほどの恐怖に直面していたのだ
「……なぁにやってんのよ………」
さやか姉は身震いする程の冷たい薄ら笑いを浮かべながら、襟首を締めるその手であやかの顎を押し上げ、惨めで哀れな現実逃避の術を粉砕した
次姉の怒ロングヘアーが天を衝いたのは、無論あやかのせいである
風上家法第四条、"あやかの外部接触に関する規制の定め"の第二項、"家庭外では可能な限り他人の振りをするべし"に違反したのが原因である
尤も、あやかにも言い分はある
あやかのとて風上家法を知らぬ訳ではないのだ
焦点はこの夜お泊まりにやって来た、さやか姉のお友達三人の立ち位置である
まどか姉が腕を振るったディナーを済ませ、リビングで食後の紅茶を啜りながらの談笑
そこからトランプに興ずる運びとなって問題が起きた
きちんと風上家法に則った言い付けを守り、籠り物音一つ立てずに自室に籠り、まどか姉が握ってくれた塩むすびの夕食を取っていたあやか
その耳に階下からの楽しそうな笑い声が届いたのだ
久しく記憶にないトランプ遊び…
飛び込んでくる会話の断片から、知恵の乏しいあやかにも、階下で繰り広げられるその楽しげな光景が想像できた
(あやかもトランプで遊びたいのだ… 交ぜて欲しいのだ…)
その声色から、訪れたさやか姉のお友達のうち少なくとも一人は、これまでも度々風上家を訪問しており、あやかとも多少の面識もあるあのお姉さんだと分かった
あやかの記憶の中では、彼女はいつも優しい声をあやかに掛けてくれた
可愛いと言ってくれた事もあった
その帰宅後に加えられたさやか姉の理不尽なお仕置きとの相対もあって、彼女の印象はあやかの中で極大に美化されていた
優しい彼女を介せば、さやか姉もあやかにトランプ遊びへの参加を許可してくれるかも知れない
"さやか主催のホームパーティーの邪魔をしてはなりません"
まどか姉の言い付けを反芻する
確かに立派なレディとして気配を消し、ホステスさやか姉のサポートに徹した
それにあやかの解釈では、"パーティー"とは"美味しいご飯を食べる会"であり、それが済んだ階下の状態は"余興"の段階であり、顔ぐらい見せても邪魔にはならないと判断したのだ
知恵故障特有のご都合主義が悲劇の発端である
「こ、こんばんは… なのだ…」
あやかにも一応学習能力はある
これまでの経験から、自身のアンチレディな振る舞いがつまり、"パーティーの邪魔"認定をされ、さやか姉の逆鱗を被るのではないかと、何となくだが理解していた
だから極力お淑やかに、何処に出しても恥ずかしくない妹の体で、静々とリビングのドアを開けた
「なっ!?」
最初に視界に飛び込んだのは、さやか姉の驚いた顔だった
余りにレディ過ぎたのかも知れない
「あら妹さん、今日も居たんじゃん」
その声はやはりあの優しいお姉さんだった
「あ、あやかも… トランプに… 一緒に交ぜて下さい… なのだ… です」
恭しく一礼した
完璧なレディの振る舞いのそれである筈だ
「ふふっ 良いよね? 一緒にやろうよ」
別のお姉さんだった
一度ぐらいの面識はあったかも知れない
あやかは心の中でガッツポーズをする
意識しなければ体現している所だった
「……うぐっ!?」
ただ想定外だったのは、さやか姉が口を押さえてその場に踞った事である
「さ、さやっち!? 大丈夫!?」
「いやっ!? ど、どうしたの!?」
「ま、まさかアキラの!?」
口々に驚嘆の声を上げ、さやかの元に寄り添う友人達
「さ、さやか姉ぇ!?」
勿論あやかも驚嘆し、最愛の次姉の元にレディシップを忘れて駆け寄る
「ヒッ!?」
ただほんの一瞬向けられた、その余りに鋭い眼光に文字通り射抜かれ、本能的にそれ以上近付く事が出来なかった
「……さやか、だから無理をしてはいけないと… 少しソファーで休みなさい……」
まどか姉だった
「ごめんなさいね、皆さん… さやかは一昨日から体調不良で… ただどうしても今夜のパーティーを楽しみにしていて… 少し落ち着くまで、お茶でも飲んでお待ちになってね……」
あやかは再び驚嘆した
一昨日はまどか姉のお土産のバームクーヘンを、あやかに一口も分けてくれずにペロリ平らげ、昨日は少林寺拳法の演舞で勢い余り、リビングの壁を拳で凹ませて、まどか姉にお仕置きのおっぱいマッサージをされていたさやか姉が、まさか体調不良だったとは…
「わ、私達、帰ります」
「さやか、ごめんね 無理しないで休んでね」
「アキラの野郎! とっちめてやる!」
当然、パーティーはお開きの流れとなった
友人達はそそくさと風上邸を後にして行く
その後ろ姿に、寂しそうに手を振るあやか
トランプ遊びもおじゃんとなったが、体調を崩したさやか姉の代わりに、せめてお見送り位こなすのが、デキル妹のあるべき姿であると思ったのだ
「……さやか姉、大丈夫なのだ?」
ゲスト達の姿が見えなくなって漸く、あやかは心配な次姉の元へ視線を戻す
「……おいっ!!」
「ヒィィィッ!?」
しかしそこに見たのは、般若の形相で腕を組み、仁王立ちする彼女の姿だった
余りの迫力に軽い失禁を催した
然しものあやかもそこで漸く、さやか姉の先刻の痛ましい姿が、仮病を演じた物であった事に気付く
"風上家法違反"
文字通りの家庭裁判
風上家の全ての裁定を司る現人神、裁判長まどか姉を挟んでの口頭弁論
第四条、第二項への抵触を訴える怒り心頭のさやか姉に対し、あやかの涙の弁明はこうだ
"リビングはお家の中なので、家庭外ではない 更にはあの三人のうち二人とは面識があり、他人の振りの意味がない そもそもどうしてそんな酷な事をさせるのだ? あやかはお姉達の血を分けた、正真正銘の妹なのだ どうか愛して欲しいのだ!"
