「なんだか大変だったみたいだにゃ? まだ痛むのかにゃ?」
肩を並べてあるくアーニャちゃんが、あやかの顔を繁々と覗き込んでから口を開いた
「う、うん…」
気まずそうに頷いてから、あやかは足を止め、アーニャちゃんに正対した
「……そんなにおかしいのだ?」
おつむの話では無い
おつむがおかしいのはあやかにも自覚がある
「……きっとみんな心配するんだにゃ……」
そう言われて、あやかは己の頬を撫でる
昨夜、さやか姉より賜った激しいお仕置き
その後遺症は、一晩の睡眠と僅か二枚の絆創膏では、到底回復できる物では無かった
あやかはこれでもまた、一応は人の子である
常人の類いに漏れず、寧ろその痕跡は一晩越した今こそ最高潮となっていた
全体がどす黒い痣となりパンパンに腫れたその顔は、最早クリーチャーに近く、あやかの唯一の長所と言って良い見て呉れの良さを完全に亡き物としていた
瞼はほとんど開かず、視野は限られ、足元の確認も覚束無い
痛みこそ大分引いたが、腫れは暫く引く事は無いだろう
「……あやか、今日は学校お休みするのだ……」
あやかはこれでもまた、一応は人の子である
そして小生意気にもお年頃である
こんな無様なお顔を人前に晒すのには、どうしても抵抗があるのだ
無論、お仕置きを受けたのは今回ばかりでは無く、顔を腫らして登校した事は数え切れない程あるが、流石にここまで酷いのは前列が無いのだ
学校に於いて、あやかは己をプリンセスという設定で通している
嘘をついている訳では無く、空想と現実の明確な区別ができないだけである
なので、姉達からお仕置きを受けているなどとは公言できない
プリンセスはそんな事をされない筈だからだ
だから顔を腫らす度に、"カブトムシに噛まれた"、"宇宙人と戦った"、などと理由を付け、クラスメイト達の心配と不審を躱してきたのだ
だが、流石に今日のは無理だ
今日のこれは、"象に踏まれそうになった筆箱さんを庇った"時より重傷である
誤魔化す理由が思い付かない
プリンセスとしての威厳を保つ為には、エスケープ以外に道は無いのだ
アーニャちゃんへのその宣言は、どうかそんなあやかの心中を汲み、適当な理由で雫先生やクラスメイトを納得させて欲しい… そんな意味が込められていた
「それじゃ、ボクもいっしょにサボるのにゃ」
「!?」
予想外の返答だった
驚くあやかの瞳に、人差し指を唇の前に立てて、悪戯っ子の様にウインクをして見せるアーニャちゃんの姿が映った
二人だけの内緒のエスケープ…
そんな意味にも取れるその仕草に、あやかの腫れ上がった顔が思わず綻ぶ
素直に嬉しい
独りぼっちで時間を潰すのは得意なあやかでも、親友とそれを為せるなら、その方が百倍も楽しい事は分かっている
ただ、これでは無断欠席になってしまう
そうなれば当然、まどか姉の所へ連絡が行ってしまう
風上家法にその記載は無くとも、学校をサボれば叱られるのは当たり前
激怒のまどか姉が脳裏に浮かぶ
昨夜の激しいお仕置きとも相まって、只でさえ原型を留めていないあやかの顔が曇る
「大丈夫にゃ その時はまたボクに頼ればよいにゃ」
まるでそんなあやかの心の声が聞こえたかの様にアーニャちゃんはそう呟いて、一足先に件の十字路を直進して行く
「………………」
無意識にその後ろ姿を見詰めるあやかに、アーニャちゃんは歩みを止めて振り返る
そして笑顔で小さく跳ねならが手招きをした
彼女の特徴である猫口が、何時にも増して愛らしく感じた
それであやかも決心した
「ど、何処に行くのだ!? おやつ… 何処かでおやつを買ってから行くのだ!」
立ち所に気分が高揚する
サプライズピクニックが始まった
(面度な事に巻き込まれた…)
それがアーニャの正直な感想だった
しかしこうなってしまっては、最早事の成り行きに身を任せる他は無い
硬く閉ざされた鋼鉄のゲート
今やカンパニーはその向こう側にいる存在全てを、体制に対する反逆者と捉えているだろう
そしてそのこちら側でそれを否定すれば、今度は裏切り者の烙印を押され、同胞達によって処断される事だろう
考えてみれば、運命の決定権は常に己の意志の範疇には存在しなかった
考えてみた事すら初めてだった
そしてそれは同胞達とて同じだと思っていたのだが、実際は違っていたのだ
否、彼女とて蜂起勢の憤りに理解が示せない訳では無いのだ
寧ろ事此処に及んでは、多分に共感さえする
年を越してから、砂糖の供給は目に見えて落ち込んでいた
何の不手際も無かった筈だが、カンパニーからは納得のいく説明などは無く、そこはかとない不穏な空気が蓄積されていくのは肌で感じていた
まさかこんな暴挙に出るとは思っていなかったが…
「同志アーニャ… 貴女にはクロッカスの花冠に挑んで貰いたいの…」
テクノステージ中の重要書類を掻き集めて燃やした篝火
不屈を誓う蜂起の象徴を皆で囲んだ夕餉の席
そこで革命指導部より、一人一人に持ち場や任務が与えられた
グレープフルーツの半切りカットに、山の様に砂糖を掛けたアーニャ
自身に向けられた言葉に、半年ぶりの贅沢を噛み締める様に堪能していた口と手が止まる
「…言わんとする事は分かるわ… だけど、これも皆の為… 革命を成功させる為なのよ…
どうか理解して……」
スプーンを咥えたまま、アーニャは視線を落として反応しなかった
そんな彼女の肩を叩いて、指導部の娘は隣へと移って行く
是非は無いのだ
結局の所、支配者がカンパニーから革命指導部とやらに移っただけなのだ
それに気が付いた
面度な事…
彼女が当初抱いた印象は、やはりそのまま的中したのだった
所詮底辺は何処であっても、ひたすらこき使われるだけの存在なのだと…
アーニャは煙突の林の中で生まれた
どちらも向いても、視界に収まるのは無数の煙突と、そこから吐き出される白煙のみ
そう言っても過言では無かった
白煙はいつもどんより澱んで垂れ込め、霞となり雲となり、いつも空を分厚く覆っていた
青空を見た記憶が無かった
『ブフォォォ… ブフォォォ…』
圧力調整弁から漏れる蒸気の音は、いつも怪物の寝息の様に聞こえた
その日の朝も、頭上を流れる水蒸気に見とれてしまっていた
白煙とは違う、その混じり気の無い純白が大好きなのだ
「あぁ…」
そして今日も背突かれて、慌ててヘルスチェッカーの前に立った
異常無し
それはそうだろう
おでこに当てるだけの聴診器では、煙突の吐き出す白煙の如く心の内に垂れ込める、重い影の存在に気付く事などあるまい
そんな事をその心の内に呟いて、ゲートを潜る列へと加わったのだった
甘くて冷たいブクブクのシュワシュワが、あやかの喉で弾ける
「ぷは~!」
味のあるリアクションをして、ペットボトルを隣のアーニャちゃんに手渡す
一本のジュースを回し飲みするのは、古式な盃の儀式同様、深い友情と強い連帯感を示す行為ではあるが、二人の場合は双方の小遣いの限界という側面もあった
「最後の一個かにゃ? はい、あやかちゃん…」
「い、いいのだ!? ……あ~ん!」
茸を模したスナック菓子の最後の一個を、大口に頬張るあやか
アーニャちゃんがプロデュースしたピクニックコース
杉林の御堂にお参りしてから、小川の小路を経て放牧場の側に出る
牛さんと小一時間戯れ、その先の駄菓子屋でパンとおやつの調達を済ませる
田んぼの畦道から林道に入り、暫く登って一本欅の丘に辿り着く
それからその頂上のベンチに仲良く腰掛け、遠く織平タウンを見下ろしながらのランチタイム
楽しい時間は瞬く間に過ぎて行き、今は暮れ泥む西の空を眺めながらのティータイム
「はぁ~……」
不意にあやかはため息を漏らした
東の空から迫り来る宵の闇と共に、暗い現実が頭を擡げるのだ
襟首を掴まれ、一時の夢の世界から現世へと連れ戻されるのだ
「仕方のない事だにゃ…」
肩を並べるアーニャちゃんが、沈み行く太陽を見詰めながら呟いた