双方の言い分を聞いたまどか姉は、被告あやかに向かって暫し瞑目した後…
"ペケッ"
幼子の様に舌を出し、ウインクしながら頭の上に両手でバツを作った
有罪判決
家庭とは物理的環境では無く、家族が構成する特定の人間関係を指すとの判断
それを踏まえて他人を装えとは、これまた哲学的な矛盾とも取れるが、あやかにはそれを感じ取れるアンテナが無かった
ファンシーなその長姉の姿に、一瞬許されたと思ったあやかは激しく落胆する
但し、レディシップを貫いたあやかの姿に一定の酌量の余地は有るとし、刑の執行はパーティーの後片付けが終わり、告訴人の入浴、乾髪が完了後、という執行猶予が付いた
その間、被告は自室に禁固
執行猶予終了後、改めて刑の執行の是非を告訴人の判断に委ねるという物だった
二人の妹は知るべくも無いが、長姉まどか的には和解勧告をしたつもりだった
多少の冷却期間を置けば、さやかの怒りも収まるだろう…
どうしても可愛い長妹の方に肩入れはしたいが、かと言ってその彼女が主張する程、"風上家法"を本気で履行するつもりは無いのだ
あれはあくまで、デキの悪い末妹の躾と教育の為のルールの明文化であり、つまりそれなりには、そのデキの悪い彼女にも愛情を注いでいるのだ
良く言えば大人の裁量
頗る悪く言えば、序列の頂点に君臨する者の気紛れである
そして確かに恩赦発動の僅かな希望を、その余りに短い冷却期間に託したあやか
しかしその希望が無惨に打ち砕かれた結果が、冒頭の凄惨なやり取りである
寧ろ怒りのボルテージは加速していた
「!?」
さやか姉はポケットからトランプの束を取り出し、背に返してあやかの膝の前に撒いた
「トランプ、やりたいんでしょ? アタシと遊びましょうよ…」
引き攣った笑顔から搾り出されたその台詞は、とても早口で語尾は震えていた
「一枚、捲りなよ…」
意味が分からないあやかは、散らばるトランプを凝視して固まる
まさかこの局面で、本気で彼女が遊んでくれると思う程までは、その知恵は壊れていなかった
「捲れって言ってんのよっ!!」
鼓膜どころか、部屋の窓さえ揺れた様な気がした
それ程の大声量だった
最早躊躇の間もない
あやかは反射的に近くの一枚を引いて裏返した
"クラブの9"
二人の視線がそれに刺さった
「……それじゃ… 先ず拳を九発ね!」
言い終わるや否や、さやか姉はあやかを押し倒し、その細い腹に馬乗りになった
そして…
「いちっ!!」
「ブッ!?」
「にぃっ!!」
「ギャッ!?」
「さぁんっ!!」
「イヤッ!?」
…その顔面に拳を振り下ろした
「よぉん!!」
「ウゥッ!?」
殴られた場所が内出血を起こし、忽ち赤黒く変色して行く
無理も無い
少林寺拳法に天賦の才を持つさやかの打撃力は、並の男のそれを遥かに上回る
それが更に体重を掛けて、至近距離で放たれるのである
「ごぉっ!!」
「グッ!?」
五発目で鼻の軟骨が砕け、鼻血が噴き出した
「ろぉくっ!!」
「ビャッ!?」
だが、あやかは何より心が痛かった
さやか姉の一撃一撃は、あやかが必死に展開する腕のガードを精密に掻い潜り、可能な限りの最大ダメージを狙って放たれていた
それが分かったから心が痛かった
「なぁなっ!!」
「……!?」
さやか姉から受けるお仕置きと言う名の暴力は、いつも苛烈で容赦無い物であったが、嘗てここまで強い"憎悪"を乗せて加えられる事は無かった
それが悲しかった
「はぁちっ!!」
「…………」
これまでもお仕置きの果てに手傷を負う事は珍しくも無かったが、例えばグロッキーな状態で目玉を潰しに来たり、鼓膜を破りに来たりする事はなかった
ギリギリの一線は保たれていた
何だかんだと言っても、血を分けた姉妹である
重い障害など負わせる発想は無かったのだ
「……きゅうぅっ!!」
「……ケホッ」
だが、今加えられているそれらには、その様な人としての理性の最後の一片すら感じる事が出来なかった
目元を開ければ確実に眼球を潰される
そんな確信があり、事実、さやかはそのつもりだった
「はぁ… はぁ… はぁ…」
「…ケホッ …ケホッ …ケホホッ……」
二人の荒い呼吸がシンクロする