「何事にも対価は必要なんだにゃ… お菓子やジュースがタダでは手に入らないにのとおんなじにゃ… 楽しい時を過ごしたら、それにもそれ相応の対価を支払わないと… にゃ?」
暫くその横顔を眺めていたあやかは、視線を再び夕焼けに空に戻し、ゆっくりと頷いた
学校を無駄欠席した事は、当然まどか姉の耳にも達しただろう
時計は持ち合わせていないが、多分門限の時間も過ぎている
忘れていた訳ではないが、心と身体が動かなかったのだ
このままずっとこうしていたいと思ったのだ
果たしてその対価は如何程の物だろうか…
ベビーカーの中で、紅葉の様な小さな掌を開閉させ、必死に歓迎の意思を示す赤ん坊
それを覗き込むアーニャは、己の掌をそれに合わせて、自身も再会の喜びを伝える
「暫く見ないうちに、随分大きくなった気がするのにゃ…」
「もうすぐ一歳よ でもまだ喃語も出てこないのよ」
白いブラウスに身を包んだ女性はベンチに腰を掛け、ハンカチを取り出して赤ん坊の鼻を拭った
ホトトギスの鳴き声が近くで聞こえる
「……余り良くないお話なんでしょ?」
赤ん坊を微笑みを向けたまま、彼女はそう切り出した
持ち前の感性の鋭さか、それともアーニャの無意識から溢れ出る影かの由縁か…
どちらにせよ、少しだけ気持ちが楽になった
「そんなに悪くはないんだにゃ…」
だが、咄嗟に口から嘘が出る
そしてそれを嘘ではない筈だと、自分自身に言い聞かせた
「今年の夏は暑くなるそうよ~」
ブナの木の緑から垣間見る濃い青空は、彼女の言葉を早くも裏付けているかの様だった
アーニャは暫し、その高く深い空の彼方に心を吸わせていた
「……それで、今回はどうやってお支払をすれば良いのかしら?」
彼女は今日初めてアーニャに正対した
「一つブーケを… ライラックでブーケを編んで欲しいんだにゃ…」
少しでも明るい文言を意識して並べた
「ふふっ 対価になる様な? 余程の分の悪い"編み物"みたいね」
言葉とは裏腹に、彼女の表情も明るかった
それに少しだけ救われた気がした
「楓ならきっと大丈夫なんだにゃ… きっと大丈夫だにゃ!」
アーニャの声は無意識に叫びとなり、それに驚いて赤ん坊が泣き出した
「あらあら…」
「ごめんにゃさいだにゃ…」
二人は顔を並べてベビーカーの彼女をあやす
「対価は支払わなくてわね… この子の為にも……」
大きな綿雲が空を行き、三人の頭上から陽の光を奪った
漸く就寝を許されたあやかは、ベットの中でアーニャちゃんに抱き締められ、その頭を優しく撫でられた
「本当に酷いお姉さん達なんだにゃ… あやかちゃんは何も悪くはないんだにゃ…」
優しい囁きに、枯れた筈の涙がまた溢れて来る
その涙を彼女はまた丹念に指で掬い、寄せた耳元に言葉を継いだ
「どうしてボクに助けを求めなかったんだにゃ…? ボクはもう見てられなかったんだにゃ…」
ぐすんと鼻を啜るあやか
「……だって……」
"対価"はやはり膨大な物だった
懸念通り門限を大きく破っていたあやかは、お姉達の帰宅にさえ間に合わなかった
玄関を開けると同時に、強烈なスラッピングをまどか姉より賜る
謝罪や釈明の間は無かった
弾かれ転がるあやかは、まどか姉のハイヒールを潰してしまい、それが原因で更に二発の往復ビンタを食らう
悲鳴を上げた事を理由に、更に三発を追加された
這う這うの体で玄関を上がれば、リビングから飛び出して来たさやか姉に強烈な脛蹴りを決められ、もんどりを打って廊下を転がる
「もう殺して~!!」
その叫びが風上家法第一条第三項、"あやかによる口答え、生意気発言の禁止"に抵触するとして、二人の姉からストンピングの嵐
「雫先生ぇ! 雫先生助けてぇ!!」
咄嗟の悲鳴も風上家法第二条第一項、"躾教育の口外禁止"の逸脱を企図したとして、まどか姉より久々の煙草焼き印を施された
閉じた瞼の上
間一髪、瞼を閉じるのがあと少し遅れれば、文字通りの目玉焼きが完成し、完全に失明する所だった
あやかを羽交い締めにするさやか姉の顔が、嬉々として輝き間近に見えた
「ブ~! ブ~! あやかは豚さんだブ~!」
気が触れた訳ではない
否、半ば触れたのだろう
四つん這いになって、狭い廊下の上を這い回る
鼻を鳴らしながら、 所々で床板をペロリと舐めた
人として、妹として容赦を得られないなら、もうこれからは豚でもよい
自分は哀れで醜い豚さんなのだ
だからこれ以上虐めないで欲しいのだ
何とか同情と恩赦を乞うため、そんな形振り構わぬ奇行に出たのだ
現象逃避の側面もあったかも知れない
「はははっ 豚っ!」
さやか姉にスリッパで後頭部を叩かれる
自分でも驚く程の良い音が響いた
「ブヒィィィ! ブヒィィィ!」
それでもさやか姉の愉しげな声色は、あやかの期待を満たすに十分だった
機嫌が良くなれば、お仕置きだってきっと終了になる筈
スリッパの衝撃は決して甘くは無いが、それでもその直前の殴打に比べれば、最早じゃれ合いのそれに等しい
更なる歓心を買いたくて、豚の演技に力が籠る
否、豚に成りきった
「そうね… この子所詮、豚でしたのよね…」
まどか姉にもスリッパで尻を叩かれる
自分でそうしておきながら、まどか姉の言葉は随分と胸に滲みた
どうしても長姉のその姿や言動に、亡き母を重ねてしまうのだ
それでも漸く見えて来た、お仕置きの出口
それに猛進するかの如く、あやか豚の嘶きは熱を帯びる
「ブヒッ! グガァガァ! ブヒッ! ブヒィィィ!!」
「豚! この糞豚! 出来損ない! ウンコ製造機!!」
「豚さんのお食事はこれから、野菜の切れ端で十分ですわね」
「ブヒッ! ブ~! …グスッ… ブヒッ!!」
「ははっ 豚と思えば、もう腹も立たないわ 二度と人間の言葉を喋らないでね!」
「母さまもこんな豚、何処で拾ってきたのかしらね… 売り物の価値もありませんでしょうに…」
「ブ… ブヒッ… うぅ… ズクン… ブ、ブ~… うぅ… グスッ… ううぅ……」
あやかはこみ上げてくる何かを、必死に宥め賺した
ここで豚を辞めてしまえば、お仕置きは再開されてしまうかも知れない
それでも焼け爛れた瞼の奥から、悲しみの一番搾りが溢れ出てくる
いったい自分は何時から、風上三姉妹の末っ子で居られなくなったのか…?
豚になった今夜では無い
ずっと昔から… あやかはお姉達の妹では無かった気がする
そしてそれには気付いていたのだと思う…
ただ、認めるのが怖かったのだ
「あ~あ、疲れた~… 今夜の事もあったから、明日は学校ズル休みしようかな~…」
「仕方ありませんわね 皆さんの手前、明日ぐらいはお休みなさいな」
「やった~! 流石はまどか姉、話が分かる~!」
「ふふっ そうね、明日はわたくしも有給を取りましょうかしら… どう、さやか? 明日は二人で久しぶりに映画でも…? 隣町まで行けば問題無いでしょ?」
「うん!! 行く行く! やった~! お昼は回転寿司が食べたいなぁ~」
「ふふっ たまには回らないお寿司もいいですわね」
「えっ!? ホント!? やった~! まどか姉、だぁぁぁい好き!!」
「さぁさぁ お茶でも入れましょう ドラマが始まりましてよ」
キャッキャッと子供の様に弾ませた声をやり取りしながら、二人の姉はリビングに消える
ほんの数分前の修羅場が嘘の様な、とても楽しそうで、とても幸せそうなその姿…
「………………………………ブヒッ……」
一つ小さく嘶いてから、あやかは前足を擡げ、痛む身体を引き摺り、二足歩行で階段を上がって行った
「…だって…… だってもうこれ以上は……」
支払いたくはない
学校をエスケープするだけでこの対価なら、それから逃れる為にはどれ程の何を支払うと言うのか…
「ボクだってそうにゃ… それはボクだって……」
胸元に埋まるあやかの頭頂に頬を押し付け、アーニャはポツリと呟いた
「…………でも……」