「……さぁ 次は踵よ! さっさと捲れ!」
あやかの腹の上から立ち退いたさやか姉が、侮蔑の視線と共に唾の様に吐き捨てた
「うぅ…… ぅ……」
激しい殴打に抵抗の意志… と言うか、正常な思考が働かなくなったあやかは、言われるままに傍らの一枚に手を伸ばす
せいぜい思い描いたのは、少しでも数の少ないガードが出てくれる事…
いつも勝負の女神様はあやかの味方をしてくれない
せめてこんな時こそは… こんな時だからこそ… ここでエースを引かせて欲しい
"ダイヤの5"
微妙なライン
あやかはいつもこんなのばかりなのだ…
心の中で自嘲した
「いっちっ!!」
「ギャッ!?」
気を抜いていた訳では無い
さやか姉のリスタートが早かったのだ
伸びてがら空きの土手っ腹に鋭いストンピングが炸裂する
胃液が口を突いて噴出した
咄嗟に腹を押さえて横を向く
「にぃっ!!」
「イタイッ!?」
今度はがら空きとなった脇腹
間隔が早く、息を飲む暇も無い
「さんっ!!」
「ヒィッ!?」
「しねっ!!」
「ウッ!?」
「穀潰し!!」
「ゲェェェ……」
内臓まで届く衝撃は、痛みを通り越して苦しみへと変化した
腹の中の何かがとても熱い
己の意志とは無関係に、身体が小刻みに痙攣しているのに気付いた
「!?」
そんな毒を浴びせられた芋虫の様にのたうつあやかの頭髪が、むんずと握られた
無理矢理半身を起こされる
「もうどうでも良いから早く死んじゃってよ~… 次は膝打ちね… はい、捲って……」
冷たく座ったさやか姉の瞳が、朦朧とするあやかの顔を覗き込んだ
「……ぅ… ……ぇ…… ぃ…」
「いいから早く捲って!」
しゃっくりが止まらなくなったあやかは、早く全てを終わらせたくて、膝元の一枚を無造作に捲る
"ジョーカー"
二人の動きがピタリと止まった
困惑に因ってだった
全く予想をしていなかったのだ
「……………………」
先に動いたのはあやかだった
さやか姉の側まで重い身を捩る
「!?」
そしてそのままさやか姉の膝元に顔を寄せて、その膝頭に接吻をした
「……しゃやか姉… 今までお世話になりましたのだ… 先にお母さんの所に… 行きますのだ……」
それから胸の前で手を合わせ、ぼこぼこに腫れた顔であやかはそう呟いた
その表情は、諦観の境地に達した殉教者と見紛う穏やかさであった
(お地蔵様みたい…)
さやかはその顔面変形した不細工加減と、柔らかな微笑みのミスマッチから、直前までの憤怒を忘れ、童心に返ったかの様な、そんな場違いでピュアな印象を胸に抱いた
あやかは観念した
さっぱりとした心境だった
上手く説明はできないが、ジョーカーが現れた瞬間、己の運命を悟ったのだ
無限で無敵のジョーカー…
その前ではキングやクイーンも中途半端な存在である
後何発と数えるより、いっそ死ぬまでと確定したこの方が、潔い気持ちになれたのだ
あやかは何となく、母に呼ばれた気がした
涙に歪んで見えた道化師の姿が、何故かあの夏の夜の美しい母の… 朝顔の浴衣の柄に重なったのだ
もう苦しまなくても、悲しまなくても良いのよ…
そんな母の声が聞こえた気がしたのだ
だからとても満たされた気持ちで、さやか姉の膝頭を待つ事ができた
静かに瞼を閉じたその心の内に、恐怖や怨念などの暗い感情は微塵も無く、ただただ初夏の青空の様に晴れ渡っていた
「…………フンッ!」
さやか姉が鼻を鳴らす音がした
「……う、運が良かったわね… ジョーカーはアンタの勝ちよ… 今度同じ事をしたら… その時は容赦しないから……」
そう言葉を継いでから、あやかの前からその気配が消えた
ドアは穏やかに開けられて、彼女の部屋に向かう御御足も踏み鳴らされる事は無かった
「…………うん?」
暫しの静寂の後、あやかはゆっくりと瞼を上げた
助かった、などとは思わなかった
「しゃやか姉… ありがとうなのだ……」
ただ、許してくれた慈悲深い次姉に対する心からの感謝を、出血の激しい口内で呟いた
さやかは許すつもりは無かった
だが、その口から母の所に向かうと宣われては、それ以上憎しみを叩き付ける事はできなかった
さやかとて母は愛しい存在なのだ
自らの手で、妹をその母の元に送る事はできないと思ったのだ